小さな嵐
「茜ちゃん、無理しちゃだめだよ」
夕飯時、りんこは眉をひそめながら大根の煮物を箸でつついた。17:00前に政良と一緒に帰って来た茜の顔色が悪いのを問いただしたところ、飲み物を忘れて走った結果、軽い熱中症になったようだとのことだった。たまたま政良と高校の近くで会っていたので、とりあえずひとりでぶっ倒れるようなことはなかったようだが、りんこは心配しながらもぷりぷりと怒っていた。
「うん、ごめん。うっかり飲み物切らしちゃって」
どうせまた妙な貧乏性を働かせて、コンビニや自動販売機ではなくスーパーマーケットまで行こうとしたのだろう。高校生とはいえある程度医療に関する知識がある政良が一緒だったのはせめてもの幸運だろう。
そうしてみんなで食卓を囲んで夕食を食べていると、ふと千葉センセが声を上げた。
「ああ、来週からひとり新しい子が来るぞ」
唐突なその言葉にも、別段驚く者はない。ここはそうやって、子供が新しく来たり、時に出て行ったりするところなのだから。みんなめいめいにへえ、だのほう、だの相槌を打った。別にその新しい子供に興味がわかないのではなく、それがあくまで自然なことなのだ。
「どんな子?」
斜め前でご飯をのどの奥に飲み込んだりんこがたずねるのもいつものことだ。
「5歳の男の子。お母さんがしばらく入院するみたいで、その間……そうだな、1ヶ月くらい預かることになるな」
「そうなの」
それ以上食い下がることもなく、うなずいてりんこはまた夕飯を口に運んだ。
「男の子か。5歳ってことは、部屋どうするの?」
今度は茜がたずねる。俺と隣に座る政良はちらと目線を合わせた。
5歳でいきなり親元を離れ、しかも知らない土地でたったひとりで寝泊まりするのは心細いだろう。それをわかっているからこそ、同性である俺か政良のどちらかが同じ部屋になる。政良は子供があまり好きではないようだし、勉強に集中できる一人部屋を好む。ならば俺が同じ部屋になるか、と考えて口をひらこうとしたところ、予想外の声がかかった。
「俺が同じ部屋になる」
思わず口をぽかんとあけて政良の方を見た。
「おまえ、いいのかよ。一人部屋ほしがってたじゃん」
「いいもなにも、おまえ仮にも受験生なんだから。ガキがいるよりは集中できるだろ。先生、俺とその子別の部屋行くから」
わかった、とセンセはうなずき、政良は呆れたような溜息をついた。
「それにしても、いいのかよって、すごい今更の話だよな」
「は?」
「だって、もう何年もおまえみたいな猿……違うな、猿みたいなおまえと同じ部屋なんだ。今更5歳児と同じ部屋になったって、そう変わらないだろうよ」
その言葉に茜がぶはっと吹き出した。
「た、たしかに! 政良よくあれで受験乗り切ったよね」
俺みたいな猿って、つまりは俺の本質が猿だと言いたいのか。むかつくほど頭のいい政良のことだから、うっかり言い間違えてしまった、なんてミスはあり得ない。つまりただの嫌味だろう。ふたりを睨み付けると案の定、猿に睨まれても怖くないと茜にあしらわれた。
「じゃあ、政良が部屋を移動するってことでいいんだな?」
何事もなかったようにさらりと流すセンセは政良に確認をとって、エプロンからメモとペンを取り出すとそこに何やら書き込んだ。
「おまえらって俺の扱いひどいよな」
前から思っていたことだけどさ、と白米を飲み込みながらぼやけば、今に始まったことではないだの自業自得だのと散々に言われてさすがにへこんだ。りんこは斜め前でくすくすと笑うだけで何のフォローもないから、なおのことへこんだ。
***
ぺたり、はだしで廊下を歩いていると、その壁には一枚の紙が貼られている。古くなったり、めったにあることではないがけんかで破れたりすると不定期に書き換えられるが、書いてある中身はいつも全く同じことだ。いつも景色に紛れてしまうそれは、8年をここで暮らす俺にとってはもう目を閉じても言えてしまうほどに染みついた言葉であり、たんぽぽ園で暮らす子供たちにとってのルールである。
一、体調不良や学校の事情など、特別な理由がない限り、朝食は必ず家族そろって食べること
二、門限は小学生以下、中学生、高校生それぞれ17:00、19:00、21:00とし、22:00以降は異性の部屋は立ち入り禁止とする
三、家事は一週間ごとの割り当てに沿って、責任を持って行うこと
四、それぞれが敬いあい、助け合うこと
五、それぞれの家族事情を不必要に詮索しないこと
もちろんほかにも細かいルールはたくさんあるが、たんぽぽ園で暮らすにあたって、この「五か条」は一番重要なものだ。
あえて難しい言葉で書かれているのは、意味を理解する年上の子供が年下の子供たちに意味をかみ砕いて教えるためだと言われている。俺や茜、政良、りんこももっと年上のもう卒園した先輩たちにその意味をかみ砕いてもらって、時にはげんこつをくらいながら教えてもらった。
今度は俺たちが教える番となる。そんなたいそうな役目が果たせるだろうか。久しぶりに立ち止まってまじまじ眺めた、その隅がくしゃくしゃの紙にため息をついた。
***
次の日曜日の昼前、背中の丸まった「ばあちゃん」と呼ばれる女性に手を引かれ、小さな嵐はやってきた。
「よろしくおねがいします!」
城里敦典と名乗ったその嵐は元気よく挨拶をして、ぺこんと頭を下げた。その年相応の微笑ましさに隣でりんこがふわっと笑う。
「お手数おかけします。1か月ほどよろしくお願いいたします」
少し千葉センセと話があるというその「ばあちゃん」は、敦典に少し遊んでいるように言って手を放した。
「しばらく城里さんと話してくるから、敦典のこと頼んだぞ」
千葉センセに託される。りんこは真っ先に近寄っていき、人当たりのいい笑顔で声をかけた。
「はじめまして。笠間鈴子です。敦典くん、よろしくね」
敦典はじっとりんこを見つめ、にかっと笑う。
もう打ち解けはじめたのか、早いなと思わず感心した次の瞬間、思いがけないようで、ある意味「お約束」の展開が起きた。
「……え、っいた、どうしたの?」
――なぁんだ、つまんない。
悪ガキらしい、小さな目をきらりと光らせてその嵐は笑った。
「てっきり泣くんだと思った。女だし」
「敦典!」
ふわりとおろしていたりんこの髪を無造作につかみ、ぐいと引っ張った彼は、やはり一筋縄ではいかないのかもしれない。