6月8日 午前10時36分
日本史の授業が始まっている教室の中でコソコソ話す声は絶えずにいた。その内容はもっぱら「桐野実」についてだろうが。
真偽すら分からない噂程度の話題で盛り上がれるくらい、クラスメイトは「自殺」というワードに興味があるのだろう。
チョークを黒板に叩きつけるように板書している日本史の教師は私達のお喋りにまるで気が付いていないみたいだ。少しは注意してもらいたいものだけど、一々怒られるのも面倒臭いからやっぱりいいや。
教壇の上に立っている老い先短い爺さんの肺に水が溜まっていそうな声で話している戯言をつまらなそうに聴いている中で、視線を廊下側に向けた。
高良ユカリもつまらなそうに授業を受けている。その後ろの席には嘉川アヤの姿、対照的に真面目に授業を受けている。
「……」
今日のユカリはなんだか不機嫌な感じがした。なんていうか「自殺」って言葉に反応しているんじゃなくて、クラスメイトの喋り声に反応しているというか。
朝からしかめ面を保ったままのユカリは更に眉間にシワを寄せていて、もう少し頑張れば柳葉敏郎になれるんじゃないかってくらい。
ユカリがあからさまに不機嫌な態度を周りに振りまくことなんて滅多にないことだから、私は正直驚いている。自分自身の問題か、家族の問題かは分からないけれど、あんなに不機嫌だとこちらが嫌でも気になってしまう。
後ろの席にいるアヤもユカリの不機嫌さには何となく気が付いているみたいで、私に目配せで「どうしたの?」と聞いてきているみたいだ。当然心当たりがない私は、黙って首を横に振るしかないのだが。
授業が終わったら、ユカリに直接話を聞いてみようか。正直、あまり乗り気じゃないけれど。
間もなくして授業終了のチャイムが鳴った。ヒソヒソとした声は途端に音量が上がり、大声に教室全体が包まれた。
生徒の中には欠伸をしたり、大きな伸びをしたり、後ろの席の生徒に振り返って話をしている奴だっている。いかに先ほどの日本史が退屈な授業だったかを如実に表わしている。
私は自分の席から立ち上がると、ユカリの席に向かって歩き出した。ユカリは自分の机に突っ伏したままで動こうとしない。それを心配そうに見るアヤの姿。
「おはよ、ミカ。さっきの授業マジ退屈」
ユカリは顔を上げてしかめ面のまま日本史の授業に悪態をついていた。
「あの先生いつも自分の世界に入っちゃってるよね。歴史はロマンだとかよく分からないこと言っているけど、歴史って単なる先人のでっち上げた話を無理矢理信じ込ませているだけだよね」
私は空いていたユカリの前の席に座って、腕を組みながらユカリの言葉に返答した。
「そーそー。歴史なんかマジつまんないっつーの、てか何あの人。お墓フェチなの?」
ユカリは苦笑いをしながらさらに歴史を批判し続ける。ちなみに日本史の教師はことあるごとに歴史上の人物の墓について語っているから、お墓フェチじゃないのかとまことしやかに囁かれていたりする。
ユカリは最近染めたばかりの茶髪をかきあげている。かきあげた髪の間から覗く耳には赤いピアスが付いていていた。校則では茶髪もピアスも禁止なのだけれど、守っている生徒はあまりいない。
「……で、今日は何でそんなに不機嫌なの?」
これ以上余計な話をしていても本題に入れないと悟った私ははっきりユカリに聞いてみた。アヤはいきなり過ぎたみたいでオロオロとしている。
「ミカちゃん、そんないきなり……」
そんな心配そうな声を遮るようにユカリは声を張って話し始めた。
「まったくミカには嘘が通用しないよねぇ。ま、嘘をついていたわけじゃないんだけどさ」
皮肉めいた笑い。目は伏せたままで途切れとぎれに話し始めた。
「姉さんがさ、なんか仕事で上手くいっていないみたいでさ。昨日の晩はいつもお酒なんか飲まないクセに滅茶苦茶飲んでさ。私も付き合ったんだけど」
ユカリには姉がいる。物凄く美人で、優しい。地球上に存在する聖母マリアだと私は勝手に思っているのだけれど。ユカリの姉、ミユキさんは普段は酒なんて飲まない人だ。その人が酒を飲んでいるなんて、仕事で相当嫌なことがあったのだろう。ユカリが一緒に付き合ったっていうのは少しおかしい気もするけれど。
「ビール何本か空けたらさ、姉さん完全に酔いが回ったみたいでいきなり泣き出しちゃったんだよね。私が動揺しながらも訳を聞いたら、やっぱり嫌なことが重なっちゃったみたいで」
「職場で姉さんは結構周りから目の敵にされているらしいんだ。職場いじめみたいな感じで、しかもミスをしちゃったからそのことで相当責められているみたいで。しかもこの前の社内健康診断ではレントゲンと血圧測定で引っかかって、一昨日は数年間付き合っていた彼氏と別れたとか言っていた」
色々な問題が一気に降りかかっているといった感じだった。ミユキさんは厄年としか思えない。でも何より思ったのは高良姉妹は破局率が異常過ぎる。
「そんな風に悩みを打ち明けられたら、私だってどう対応していいか分からないじゃない。だから凄く悩んでいる途中」
ユカリの最後の言葉は消え入りそうなほどに小さくなっていた。
ユカリはミユキさんのことが本当に好きだ、いつもことあるごとにミユキさんの話題を持ってくるから大好きな姉で尊敬出来る人なのだろう。
確かにミユキさんは素晴らしい人だ。初対面の時には私にも凄く丁寧に優しくしてくれたし。だから逆にミユキさんが落ち込んでいる姿なんてあまり想像出来ずにいた。
そんなユカリの姿を見ても、なにも出来ない私達。アヤと顔を見合わせると、ユカリと同じように目を伏せた。