TPOをわきまえる
『いい子にして待ってろよ、すぐ戻るから』
誰もいない。
『いつもすみません、少しの間よろしくお願いします』
誰も来ない。
『とんでもない。急がなくても大丈夫ですよ。ね?』
『うん!』
未来のことなど誰にもわからないというのに、約束する意味がどこにあるというのだろうか。
みんな――みんないなくなってしまうというのに。
***
「ひろくん?」
顔色悪いよ、と柔らかな声が降りかかってきて、ようやく今どこで何をしているのか実感が湧いてきた。なんということはない、ただの通学路。
「……勉強のしすぎで頭が痛くて、な」
「ええっ」
伏し目がちに返す。りんこは目を見開いたかと思えば眉を下げた。様子がくるくると変わるのがおもしろいな、なんて思っていると、横からかばんが飛んできた。
「なにばかなこと言ってるの、ばかじゃないの」
「2回もばかって言うなよ」
「勉強のしすぎならとっくに、それこそ夏休みの間に倒れてるわよあんた」
投げたかばんを律儀に自分で回収しに行ってほこりを払うと、だまされちゃだめだよと茜はりんこに向かって声をかけた。曖昧に言葉を返したりんこはもう一度俺の方を見る。
「……それにしても、具合悪そうだよ。大丈夫?」
「……そうね。なにかあった?」
ふたりして顔を覗き込んでこようとする。どうにか顔をそらして避ける。
「なんでもねえよ。気のせいだろ」
ただほんの少し、夢見が悪かっただけだ。そんな言葉はすんでのところでのどの奥に飲み込んだ。
ついこの間始まったような気がした夏休みがあっという間に終わったと感じるのは毎年のことだ。それにしても今年の夏は密度が濃かったと思うのは気のせいではない。
8月の後半にやってきた敦典はとんだトラブルメーカーだったが、あの一件のあときちんとりんこに謝った。
『本当にどこか小さな隙間に入って取れなくなっちゃったらどうしようって思ってたの。だからよかった』
敦典の謝罪にりんこは思わずあほかとつっこんでしまいたくなるほどとぼけた笑顔を返した。しかしそれは政良にこってりしぼられ、俺に諭されたことを知っていたらしい彼女なりに考えた結果の言葉だったのだと思う。
なにはともあれ、敦典は少しずつたんぽぽ園のルールやあり方に慣れてきたようで、少しずつではあるがりんことも打ち解け始めている。相変わらず憎まれ口をたたくこともあるようだが、それも含めて弟ができたようだとりんこはほほえましく思っているようだ。
「アツくん寂しくしてないかな」
「そうだね、先生はいるけど」
「俺たちのうち誰もいないのははじめてだよな」
心配そうに息をついたりんこに、まあ大丈夫だろと声をかける。
「どうせ今日は始業式で帰るのも早いし」
「そう、だね」
寝不足に厳しい残暑の太陽がまぶしい。
「じゃあ、またあとでね」
校門をくぐり、自分の学年の昇降口に向かう茜とはそこで別れる。りんこと俺は偶然にも今年は同じクラスだ。それでも学校ではあまり話すほうではないので、園の中や人の少ない通学路に比べるとずっと口数少なく靴をはきかえ、近すぎず遠すぎない距離を保ちながら教室に向かって歩いていった。
「りんちゃんおはよ! 久しぶりだねー」
教室に入る寸前、自動ドアのように開いた扉から飛び出してきた女子生徒がぱっと笑った。
「あ、桜川も久しぶりー」
「おう」
「おはよ、遥ちゃん」
どこかへ向かう途中ではなかったのだろうか、古河遥はりんこの手を取って教室へUターンしていく。こうして教室に入ってしまえば、その中で俺とりんこが深く関わることはあまりない。友人と話しながらふわふわと笑うりんこをぼーっと眺めていると、後ろから強い力で肩を叩かれる。
「よー博基、おまえ今年は宿題終わった?」
「水戸」
へらへらと笑う水戸芳樹はそのまま肩に腕をまわしてくる。暑苦しい、とその手を払いのけるのに少し時間がかかっている間に他の生徒に邪魔だと笑われた。
「終わった、一応」
「えっ」
自分の席まで引きずられながらそう答えると、水戸は普段は糸みたいに細めている目を丸くさせた。
「は、嘘だろ?」
「さすがに今年やってないのはやべーだろ」
「はああああ?」
嘘だろ、と大げさにリアクションを取ってみせる水戸ははっきりいうと鬱陶しい。それでもなんだかんだで一番よく学校でつるんでいるのはこの男だ。
「おまえ毎年何かしら終わってねーじゃん! 作文は? ワークは?」
「毎年なんもしてないおまえには言われたくねーよ……どっちもちゃんと終わった」
終わったというより、やらざるを得なかったというほうが正しいだろうか。毎日スパルタで受験勉強をしていれば、ワークはいい復習材料になるとりんこは満面の笑みだったし、作文は政良に理論立てとはなんたるかを詰め込まれながらそれでも盆明けにはすっかり片付いていた。
「うわー、おまえ誰だよ、実は博基じゃねーだろ」
「俺が他に誰に見えんだよ」
呆れて言い返すもそれに返事はなく、一体何に嘆いているのかわからない水戸の愚痴はホームルームが始まるまで続いた。