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宮廷の給仕係、実は全部知っております

作者: 久留トガ
掲載日:2026/08/12


 王宮の大広間は、晩餐会の熱気がまだ冷めきらないまま、後片付けの喧騒に包まれていた。長机に並んだ皿や杯が、次々と厨房へ運ばれていく。給仕係たちは黙々と手を動かし、貴族たちは三々五々、談笑しながら広間を後にしようとしていた。


 いつもと変わらない、晩餐会の終わりの光景のはずだった。


 晩餐会の後片付けが始まって間もなく、広間の空気が一変した。


「燭台とゴブレットが、一組足りない」


 家令の声が、静まりかけていた広間に響いた。銀器の点検を担当していた侍従が、真っ青な顔で燭台の並びを何度も数え直している。


「最後にあの卓を担当していたのは誰だ」


 視線が一斉に集まった先に、新人給仕のトビアスが立っていた。


「わ、私は、何も……」


 声が震えている。トビアスは王宮に上がって半年、まだ配膳の順番を間違えることさえある新人だった。それでも真面目に、誰よりも早く広間に来て、誰よりも遅くまで後片付けをしている姿を、ミラは知っていた。


「片付けの間、あの卓に一番長くいたのはお前だろう」


 家令が詰め寄る。トビアスは何も言い返せず、ただ首を振ることしかできなかった。額に汗が浮かび、握った両手が小さく震えている。半年前、右も左も分からないまま王宮に上がってきた頃と、同じ顔をしていた。


 周囲の使用人たちも、遠巻きに様子を見ているだけで、誰も口を挟まなかった。挟めば、次は自分が疑われるかもしれない。誰もがそう思っているのが、空気で分かった。


「盗んだのなら、正直に言え。今なら、まだ穏便に済む」


 その「穏便」という言葉が、どこか空虚に響いた。実際には、盗みを働いたと認めさせた時点で、トビアスの王宮での居場所はなくなる。分かっていて、家令はその言葉を使っていた。


「わ、私は、本当に何も……」


 トビアスの声が、涙で掠れ始めていた。


 ミラは、給仕の列の端に立ったまま、その様子を見ていた。誰も、ミラの方を見ていなかった。晩餐会の間じゅう、壁際で酒器を運び続けていた給仕係の顔を、覚えている貴族はほとんどいない。それは今夜に限ったことではなく、ミラが王宮に上がって三年間、ずっとそうだった。


(――違う)


 ミラは、心の中でだけそう呟いた。


---


 三年間、給仕として広間を出入りするうちに、ミラの目は、誰も気にしない場所にまで自然と向くようになっていた。


 誰がどのタイミングで席を立つか。誰の杯が誰より早く空になるか。誰の袖が、誰の卓の近くで不自然に膨らむか。誰にも注目されない立場だからこそ、見えるものがあった。


 今夜、セドリック――子爵家の三男は、晩餐の中頃、一人で広間を離れていた。戻ってきたとき、上着の内側が、出て行く前よりわずかに膨らんでいたのを、ミラは覚えている。


 あの時は、深く考えなかった。貴族が席を外すことは珍しくない。だが今、燭台とゴブレットの紛失を聞いて、ミラの記憶の中でその光景が急に鮮明になった。


 思い返せば、他にも気になる点はあった。戻ってきたセドリックの足取りが、行く前より心なしか速かったこと。誰かに見られていないか確かめるように、一度だけ振り返ったこと。給仕をしながら視界の端に映っただけの光景だったが、記憶に残っていた。


 一年前にも、似たようなことがあった。あのときも、セドリックが会場から姿を消した後、小さな騒動が起きた。結局、使用人の一人が疑われ、証拠不十分のまま曖昧に処理された。ミラはその使用人の名前も、まだ覚えている。誰も、彼女のことをその後気にかけなかった。あの一件以来、給仕係の間では「セドリック様が席を外されたときは、気をつけろ」という言葉が、誰からともなく囁かれるようになっていた。表立って誰かに伝えることも、記録に残すこともないまま、使用人たちの間だけで、その記憶は静かに受け継がれていた。


(言うべきかどうか)


 ミラは、列の端で拳を握った。


 使用人が貴族を告発することの重みを、ミラは知っていた。証拠もなく、記憶だけを頼りに声を上げることが、どれほど無謀か。もし間違っていたら。もし、誰にも信じてもらえなかったら。


 それでも、トビアスが処分されようとしているのを、黙って見ていることはできなかった。


---


「トビアス、お前は今日限りで――」


 家令が処分を言い渡そうとした、その瞬間だった。


「……恐れながら、申し上げてもよろしいでしょうか」


 声は、決して大きくなかった。それでも、広間の空気が一瞬で止まった。


 誰もが振り返った先に、ミラが立っていた。給仕の列の端、いつも誰も見ない場所に立っていたはずの女が、今、初めて全員の視線を集めていた。


「……お前は」


 家令が、戸惑ったように聞き返した。ミラの名前を、家令も覚えていないようだった。三年間、同じ王宮で働いてきたはずなのに。


「給仕係の分際で、何の話だ」


 近くにいた別の貴族が、眉をひそめて口を挟んだ。使用人が、貴族の処分の場に口を出すこと自体が、この場では異例だった。周囲の空気が、明らかに冷たくなった。


 それでも、ミラは視線を逸らさなかった。


 その場にいた王妃が、静かに視線をミラへ向けた。


「話してみよ」


 短い一言だった。だが、その声には、有無を言わせない静けさがあった。周囲の貴族たちが、一斉に口をつぐんだ。


「はい」


 ミラは一度だけ、深く息を吸った。三年間、こんなふうに広間の中央で誰かに注目されたことは、一度もなかった。


---


「本日の晩餐の中頃、セドリック様が席を外され、しばらくお戻りにならない時間がございました」


 ミラの声は、それまでとは別人のように淀みなかった。


「戻られたとき、上着の内側が、出て行かれる前よりわずかに膨らんでいるのを拝見いたしました。席は、燭台とゴブレットが置かれていた卓のすぐ近くでございます」


「な……使用人の戯言だ」


 セドリックが鼻で笑った。だが、その声には、わずかな動揺が滲んでいた。


「戯言と仰るなら、もう一つ申し上げます」


 ミラは続けた。


「一年前の秋、同じように銀器が一組行方不明になった際にも、セドリック様は同じ時間帯に席を外しておられました。あの時は、使用人の一人が疑われ、証拠不十分のまま処理されております」


 会場が、静かにざわめいた。


「その者の名は、ヨナと申しました。あの日以来、王宮を去っております」


「……そんな昔のこと、誰が覚えている」


 セドリックの声が、わずかに上ずった。


「私が、覚えております」


 ミラは、まっすぐにセドリックを見た。


「誰も気にかけない給仕係でしたので。かえって、よく見えることがございました」


 セドリックが、苛立ったように声を荒げた。


「証拠もない話を、いつまで続けるつもりだ。使用人風情が、貴族の名誉を貶めることが、どれほどの罪か分かっているのか」


 ミラは、握った拳に、もう一度力を込めた。ここで引けば、トビアスの立場は元には戻らない。


「証拠であれば、まだございます」


 ミラは、動じずに続けた。


「セドリック様は普段、賭博場に出入りされていると伺っております。此度の借金の返済期限が近いという噂も、使用人の間では耳にしております。厨房や馬丁の間でも、同じ話が出ておりました」


「そ、それは……」


 セドリックの顔から、目に見えて血の気が引いていった。


「使用人同士の噂話に、根拠などない」


「根拠がないと仰るのでしたら、お部屋をお調べいただければ、はっきりするかと存じます」


 ミラは、静かにそう締めくくった。それ以上、何も付け加えなかった。


 会場は、水を打ったように静まり返っていた。誰もが、セドリックの反応を見ていた。


 王妃が、静かに家令へ命じた。


「セドリックの部屋を、調べよ」


---


 衛兵が広間を出て行く間、重い沈黙が満ちていた。誰も動かず、誰も口を開かず、ただ結果を待っていた。セドリックは苛立たしげに腕を組み、視線を逸らし続けている。トビアスは相変わらず立ち尽くしたまま、事の成り行きを見守っていた。


 半刻ほどして、報告が戻った。


 セドリックの私室の衣装棚の奥、布に包まれた状態で、紛失していた燭台とゴブレットが発見された。傍らには、賭博場からの督促状らしき書状も一枚、見つかったという。


 報告を聞いた広間が、再びざわめいた。今度のざわめきは、先ほどとは明らかに違う色をしていた。


「馬鹿な……」「まさか、本当に」「あの給仕係の言った通りだったのか」


 セドリックの家の後見をしていた年配の伯爵が、苦い顔で首を振っている。セドリック本人は何も言い返せず、ただ顔を伏せていた。


 賭博の借金を返すため、換金するつもりだったという証言も、後になって同室の従者から得られた。


「ば、馬鹿な……こんな、使用人の証言だけで……」


 セドリックが連れて行かれる間際、ミラを睨みつけた。ミラは表情を変えず、その視線を静かに受け止めた。


 家令が、気まずそうにトビアスへ頭を下げた。


「……すまなかった。疑って悪かった」


 トビアスは、まだ状況が呑み込めない様子で、何度も瞬きをしていた。それから、ミラの方を見て、深く頭を下げた。


「あの、ありがとう、ございました……」


「あなたが何もしていないことを、私は見ていましたので」


 ミラは短くそう答えた。


 トビアスは、それ以上言葉が続かないようで、ただ何度も頭を下げていた。周囲の使用人たちも、少しずつミラの方を見るようになっていた。これまで誰も気にかけなかった給仕係が、急に輪郭を持って現れたような、そんな空気だった。


 中には、戸惑ったように囁く者もいた。


「あの子、いつもあんなに見ていたのか……」


「三年、同じ広間にいたのに、気づかなかったな」


「今度から、あの子の前ではうかつなことは言えないな」


 誰かが冗談めかしてそう言うと、小さな笑いが起きた。張り詰めていた空気が、少しずつ和らいでいく。


 ミラはその声を聞きながら、何も言わなかった。今さら注目されたところで、何かが劇的に変わるわけではないことを、ミラは知っていた。それでも、トビアスが無事でいられたことだけは、確かな事実として胸の中にあった。


---


 広間が落ち着きを取り戻し始めた頃、王妃がミラの前に立った。


「お前の名は」


 三年間、誰にも尋ねられたことのない問いだった。


「……ミラと申します」


「三年、仕えていたのだったな」


「はい」


 王妃は、しばらくミラを見ていた。値踏みするような視線ではなく、初めて誰かをきちんと見るような、静かな視線だった。


「今夜のこと、なぜ黙っていなかった」


 王妃が問うと、ミラは少し考えてから答えた。


「トビアスが、何もしていないと知っておりましたので。それを黙って見ているのは、違うと思いました」


「証拠もなく、貴族を告発することの重さは分かっていたか」


「はい。それでも、黙っている方が、後で後悔すると思いました」


 王妃は、小さく頷いた。


「よく見ていた。これからも、頼りにしている」


 その一言に、周囲の家令や貴族たちの表情が、わずかに変わった。使用人に対して、王妃自らこのような言葉をかけることは、めったにないことだった。


 ミラは深く一礼した。それ以上、何も言わなかった。言葉にできることが、あまりなかった。


 顔を上げたとき、広間の明かりが、いつもより少しだけ、はっきりと目に映った気がした。


 列の端に戻ると、トビアスが小さく手を振ってきた。ミラは軽く頷き返し、また片付けの続きに戻った。


 片付けを終え、使用人用の廊下を歩きながら、ミラはふと、一年前に王宮を去ったヨナのことを思い出した。あのとき自分に、今夜のような言葉をかけられる立場も、勇気もなかった。ただ見ていることしかできなかった自分を、ミラはずっと心のどこかで悔いていた。


 今夜、その悔いが少しだけ軽くなった気がした。


 誰も見ていないと思っていた三年間が、今夜だけは、少しだけ違って見えた。窓の外には、いつもと変わらない王宮の夜空が広がっていたが、見上げる自分の気持ちは、確かに昨日までとは違っていた。


 明日もまた、同じように給仕の列に並ぶ。誰にも気づかれない給仕係として。それでも、今夜のことは、きっと自分だけの支えになる。ミラはそう思いながら、静かに廊下を歩いていった。



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