第七章 自覚した王子は余計にうるさい
祭典が終わってから、セドリックの様子がおかしかった。
おかしい、というのは語弊があるかもしれない。正確には——余計にうるさくなった。
月曜日。廊下でレティシアを見かけるなり「その歩き方は遅い」と言った。
「歩き方に問題がありますか」
「姿勢が悪い」
「そうですか」
「そうですかじゃない。公爵令嬢だろう」
「善処します」
「善処って何だ」
(八歳のときと同じことを言っている)
レティシアは内心で遠い目をした。
火曜日。食堂で昼食をとっていると、向かいに座ったセドリックがレティシアの盆を見て「それだけか」と言った。
「はい」
「足りないだろう」
「十分です」
「十分じゃない」
「私の食欲の話ですが」
「黙れ」
セドリックが立ち上がって、何かを取りに行った。戻ってきたとき、盆にパンが増えていた。
「……殿下、これは」
「余った」
「余った、とは」
「余ったから置いた。それだけだ」
レティシアはパンを見た。余ったにしては、焼きたてで温かい。
(購買部で買ってきた)
絶対そうだ。しかし指摘する気にはなれなかった。
「……ありがとうございます」
「感謝するな」
「では——」
「食え」
レティシアはパンを一口食べた。美味しかった。
水曜日。図書館でレティシアが調べものをしていると、隣にセドリックが座った。いつものことだ。しかし今日は本を開くなり「お前、目が悪くなるぞ」と言った。
「そうですか」
「そんな小さい字を読むな」
「必要な資料なので」
「要約しろ」
「要約できない内容なので」
「……どんな内容だ」
「魔法理論の応用です」
セドリックが少し間を置いた。
「……見せろ」
「はい?」
「どこが難しいんだ。見せろと言っている」
レティシアは本を差し出した。セドリックがページをめくる。少しして「ここは——」と説明し始めた。
気づけば一時間、二人で本を読んでいた。
木曜日。演習場でリリアーヌと練習していると、セドリックが来て開口一番「お前の安定核、また歪んでいる」と言った。
「昨日より悪いですか」
「悪い」
「どこがですか」
「全部だ」
「全部は困ります」
「……右側が特に悪い。意識しろ」
結局また三人で練習することになった。
金曜日。朝の廊下でリリアーヌと並んで歩いていると、後ろからセドリックが追いついてきた。
「クラーレ」
「殿下、おはようございます」
「昨日の術式、少し改善されていたな」
「ありがとうございます」
「まだ甘い」
「精進します」
「……まあ、悪くはなかった」
それだけ言って、セドリックは先に歩いていった。
隣でリリアーヌが「ふふ」と笑った。
「何ですか」
「なんでもないです」
「笑っていましたが」
「笑ってないです」
笑っていた。レティシアは追及しなかった。
◇
一週間を振り返ると、セドリックの絡んでくる頻度が祭典前より明らかに上がっていた。
文句ばかりだ。しかしよく見ると——文句を言いながら、全部何かをしてくれている。パンを買ってくる。本を一緒に読む。術式を指摘してくれる。
(なんなんだ、この人は)
レティシアは寮の窓辺に腰かけて、一週間を振り返った。
ゲームの知識と照らし合わせても、この展開は想定外だった。セドリックはこの時期リリアーヌとの距離を縮めているはずなのに、現実のセドリックはリリアーヌよりレティシアに絡んでいる。
(でも、ヒロインへの好意が育ちながら、婚約者への監視も続けているだけかもしれない)
そうだ。それだけだ。
(……でも、パンは監視に必要ないよな)
その考えを、レティシアは頭の隅に追いやった。
◇
翌週の月曜日、昼食の席でリリアーヌが急に遠い目をした。
「……ノアも今頃お昼食べてるかな」
「……ノア?」
リリアーヌがはっと我に返った。
「あ、故郷の幼馴染みです」
(待て)
レティシアの頭の中で、警報が鳴った。
(ノア? そんなキャラクター、ゲームに出てきたか?)
記憶を探る。リリアーヌの関係者——家族構成、学院での友人、攻略対象との絡み——全部確認した。しかしノアという名前は、どこにも出てこない。
(いない。ゲームに、いない)
「……知りませんでした。そういう人がいたんですね」
「言ってませんでしたっけ」
「はじめて聞きました」
「そうでしたか!」
リリアーヌが少し照れたように笑った。
「昔からよく一緒にいて、喧嘩もよくして……学院に来てから会えてないので、ふと思い出してしまって」
(ゲームにいないキャラクターが、ヒロインの人生に関わっている)
それはつまり——シナリオが、もうとっくに変わっているということだ。
(いつから? どこから?)
「……文は送れるのでは」
なんとか声を出した。
「送ってるんですけど、なかなか返事が来なくて」
リリアーヌがパンをちぎりながら言った。
「ノアって不器用で、気持ちをうまく表せないタイプで。でも根はいい子なんです」
(不器用で気持ちをうまく表せない……)
レティシアは何かを思いかけて、止めた。
「……その人のことが、好きなんですか」
「好き……? どういう意味ですか?」
「幼馴染みとして、ではなく」
「え」
リリアーヌが固まった。
「そんな、ノアは幼馴染みですよ。ずっと一緒にいたし、会いたいのは当然で……」
「会いたいと思う人が、返事を心待ちにしている人が、好きな人ではないんですか」
リリアーヌがまた固まった。今度は少し長かった。
「……先輩って、たまに鋭いですよね」
「そうですか」
「どきどきしてきました」
「自覚がなかったんですか」
「……なかったかもしれないです」
リリアーヌが頬を赤くしながらスープを一口飲んだ。しばらく沈黙が続いた。
「……じゃあ先輩も答えてください」
「何をですか」
「殿下のこと、どう思ってるんですか」
「その前に聞いてもいいですか」
「はい?」
「リリアーヌは——殿下のことをどう思っていますか」
リリアーヌが首を傾げた。
「殿下ですか?うーん」
リリアーヌが少し考えた。
「怖い人だと思ってたんですけど、一緒にいると全然そんなことなくて。不器用だけど真面目な人だなって」
「好きではないんですか」
リリアーヌが目を丸くした。
「好き……? うーん、どうでしょう。殿下は格好いいと思いますけど……」
しばらく考えて、首を振った。
「でもなんか、先輩といるときの殿下しか知らないんですよね。先輩がいないときの殿下、全然違う気がして」
「どう違うんですか」
「なんか……つまらなそうというか」
リリアーヌが笑った。
「先輩といるとき、怒ってても生き生きしてるんですよね、殿下」
レティシアは黙った。
(生き生きしている)
怒りながら生き生きしている。それはどういう状態なのか。
「だから多分、私は殿下のことそういう意味では好きじゃないと思います。ノアのことを考えたときとは、全然違う感じがするので」
「……そうですか」
(ヒロインが、セドリックを好きではない)
それはつまり——ゲームのシナリオから、完全に外れているということだ。
レティシアは静かに、その事実を飲み込んだ。
「先輩はどうですか? 殿下のこと」
「……婚約者です」
「それは知ってます。そうじゃなくて」
「……よくわからない人だと思っています」
「それだけですか」
「……今のところは」
リリアーヌがじっとレティシアを見た。何か言いたそうな顔をしている。しかし今日は踏み込んでこなかった。
「……お互い、不器用な人のそばにいるんですね」
「私は別に——」
「先輩、殿下に文句言われるたびに困った顔しながらも、ちゃんと答えてますよね」
「それは礼儀として——」
「嫌いな人の文句に、あんなに丁寧に答えませんよ」
レティシアは返事ができなかった。
(嫌いか、と問われると——)
嫌いとは言えなかった。八年前から知っている。口が悪くて、思い込みが激しくて、素直じゃない。でも——パンを買ってきて、本を一緒に読んで、術式を毎日確認してくれる。
(嫌いではない)
それは認められた。でもそれ以上のことは——
「……考えすぎです」
レティシアはそう言って、スープを飲み干した。
リリアーヌが小さく「そうですかね」と呟いた。
その声が、なぜか頭の隅に残った。
◇
その夜、レティシアは寮の窓辺で一人考えた。
ゲームにいないキャラクターをヒロインが好きになっている。ヒロインはセドリックを「そういう意味では好きじゃない」と言った。
(シナリオが、完全に変わっている)
ではセドリックはどこへ向かうのか。婚約破棄してヒロインと結ばれる——それがゲームのシナリオだった。しかしヒロインがその気でないなら、セドリックは——
(では、なぜセドリックはあんなに絡んでくるのか)
パンを買ってくる。本を一緒に読む。術式を確認する。怒ってても生き生きしている——リリアーヌがそう言った。
(まさか)
考えかけて、レティシアは首を振った。
(ない。そんなことはない。シナリオが変わっていても、私はその対象にはなり得ない。悪役令嬢なんだから)
でも——
(シナリオが変わっているなら、悪役令嬢という役割も、もう意味がないのでは)
その考えが浮かんだ瞬間、レティシアは思考を止めた。
(考えすぎだ)
窓の外を見た。夜空に星が散らばっている。
(明日になればわかる。今日は寝よう)
しかし結局、その夜はなかなか眠れなかった。




