いたずらとあの日の思い出
初日に髪を思い切り引っ張られてからというもの、どうやらりんこは完全に敦典のターゲットにされてしまったようだ。あれ以来、日に10回以上は髪をぐいと引っ張られているし、それでも思いどおりの反応を示さないりんこに腹を立てているらしい。どうにかして泣かせたいようで、毎晩悪だくみを考えていると政良が苦笑していた。
「まあ、放っておいて大丈夫だろ。あいつはすぐに泣くような奴じゃないし」
「だな。それに気持ちもわからなくはないし」
台所で男ふたり、気持ち悪くも台所に立って作業をしながらそんな話をする。別に好んでそうしたのではなくて、今日の夕飯当番が俺と政良になったためだ。
「かまってほしい、か」
「だろうな」
要は、母親にかまってもらえないさみしさをあいつにぶつけているのだ。あるいは、この園で最初に声をかけてくれたあいつが本当に信用のおける人物なのか試しているのかもしれない。深層心理はいろいろあるにしろ、滅多にないことではない。
「俺もここに来たばっかりのころ、茜に似たようなことしようとしたし」
「で、逆にこてんぱんにされたと」
「それが黒歴史なわけだ」
茜はたんぽぽ園の中でも一番の古株だ。生まれてすぐ園の前に捨てられていたのを園長先生が保護して、養子にしたのだということは知っている。どうして園長先生の家ではなくたんぽぽ園にいるのかはわからないが、ともかく彼女は物心ついたときからここにいるのだ。
そのあと、6歳のころに俺が入園した。当時の俺は粗暴者で、とりあえず誰かの優位に立ちたい気持ちがあった。茜は女だし、俺のひとつ年下だったのでいじめようとしたのだが、逆にいじめ返された。「あたしに勝とうなんて100年早い」と豪語されて、どちらかというとヒエラルキーは俺のほうが低いくらいだ。
その後、俺が9歳のころ、政良とりんこが俺たちの母校である野木小学校へ転入と同時に園にやって来た。りんこは見ているこちらがいらついてくるほどおどおどしていたし、政良は政良で貼り付けた笑顔でいとこを守らんとしていた。
「りんこが泣き虫でおどおどしてたのは確実にお前のせいもあると思うんだ」
守りすぎだろ、と溶き卵をフライパンに流しながら横目で見ると、政良は鼻で笑いながらきゅうりを千切りしていた。
「お前みたいなのがりんをいじめるんじゃないかと思ってな」
「その結果があの泣き虫じゃねえか」
「泣かせたことあったろ、おまえ。りんもお前が怖いってよく言ってたし」
ぐ、と言葉に詰まる。たしかに一度だけ本気で泣かせてしまったことはあったけれど、
「そのことについては謝ったっつの!」
「そうかい。まあ、いい意味で成長できたんじゃねえの。4人とも」
敦典はどうなるかねえ、と政良は静かにため息をついた。
「で、今日は何されたんだよ」
縁側に座ってごくり、麦茶を流し込んで尋ねる。その日の夜のことだ。
あたりにそこまで明かりのないこのあたりは、名所ほどではないにしろ、都会よりは星がよく見える。
「今日はまだ生きてるセミを持ってきたよ。飛びそうだから外に出してあげようねって言って一緒に持って行った」
「セミ……」
うん、セミ。ジジジジっていってるやつ。思い出したのか、りんこは笑いながら答えた。
「アツくん、またふてくされてすぐ部屋に戻っちゃった。なかなか心開いてくれないな」
「……おまえ、なかなか強いな」
彼女が虫は平気なことは知っていたが、それにしても一緒に外に持っていくとは。また麦茶を一口含んでから、りんこは答えた。
「だって、どうしてアツくんがそうなっちゃうのかはわかってるつもりだし。ここを乗り越えれば仲よくなれる気がするんだ」
確かにそれもあるが、頭でわかっていても実際にそれに腹を立てずに行動できる人間はいったいどのくらいいるだろうか。だからこそ、やはり彼女は強いのだと思う。
「私そんなに苦手なもの多くないしなあ……」
「昔はあんだけぴーぴー泣いてたくせに」
少しからかうように笑うと、それは言わないでよと彼女は唇を尖らせた。その拍子にしゃり、と髪に留められたピンのチャームが揺れる。
「昔は確かに怖かったよ? ひろくんとかひろくんとか」
「そりゃあ悪かったな、クソガキで」
一昔前の、なぜだか無性に彼女にいらついていた自分を思い出して苦笑する。
「でも、もう怖くないってわかったからいいの。……これ、直してくれたしね」
そっと彼女が自分の目元で揺れる星に触れる。
りんこが言うには、それは母親の形見だそうだ。何度かチェーンが切れてしまったそれを、俺はそのたびに直している。これでも手先は器用なほうで、細かいものをいじるのは好きだった。そういえば、彼女が俺を怖がらなくなったのは、初めてそのピンを直して以来だったような気もする。
「いつもありがとうね」
ふわふわと頬を緩ませる彼女に思わずいじらしいと感じてしまう。
「……別に。そのくらい、またいつでも直してやるから」
なんとなくその笑顔を直視できなくて、落ちるグラスの水滴を人差し指ですくいあげていると、ころりと鈴のように笑う声がする。
「頼りにしてます」
もうそろそろ寝ようか、最後の一口を飲み込んだ彼女が立ち上がる。
「眠れそうか?」
「うん。大丈夫だと思う。ごめんね、いつもつき合わせちゃって」
「別に。気にすんな」
胸に詰まったなにかを洗い流すかのように残りを飲み干して、ふと後ろのリビングにかかった時計を見る。時刻は11時を30分ほど過ぎたところだ。
「じゃあ、また明日。勉強頑張ろうね」
「へいへい。おやすみ」
「おやすみなさい」
洗ったグラスを逆さにおいて、お互い部屋の前で別れた。
ドアを開けた先には、いつも眠っているはずの政良がいなくて、敦典の部屋で一緒に寝ていることをようやく思い出した。ここ数日間で慣れたかと思ったが、いつも窮屈だと思っていた6畳の部屋がやけに広く感じる。部屋の隅から布団をずりずりと引っ張り出して、その上に寝そべった。
さて、明日はいったいなにをやらかしてくれるのか。とりあえず笑いごとで済まされることであることを願うように、じわりにじんだ汗をぬぐって目を閉じた。