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第五章 婚約者として当然のことだ(本人談)

 縁談の話を父から聞いたのは、週末に屋敷へ戻ったときだった。


 「隣国のヴェルナー侯爵家から、お前に話が来ている」


 夕食の席で父がさらりと言った。レティシアはスープを一口飲んでから、静かに答えた。


 「王子殿下との婚約はどうなりますか」


 「仮の約定だ。ただ先方も承知の上で、王家にも話を通してきているらしい」


 レティシアは少し考えた。


 (ヴェルナー侯爵家……ゲームに出てきたか?)


 記憶を探ったが、該当するキャラクターが出てこない。シナリオに関係のない家なら、嫁いでも破滅エンドには繋がらない可能性が高い。


 しかし。


 (知らない相手のところに行くのは、リスクが読めない)


 セドリックは口が悪くて素直じゃないが、八年分の挙動はわかっている。未知の相手より、把握できている相手の方が対処しやすい。それに——シナリオ通りなら、どうせ婚約破棄される。それまでは現状維持の方が安全だ。


 「少し考えさせてください」


 レティシアはそう答えて、スープの続きを飲んだ。


  ◇


 月曜日の朝、講義棟へ向かう廊下でセドリックに呼び止められた。


 「クラーレ」


 振り返ると、セドリックが立っていた。腕を組んで、眉を寄せて、いつもより明らかに機嫌が悪い。


 「殿下、おはようございます」


 「縁談の話、聞いた」


 レティシアは内心で舌打ちした。


 (王子にまで話が入ったのか。早い)


 「……そうですか」


 「そうですか、じゃない。返事はしたのか」


 「まだです」


 「断れ」


 開口一番それだった。レティシアは内心で首を傾げた。


 「理由をお聞きしてもいいですか」


 「婚約者がいる身で他家の縁談を受けるのは筋が通らない」


 「仮の婚約ですが」


 「仮でも婚約は婚約だ。筋の話をしている」


 筋の話。レティシアはセドリックを見た。腕を組んでいる。眉間に皺がある。声に熱がある。


 (筋の話にしては、怒り方が熱い)


 純粋に筋論を言っているにしては、感情が滲みすぎている。しかし何に怒っているのかが、レティシアにはよくわからなかった。


 (……王家に話が入った以上、婚約破棄の前に他家に取られると体裁が悪いということだろうか)


 「かしこまりました。父に伝えます」


 「ちゃんと断るんだろうな」


 「はい。もともと乗り気でもありませんでしたので」


 「……なぜ乗り気でなかった」


 「知らない方のところより、勝手がわかっている方の方が対処しやすいので」


 セドリックの顔が、微妙に動いた。


 「……対処、か」


 「はい」


 「俺のことを、対処する相手だと思っているのか」


 「失礼でしたか」


 「……いや」


 セドリックは視線を逸らした。何か言いたそうな顔をしているが、言葉が出てこないらしい。


 「では講義に遅れますので」


 「待て」


 また呼び止められた。


 「……お前、本当に俺のことが怖くないのか」


 予想外の質問だった。レティシアは少し考えた。


 「怖くないとは言いません。ただ怖いからといって、何かが変わるわけでもないので」


 「……そうか」


 それだけ言って、セドリックは歩き出した。


 レティシアはその背中を見送りながら、今の会話を整理した。


 (怖くないのか、と聞いた)


 監視している相手に怖くないかと聞く。それは——どういう意図なのか。


 (ヒロインへの嫌がらせを牽制しているということだろうか)


 そう結論づけて、レティシアは歩き出した。


  ◇


 昼食は一人で食べるつもりだった。


 食堂に入り、窓際の席に盆を置いた瞬間、後ろから声がかかった。


 「先輩! ここいいですか!」


 振り返る前からわかった。この声はリリアーヌだ。


 「……どうぞ」


 「やった!」


 リリアーヌが勢いよく向かいに座った。いつものことだった。最初は「ファーレン家かモーリス家に声をかけなさい」と言ったはずだが、気づけばこうなっている。抵抗する気力も、もう残っていない。


 「先輩、難しい顔してますね」


 「そうですか」


 「何かありましたか」


 「……少し、考え事をしていました」


 「殿下ですか?」


 レティシアは少し間を置いた。


 「……なぜそう思うんですか」


 「朝、廊下で殿下と話してるの見ました。殿下、すごく機嫌悪そうでしたけど」


 「……縁談の話が来ていて、断るよう言われました」


 「縁談!」


 リリアーヌの目が丸くなった。


「先輩に?」


 「はい」


 「それで殿下が怒ってたんですか」


 「怒っていたのかどうか……筋の問題だとおっしゃっていました」


 「筋?」


 リリアーヌが首を傾げた。


「でも先輩はどうしたいんですか?」


 「断つもりです。もともと乗り気でもなかったので」


 「じゃあ殿下が言わなくても断ってたんじゃないですか」


 「……そうですね」


 「なんで言いに来たんでしょうね」


 リリアーヌがにっこりした。


 「不思議ですね」


 「……そうですね」


 レティシアは繰り返した。


 確かに不思議だった。筋の問題なら、レティシアが自分で断れば済む話だ。わざわざ言いに来る必要はない。


 (でも、何か別の理由があるとしたら——)


 (いや。シナリオ的に考えれば、王家の体裁の問題だ。それだけだ)


 レティシアはパンを一口食べた。


  ◇


 次の日の夕方、演習場の帰り道でセドリックと鉢合わせた。


 「縁談の件、父に伝えました」


 レティシアが言うと、セドリックは短く「そうか」と答えた。


 「ご報告まで」


 「……ちゃんと断るんだろうな」


 「父に二言はありません」


 「そうか」


 「では——」


 「術式の調子はどうだ」


 「問題ありません」


 「本当か。昨日の展開、少し歪んでいたぞ」


 「見ていたんですか」


 「……たまたま目に入った」


 レティシアは特に何も言わなかった。たまたまという割に細かく見ている。しかし指摘してくれるのは助かるので、文句を言う理由もない。


 「明日、確認してやる」


 「ありがとうございます」


 「礼を言うな」


 「では何と——」


 「いい、もういい」


 セドリックが先に歩き出した。レティシアはその背中を見送りながら、小さく息を吐いた。


 (この人、本当によくわからない)


 断れと言った。筋の問題だと言った。術式を見ていた。明日も確認すると言った。


 言葉と行動が、いつも少しずれている。


 (まあ、破滅さえしなければいい)


 それだけだ。それだけのはずだった。


 でも——


 (「対処しやすい」か)


 さっき自分が言った言葉が、なぜか少し引っかかった。対処しやすい相手。それは確かだ。でもそれだけかと問われると、レティシアは答えを持っていなかった。

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