傲慢な執着
もうすぐ、七時十三分発の普通電車がやってくる。いつも乗るこの電車。同じ列に並んでいる人も変わらない。私と同じように制服を着た高校生に、スーツ姿のサラリーマン。駅のホームにいると、個人の感覚がどんどん薄れていくみたいだ。私が集団に溶け出して、そのまま戻ってこられないような気がしてくる。
個性のない服装で、似たような表情で電車を待っている。今日一日、社会というものに向き合う準備をしている。たった五分待っていただけなのだけど、長い間自分を失っていたみたいな倦怠感に襲われる。
やっと到着した電車に乗り込み、空いている席に座る。何駅か過ぎてから、ふと顔をあげた。いつのまにか、私の周りはスーツと制服でいっぱいになっていた。それを見るのがだんだん嫌になってしまって、ふと窓の外を見ようとした。
季節は梅雨なのに今日は快晴で、私を攻撃するミサイルみたいに、太陽の光がさしていた。それと対称的に、窓に映った私の眼がとてつもなく真っ黒で、驚き、急に怖くなって、思わず悲鳴をあげそうになった。救いようがないくらい漆黒で光がない。街灯がひとつも無い田舎道のようで、どこまでも闇が広がっていた。きっと朝起きたばかりで目が覚めていないのだろうと自分を必死に納得させようとしたけれど、私の脳裏にはあの黒く濁った汚い瞳が強く焼きついていた。
私の高校は、最寄り駅から徒歩十五分くらいの場所にある。人の流れに沿って改札を抜けた後、一人きりで日傘をさし学校へ向かう。友達と楽しそうに登校している人のことを少しだけ羨みながら、早歩きで進んでいく。下を向いて歩く癖を早く克服したいなと思いながら、今日も断念して、日傘の作る影だけを見つめて歩いた。
私はずっとこうなのだ。何も変えられなくてつまらない。一人で歩くのはやっぱり良くない。思考が自責に向かっていって、気持ちがどんどんと滅入ってしまう。
教室に着くともうクラスの半分くらいの人は来ていた。時間の過ごし方は人によってさまざまで、参考書を開いて勉強をしたり、大盛り上がりで昨日の歌番組のことを話したりする人もいる。私は静かにドアの近くの自分の席に座り、ぼーっと窓の外を見つめていた。
「おはよーーー!」
この世の闇を全部吹き飛ばすような明るい声が聞こえた。教室の入り口がスポットライトのあたったときみたいにきらきらしている。さっきまでの暗い気分から一転、真っ暗な色のない世界から、急にカラフルな明るい世界に引っ張りだされたような気分になる。窓から見える青が鮮明で、朝特有の空気が晴れやかで、暖かな日差しが教室を照らしている。私は嬉しくなってその声の方を向き、挨拶を返す。
教室に入ってきたのはひとりの少女。彼女はまっすぐな綺麗な髪を一つに束ね真っ赤なリボンをつけていて、それをさらさらと靡かせている。くっきりとした二重まぶたの目をきれいに細めて、神様が繊細に作ったような極上の笑みを浮かべている。
思わず目を奪われる。彼女の瞳は、カラコンもしていないのに宝石みたいに輝いていて、夢みたいに思えた。教室中、いやこの世の全てを支配している様に思えるくらい皆が彼女に釘付けだった。なんて美しいのだろう、どうしてこんなに眩しいのだろうと、隣に座った彼女を見つめていた。そして彼女のいつもより火照っている頬に気づいた。
すると彼女は、
「今日寝坊しちゃってさー! めちゃ走った!!」
と少し照れた様子で話し始めた。私がそれに返事をするよりも前に、人気者の彼女はもう他のクラスメートに囲まれていて、それに割り込むことも出来ず私は鞄の中から本を取り出した。
本を開いてみるけど、私の心の中は彼女でいっぱいだ。本を読んでいるフリをしながら、彼女とクラスメートがする昨日のドラマが面白かったとか、今日の英語の単語テストがヤバいとかのたわいもない会話を朝礼のチャイムがなるまで聞いていた。
先生が入って来て全員が自分の席についた。何か先生が今日の連絡をしているようだが、ひとつも頭に入ってこない。私は彼女の横顔を見つめるのに忙しいのだ。彼女の素晴らしさを讃える言葉が足りなくて、もっとふさわしい言葉で彼女を形容したいのに上手くできない自分を呪ってしまう。
ふと、こんなに素敵な彼女を見ているのだから、朝の電車で見た私の真っ黒な醜い眼もいくらかマシになっているかもしれないと思いついた。いや、きっとそのはずだ。そうであるに違いない。だってこの美しさは確実で絶対だ。永遠に彼女の可愛らしさ、まばゆさに触れていたい。この空間の音が全て消えていく。この世界に私と彼女、たった二人だけになったみたいだ。
最近の私の毎日は、彼女の観察ですぐに終わってしまう。一瞬のうちに放課後になって、会えない時間は、人の一生と同じくらいの長さに感じてしまう。案の定、今日という一日を有効に活用できず、今日の帰りのホームルームはすでに終わっていた。私は一人、茜色の教室に取り残されていた。
彼女が私だけを見てくれたらいいのに。恋情によく似たこれは、そんな甘く切ないものではなくて、私の劣等感と羨望から来る醜くしつこい独占欲。可愛くて、優しくて、明るい、まさに太陽みたいな彼女のことを好きな人はたくさんいて独り占めはできっこない。それに私なんてたまたま席が隣なだけだ。他と比べて仲が良い訳でもない。彼女にとって私はただのクラスメートだろう。
だけど、だけど!
それでも彼女が私を選んで、特別にしてくれるかもと期待をしてしまう。一縷の希望に縋っていたくなる。勘違いをしてしまう。彼女に笑いかけられると存在が肯定されているようで、ずっと見つめていたくて、もしかして麻薬なのではないかとすら思う。
しかしその気持ちとは反対に、ずっとそれに触れていると、私の中の黒く暗く重たいものがもう耐えていられないと叫んでいるのが分かる。脳裏に浮かぶ光のない私の眼が襲ってくる。彼女の明るさは私には眩しすぎて苦しくなる。彼女のことが大好きなのに、一緒に並んでいる未来は私には思い浮かびそうにない。自分には不釣り合いだって痛いほどわかっている。
でもクラスメートが彼女と話しているのが、彼女の笑顔を受け取っていることが耐えられなくて、どうしようもなく許せない。全員に一通りの愛情を注ぐ彼女が憎らしく思えてしまう。私なんかと思うくせに、自分を特別扱いしてほしいだなんて、間違っていると思うが、この気持ちをどうにも出来ず、不完全燃焼のまま抱えている。
私が彼女に魅せられたのは、二年前のあの日。運命の瞬間は、入学式が終わった昼下がり、もう帰ろうとしていた時だった。正門近くの桜の木の下、桜の花びらが舞う中、優雅に空を見上げる彼女を見たのだ。彼女の姿は、新しい日々への不安や緊張も、知らない世界への期待や喜びも感じさせなかった。上手く言葉に表せないけれど、もっと複雑な何かだった。
でも、凛としているのにどこか儚くて、人間味を必死に持たせた人工物みたいで、奇妙だけれど、心地良く、変な感覚を覚えたことだけは確かだ。矛盾しているこの感覚は正解なのだと直感的に理解した。あの日の衝撃と、興奮は今でも手に取るように思い出せる。
二年間、私は彼女と別のクラスだった。最後の望みであった今年、同じクラスにそして、隣の席にもなれたのは運命かと思った。彼女は私の理想そのもので、私の持っているもの全て捧げても足りないくらいひたすらに愛している。それは宗教に似ていて、熱狂的な信仰をもっている。どこか偏った不健全な感情だと自覚している。
「世界中が敵になっても私だけが味方だから。」
みたいなよく聞く軽い言葉では満足できなくて、「彼女の敵となるものは全て殺してしまおう。」と断言出来るくらい私の世界は彼女中心に回っている。
自分のそれに気づいた時は深い後悔の念に苛まれ、絶望した。ただのクラスメートにそんな重たい気持ちを抱くなんて私は狂っているのだと思ったのだ。でも、仕方の無いことなのかもしれない。どんなに上から目線で、他をバカにしていても、人間は圧倒的な神の前では無力だ。それは昔からの理である。私にとっての神が彼女であっただけなのだ。
ああ、私の女神様。今日も心の中だけでお慕いしております。あなたに決して迷惑はかけません。私は低俗なあいつらとは違うのです。だから、どうか、私の愛を認めてくれないでしょうか。




