夜明けのふたり
「ん、んむ」
「頼む、静かにしてくれ、っていうか今回まじで俺被害者……!」
さすがにここで叫ばれたら確実に俺は終わる。千葉センセには膝詰め説教の上で殴られるだろうし、政良や茜には一生冷めた目で見られる。どれも避けたい。目覚めたばかりのりんこに必死に小声で説得を続けた。
目を白黒させながらうなずいたのを確認して、そっと手を放す。りんこは深呼吸を繰り返した。
「……ひろくん、鼻まで塞ぐことはないと思う……」
「わ、悪い……」
苦しかったよ、と苦笑した彼女は俺を見て、なぜか顔を真っ赤にした。
「……りんこ?」
「な、な、ひろくん、なんで服着てないの」
「……おまえが手に持ってるのはなんだよ」
りんこは目をぱちりと瞬いて、手元にそっと目をやる。ようやく状況を理解したのか、ごめん、と小さく謝られた。黙って手を出せば、返ってくるTシャツ。それをさっと着て、居住まいを正した。外ではまだ雨が強く降っている。
「で、何でこんなとこにいるんだよ。おまえだってルール覚えてないわけないだろ」
「……うん」
同じフレーズを思い浮かべているのだろう。りんこはうつむいた。
「あの、じつはね、……怒らない?」
「聞いてねえのに怒るもなにも知るかよ」
雷を怖がる背景を無理やり問いただす気はまったくないが、ルール違反のリスクを冒してまでこの部屋に来た理由だけはきちんと聞かなければならない。
「……間違えたの」
「はあ?」
「おにいちゃんがね、いると思って……」
「敦典のとこだろ……」
「うん、いまならわかる……」
冷静になればわかってたんだけど、と恥ずかしそうにりんこは手で顔を覆った。
「だけど、茜ちゃんは寝ちゃうし、いつものピンも見当たらないし、なんか、落ち着かなくて……」
「ピン? ってあれか?」
彼女がいつも肌身離さずつけている、俺が何度直したかわからない、あの星がゆらりと揺れるピンを思い浮かべると、りんこはそっとうなずいた。さすがに寝ているときはいつもつけていないだろうと気にしてはいなかったが、そういえばいつも夜中になにか飲みながら話すときはピンもつけていたような気がする。それほど星のピンはりんこと一体化していて、もはやそれは彼女の一部ともいえるものだった。
「お風呂入るときに外したのは覚えてるんだけど、お風呂から上がってから見あたらないの。どこかの隙間に落としちゃったのかもしれない」
「……隙間、なあ」
はてあの脱衣所に、何年も住んで勝手のわかる彼女が、無意識でもそれを落とすだろうか。少し疑問に思いながらも相槌を打つ。
ぎゅ、と俺のタオルケットを握ったりんこはため息をついた。
「あれ、母さんの形見っつったっけ」
「うん。あれがあれば雷でもそこまでひどくならないんだけど……なんか、いろいろ思い出しちゃって、……怖くなっちゃった。おにいちゃんに慰めてもらおうと思ったんだけど」
「政良と間違えてすがりついたとか言うなよ」
「……や、なんか、おにいちゃんじゃないのはわかったよ。けど、なんか嗅いでるうちに落ち着いてきて」
けろり言ってのけたりんこにめまいがする。
「落ち着……?」
「不思議だよね。なんか眠れそうな気がする……眠くなって、きた」
「待てってここで寝たらやばいんだってばかじゃねえの」
もともとここから出てもらうつもりで起こしたのに、またぱたりとりんこは布団に横たわってしまう。勘弁してくれとその体を抱き起す。想像していたよりもずっと軽々持ち上がって、少しだけどきりとした。
「寝るなら部屋で寝ろって」
「やだ……雷鳴ってる……」
「おまえさっきまでの落ち着きはどうしたよ……」
「ひろくんがいるからかなあ」
すり、とタオルケットに頬を寄せて笑う。
「……いやまじで勘弁しろって。俺も怒られるんだからな」
「うーん……たしかに。間違いなく千葉先生からげんこつだね」
「それだけで済まないから怖いんだって」
それもそうだ。りんこはうなずいた。それでも握りしめたタオルケットを離しはしない。
「……でも、このままひとりで寝るのはやだなあ」
お互い一歩も引けない。さてどうしたものか。
少しだけ考え込んで、俺は口を開いた。
***
「一晩中勉強してたの? そりゃ眠いわけだわ」
翌日、朝ごはんの後でもりんことふたり眠そうな顔を見た茜は、理由を知って呆れた顔を見せた。
「ふたりとも眠れなかったんだよ、仕方がねえだろ」
あのあと出した折衷案は、共有スペースであるリビングで朝まで勉強をするというものだった。はじめのうちはただしゃべるだけのつもりだったのだが、そこまでするなら少し勉強しようとりんこが言い出したのだ。どこまでもスパルタな夏休みだ。
「まあひろの場合、今まで勉強してこなかった分のツケがまわってきたというか」
「うるせえ」
事実でしょ、と言われぐうの音も出ない。
「だからきょう午前中は少し休む……」
「夏休みだからってぐうたらしちゃってまあ」
「うるせえ……」
昨日の夜雷までなった空は、夜中の4:00を過ぎたころだったろうか、少しずつ小雨になり、朝になったらすっかり晴れていた。どうせ、朝の手伝いを終えたりんこもいまごろ部屋で眠っているのだろう。
本を読みながらからかってくる茜をあしらって部屋に戻る途中、ふたりの部屋から政良と敦典の声がした。
「……なんでこれをお前が持ってる?」
「……」
「黙っててもわからねえぞ」
静かな、低い声だった。
「政良?」
なんとなく気になって、奥の部屋のドアを開けてみた。政良と敦典が膝を突き合わせて座っている。敦典は珍しくしゅんとしている。どうしたんだ、と声をかけようとして、政良の手にあるものが光ったのがわかった。
「……それ」
「敦典が持ってた」
りんこのピンだった。昨日ないと言っていた、俺がいま寝不足の大きな原因ともいえるそれ。
「……敦典が?」
「布団たたもうとしたら転がってきたんだよ。りんがないって言ってたし、そのときこいつも知らないって言ってただろ。おかしいと思って」
で、どういうわけだ。敦典に向き直った政良の視線は冷たい。
ぐっと唇をかみしめてうつむいていた敦典は、意を決したようにようやく口を開いた。
「…………大事なものって、言ってたから」
「大事なもの?」
たしかにそれはりんこの何にも代えがたい大事なものだ。母親の形見だというのだから当然だろう。
「……だから、盗ったのか」
「そしたら、あいつ泣くかと思って」
目にもとまらぬ速さだった。ごつん、と敦典の頭にげんこつが落ちる。
「ま、さよし」
ことばが出てこない。なんといえばいいのか思い悩んでいる間に、もだえる敦典に政良は静かな怒りをにじませた。
「いいか敦典、いたずらを全くするなと言わない。だけど、していいことといけないことがあるってことは知っておけ」
「……はい」
「あれはあいつにとって、母親との唯一の目に見えるつながりなんだよ」
幼い敦典にもその真剣さが伝わったのだろうか。ごめんなさい、と謝る声は誠実だった。
「なあ敦典」
敦典の横にしゃがみこんで、ことばを選びながらゆっくり声をかけた。できるだけ委縮させすぎないように、なおかつきちんと伝わるにはどうしたらいいだろう。
ゆっくりと顔をあげた敦典はすっかり眉尻を下げてしまっている。
「別に嫌いなやつがいていいんだよ。嘘ついて『みんな好き』なんて言わなくていい。だけどな、その人に自分がされて嫌なことをするのは違う。嫌なことされて嫌な気持ちになるのは、その人だけじゃなくて、まわりの人もなんだ」
「嫌なこと……」
一気に言い過ぎただろうか。どうにか頭を働かせる。
「……おまえ、母さん好きか?」
「……好き」
こくり、わけもわからず敦典はうなずいた。
「じゃあその母さんがさ、そうだな、泣いてたらどう思う?」
「……悲しい」
だろ、とその頭をぐりぐりと撫でつけた。
「誰にでもそういう人がいるんだよ。だから、やっていいことといけないことはわかれって政良は言ってんだ」
うなずいたのを確認してから、頭に乗せていた手を離した。もういい加減眠気が限界まで来ている。あくびを噛み殺しながら政良と敦典の部屋を出る直前、小さな声が聞こえてきて足を止めた。
「……つに」
「あ?」
「……べ、つに、りん姉ちゃんのことも嫌いじゃない、よ」
「…………そうか」
顔を真っ赤にしている敦典に、そりゃよかったじゃねえかと返し、今度こそ部屋をあとにした。