6月7日 午後20時56分
天気予報では今週末から雨が降るって予測している。じめじめした空気にうんざりしているけれど、この予報って本当に正しいのか疑わしい。
イヤホンスピーカーを外して椅子の背もたれに寄りかかった。背中から伝わる軋む音が、妙に煩わしい。
イヤホンから漏れる音は、現在世間をお騒がせ中の二股女天気予報士。雌犬のような声を上げているのが癇に障る、女性独特の同族嫌悪だ。「午後20時の恋人」じゃねえよ、お前の本業は枕営業だろうが。
真っ白い照明が勉強机全体を明るく照らしていた。消しゴムのカスや、机の木目のへこみがはっきりと見て取れる。そして照明スタンドのすぐ側に置かれている鏡に写った私の表情はしかめ面を崩さずにいた。
頭が痛い。気候のせいか、それともまた目が悪くなったのか。
私は分厚い眼鏡を机の上に置くと、引き出しから点眼薬を取り出した。1滴、2滴と眼球全体が冷たく潤んでくる。目を瞬かせて、零れた液体はすぐさまティッシュで拭った。
鏡から覗く裸眼の私の顔はぼやけていてはっきりとは見えないけれど、点した点眼液がまだ残っていて涙の跡みたいになっていた。
「……なんかだるい」
呟いた独り言は宙へと昇ってすぐに滞った。ため息。
帰宅時にアヤが「自殺」について話題を振ってきてからなんだか難しく考えすぎてしまっている。私自身も自殺しようとしたことがあるから、どうしても重ねて考えてしまうことがあるのだけれど。
アヤは親のプレッシャーが辛くて、逆に愛情を感じなくなってしまったと言った。親へのプレッシャーって所がいかにも大人しいアヤらしい。
私は中学の頃にクラスメイトにいじめられたから登校拒否と自傷行為を繰り返していた。でも今考えても、あの時の私の行動っていうのは、どこか間違っていない気がする。多分我慢して登校を続けていたらリストカットだけじゃ済まなかったと思うから。
「誰もが、色々なことを考えて悩んでいるんだよね」
悩まない人間なんて、真性の馬鹿を覗けばこの世のほとんどに存在しない。意識的か、無意識的か、それは分からないにしろ、きっと誰しもが悩んでいるんだと思う。
あんな性格の明るい高良ユカリだって、何かしらきっとある。
もう一回ため息をつくと、眼鏡をかけ直した。ぼやけた視界が一瞬にしてはっきりする感覚は、いつ見ても爽快だ。
私は膝元に置かれている本を手のひらで小さく撫でた。今日、図書館で借りてきたハードカバー。
心理学の本でフロイトの「超自我論」について書いてある。
人は生まれながらに自我を持っている。そして親は超自我によって、子どもの自我を潰さんとする。子どもは子どもで、その超自我に対抗するための力・親に甘えを求める力、イドによって親と対峙する。
現代社会は親の超自我、ないしは子どものイドが強すぎてバランスが上手く保てなくて、子どもの自我が発達していないんだとか。つまり今の子ども達は親の操り人形か、超わがままかのどっちかに二極化されているってこと。
これがなんだかアヤのケースに当てはまっているみたいに見えた。
親の言うことにプレッシャーを感じてアヤのイドが育たなくて、結果が「自殺未遂」なんじゃないかって。付け焼き刃の知識だから本当にそうかどうかは分からないけれど。
「ま、どうだっていいけどね」
そう、別にどうだっていい。過去にアヤが自殺した経験があろうが、私は彼女に対する見方を変えたりはしない。
私は今の嘉川アヤしか知らないから、昔の彼女なんて興味がない。
我ながらあっさりとした自己完結に自虐じみた嘲笑いが出てきた。通学路で自殺した男の人も結局他人じゃないか、私がとやかく考える権利はない。
随分と気持ちに整理が付くと満足出来た。その途端に睡魔が襲ってきて、半ば意識がないままベッドの中に潜り込むのだった。
完全に意識が途切れる瞬間に、中学生の私が見えた。真っ黒い世界の中で左腕をカッターナイフで抉っている場面、赤い鮮血が飛び散った瞬間に私の意識はぷっつりと途切れてしまった。