第二章 ヒロインが懐いてくる件
王立学院の初日は、思ったより静かに終わった。
午後の講義は魔法理論の基礎と王国史。どちらも事前に予習済みで、レティシアには退屈なくらいだった。前世の記憶と転生後の教育が合わさると、学院の授業程度では眠気と戦う羽目になる。それでも居眠りするわけにはいかない——悪役令嬢が居眠りしていたという噂が立つのも困る。
(品行方正、目立たない、嫌がらせしない。この三原則を守るだけでいい)
講義棟から寮へ向かう回廊を歩きながら、レティシアは今日の行動を振り返った。セドリックとの一件は想定内で収まった。ヒロインとの接触はまだない。順調だ。
そう思った瞬間だった。
「わあっ」
という声とともに、背後から誰かがぶつかってきた。
レティシアは半歩よろめき、持っていた教材を取り落とした。石畳の上に本と羊皮紙が散らばる。
(……フラグ、踏んだ)
振り返ると、そこには栗色の髪をした少女が尻餅をついていた。丸い茶色の瞳がレティシアを見上げ、みるみる青ざめていく——かと思いきや。
「あっ、綺麗な髪! 青みがかった黒って、初めて見ました」
「……」
謝罪より先にそれが来た。
レティシアは瞬きをした。少女はそこでようやく我に返ったらしく、跳ね起きると散らばった本を拾い集め始めた。
「ご、ごめんなさいっ! 急いでいて、前をちゃんと見ていなくて……! あと今の、髪の話は本当のことで、決して誤魔化そうとしたわけじゃなくて——」
「わかっています。顔を上げて」
冷たい声だったかもしれない、とレティシアは思った。意識して柔らかくしようとしても、この顔とこの声では、どうしても温度が低く届いてしまう。
「怒っているわけではありません。怪我はありませんか」
「あ、はい、大丈夫です! 先輩は? よろめいていましたよね、足とか」
「問題ありません」
「よかった。本、全部ありますか?」
「揃っています」
「ほんとうによかったです」
少女は心底ほっとした顔をした。自分が尻餅をついたことより、レティシアの足と本の心配を先にしている。
(この子が……リリアーヌ)
レティシアはしばらく無言でその様子を眺めた。ゲームのメインヒロイン。魔法の才があり伯爵家の養女となった。真っすぐで人懐っこい性格——シナリオ上は、レティシアが最初に嫌がらせをする相手だ。
(でもこの子、どう見ても悪くない)
意地悪をする気が起きるはずもなかった。
「ありがとう。気をつけなさい」
それだけ言って歩き出すと、背後からおずおずとした声がかかった。
「あの、クラーレ先輩ですか?」
足を止める。振り返ると、リリアーヌが小首を傾げてこちらを見ていた。さっきまでの恐縮した様子が、いつの間にか興味津々の表情に変わっている。切り替えが早い。
「そうですが」
「やっぱり! 私、リリアーヌ=ハーヴェといいます。今日入学したばかりで。先輩のお噂はかねがね聞いていました」
「……どんな噂ですか」
「すごく綺麗で頭もよくて、王子殿下の婚約者だって。あと——」
リリアーヌがわずかに迷うような間を置いた。
「怖い方だって、聞いていたんですけど」
正直な子だ、とレティシアは思った。
「怖いですか、私は」
「ぜんぜん! さっき怒らなかったし、足の心配もしてくれたし」
「あなたがぶつかってきたんですが」
「そうなんですけど、怒る人は怒るじゃないですか」
それはそうだが、とレティシアは思った。反論が難しい。
(この子は本当に、ゲームのまんまだな)
シナリオの中のリリアーヌは、誰に対しても分け隔てなく接する少女として描かれていた。悪役令嬢であるレティシアにも臆せず話しかけ、その誠実さでセドリックの心を開いていく——それがゲームのメインストーリーだ。
つまり今この瞬間も、シナリオは着々と進行している。
(別にいい。むしろ王子がヒロインに惹かれてくれた方が、私は楽になる)
「リリアーヌ=ハーヴェ」
「はい!」
「学院内で困ったことがあれば、私と同じ公爵家の令嬢に声をかけなさい。ファーレン家かモーリス家なら、親切に教えてくれるでしょう」
要するに、私に懐かないでください、という意味だった。
「わかりました、覚えておきます!」
リリアーヌは元気よく頷いた。
「じゃあ先輩、また明日!」
「……私たちは今日が初対面ですが」
「そうですね。だから明日も会いましょう」
論理が飛躍している。しかし本人は満面の笑みで、悪意のかけらもない。
レティシアは返す言葉を見つけられないまま、リリアーヌが回廊の向こうへ駆けていくのを見送った。
(……懐かれた)
気のせいではなかった。転生者の直感が、明日も来ると告げていた。
レティシアは小さく息を吐いて、寮への道を歩き出した。
翌日、リリアーヌは本当に来た。
朝の講義棟へ向かう廊下で、レティシアが角を曲がった瞬間に「先輩!」と声が飛んできた。昨日ぶつかってきたのと同じ勢いだったが、今日は衝突しなかった。成長している。
「おはようございます! 今日も綺麗ですね」
「……おはようございます」
褒め方に一切の打算がない。ただ思ったことを言っているだけの顔をしている。レティシアは返事に困りながらも、追い払う言葉も出てこなかった。
結局、午前の講義が始まるまでの間、リリアーヌはレティシアの隣を歩いた。よくしゃべる子だった。故郷の話、好きな魔法の話、学院の食堂のパンが思ったより美味しかった話。害のない話題ばかりで、レティシアは相槌を打つだけでよかった。
悪くない朝だった。
(……いや、油断するな)
これがシナリオの始まりだ。ヒロインと親しくなったレティシアが嫉妬し、嫌がらせを始める——という流れに持ち込まれてはいけない。距離は保つ。愛想よくする必要もない。ただ、意地悪もしない。
「先輩、今日の魔法理論の予習、どこまでやればいいですか?」
「第三章まで読んでおけば十分です」
「ありがとうございます! 先輩って頭いいんですね」
「そんなことはありません」
「謙遜しなくていいですよ。顔も綺麗だし頭もいいし、すごいなって思って」
「……ありがとうございます」
返す言葉が見つからなかった。褒め言葉に慣れていないわけではない。しかしリリアーヌの褒め方は、社交辞令の匂いが一切しないので、どう返せばいいかわからなくなる。
講義棟の前で別れ際、リリアーヌが振り返った。
「先輩、お昼一緒に食べませんか?」
「……考えておきます」
「やった! じゃあ食堂で待ってます!」
「考えておくと言いました」
「はい、楽しみにしてます!」
全く聞いていなかった。レティシアは小さくため息をつきながら、講義棟の扉を押した。
(どうしてこうなった)
昨日の今日でここまで懐かれるとは思っていなかった。距離を保つと決めたはずなのに、気づけばリリアーヌのペースに引き込まれている。
(まあ、意地悪さえしなければいい)
それだけだ。それだけのはずだった。




