第十五章 その先へ
結婚式は、春の日だった。
王宮の大聖堂に、白い光が差し込んでいる。高い天井から降り注ぐ光が、祭壇を、花を、そして二人を照らしていた。
レティシアは控え室の鏡の前で、自分の姿を見た。
ドレスは白だった。ただの白ではない——裾に向かってゆっくりと深みを増していく白、淡い銀が溶け込んだような白、光の当たり方によって青みがかって見える白。胸元から肩にかけて、細かな刺繍が施されている。糸の一本一本が光を受けて、まるで星を縫い込んだようだった。スカートは幾重にも重なって広がり、歩くたびに波のように揺れる。
青みがかった漆黒の髪に、白い花が飾られていた。切れ長の青い瞳が、ドレスの白に映えている。
「息をのむほど美しゅうございます」
侍女が言った。
「ありがとう」
レティシアはそれだけ答えた。
鏡の中の自分を見た。
(夢みたいだ)
七歳の冬に記憶が戻って、悪役令嬢だと知った。破滅エンドを回避することだけを考えて、十一年生きてきた。花屋の夢だけを胸に、ただ静かに、誰にも知られないように。
それが——こうなった。
◇
大聖堂の扉が開いた。
祭壇の前に、セドリックが立っていた。
白と金の礼装だった。白い上着に、金の縁取り。肩章と胸元の紋章が、光を受けて輝いている。金色がかった茶髪が礼装の白に映えて、いつもより明るく見えた。
いつも腕を組んで眉間に皺を寄せているのに——今日は、ただまっすぐに立っている。凛と、静かに。
(格好いい)
思ってから、レティシアは少し驚いた。自分がそんなことを思うとは。
歩き出した。スカートが波のように揺れる。白い光の中を、一歩ずつ進む。
セドリックがレティシアに気づいた。
一瞬、目が止まった。それだけだった。しかしその一瞬に——何かが、確かにあった。いつもの真剣な目が、今日は少し違う色をしている。
レティシアが祭壇の前に並んだ。
「……レティシア」
セドリックの声がした。低くて、静かで、いつもより少し緊張している。
「はい」
「顔を上げろ」
レティシアは顔を上げた。セドリックがまっすぐこちらを見ている。眉間に皺がない。口が引き結ばれていない。ただ——真剣な目で、レティシアだけを見ている。
「……綺麗だ」
「……ありがとうございます」
「今日は特に」
「……セドリックこそ」
「……そうか」
セドリックが小さく頷いた。それだけだった。しかし口元が、わずかに緩んでいた。
「笑っていますか」
「……笑っていない」
「笑っています」
「……式の最中だ」
「お互い様ですが」
セドリックが短く息を吐いた。それ以上は何も言わなかった。しかし——口元は、ずっと緩んでいた。
式が始まった。
◇
誓いの言葉を述べた。
セドリックが先に述べた。いつもより言葉が少なかった。しかし——いつもより重かった。
レティシアが続けて述べた。声が、思ったより落ち着いていた。
「誓いの口づけを」
神官が言った。
セドリックがレティシアを見た。レティシアもセドリックを見た。
「……目を閉じろ」
小声で言った。
「……また同じことを」
「閉じろ」
「……綺麗だと言ってからにしてください」
セドリックが少し間を置いた。
「……綺麗だ」
「……ありがとうございます」
レティシアはゆっくりと目を閉じた。
唇に、温かいものが触れた。
温室のときより、少し長かった。
大聖堂に、拍手が広がった。
◇
披露宴が終わったのは、夜も深まった頃だった。
レティシアは侍女に連れられて、居室へ向かった。セドリックとは廊下で別れた。
「お疲れ様でございました」
侍女が言った。
居室は広かった。調度品が整えられ、窓辺に花が飾られている。レティシアの好みを調べて用意してくれたのか、白い花が多かった。
侍女たちがドレスのボタンを外し始めた。幾重にも重なったスカート、細かな刺繍の入ったコルセット、髪に飾られた白い花——一つずつ、丁寧に外されていく。
湯浴みの用意が整っていた。温かい湯に花の香りが漂っていた。
(エルメ草の香りがする)
誰かが気を利かせたのか。レティシアは少し目を細めた。
湯浴みを終えて、侍女がナイトドレスを着せた。薄い絹地で、裾が床に流れる。漆黒の髪を丁寧に梳かされて、緩く束ねてもらった。
「それでは、失礼いたします」
侍女たちが退室した。
部屋が、静かになった。
レティシアは窓辺の花を見た。白い花が、夜の光の中で柔らかく輝いている。
(今日が——始まりだ)
シナリオにない未来。破滅エンドでも、ヒロインエンドでもない。誰も知らない、この先の話。
◇
しばらくして、扉をノックする音がした。
居室の奥、セドリックの居室へ繋がる扉からだった。
「……入っていいか」
「どうぞ」
扉が開いた。
セドリックが立っていた。礼装から着替えている。白い寝衣が、夜の光の中で静かに輝いていた。
レティシアを見て、一瞬動きを止めた。
「……」
「……どうしましたか」
「……何でもない」
「見ていますが」
「……見ていていいか」
「……どうぞ」
セドリックが部屋に入った。レティシアの近くに来て、立ち止まった。
「……髪が」
「はい」
「下ろしているのは——初めて見る」
「……そうですね」
「……綺麗だ」
「……ありがとうございます」
セドリックがレティシアの髪にそっと触れた。束ねた髪を、崩さないように。丁寧に。
「……解いていいか」
「……はい」
セドリックの指が、緩く束ねた髪を解いた。漆黒の髪が、肩に流れ落ちた。
「……」
「……何ですか」
「……綺麗だ」
「さっきも言いました」
「また言う」
レティシアは視線を落とした。顔が熱くなるのを感じた。
「……部屋に花を用意してくれたんですか」
「ああ」
「エルメ草もありますね」
「……お前が好きだと思って」
「……ユーリア草も」
「何だそれは」
「花言葉が『新しい始まり』なんです」
レティシアが窓辺の花を見た。
「結婚式によく使われる花で——知っていて選びましたか」
「……花に詳しい者に頼んだ。お前が喜びそうなものを、と」
「……そうですか」
「文句があるか」
「……ありません」
レティシアは花を見たまま言った。
「うれしいです」
セドリックが黙った。しばらくして、「そうか」と言った。声が、少し低くなっていた。
「……ハーネ草も」
「……よく見つけられましたね」
「苦労した」
「……温室で一緒に見た花ですね」
「……ああ」
「……ありがとうございます」
「礼を言うな」
「……言います」
セドリックが視線を逸らした。それだけだった。しかし口元が——わずかに緩んでいた。
「……レティシア」
「はい」
「こっちを向け」
レティシアはセドリックに顔を向けた。セドリックがすぐそこに立っている。夜の光の中で、真剣な目がこちらを見ていた。
「……今日からずっと——隣にいる」
「……ずっとは長いですが」
「長くて何が悪い」
「……悪くないです」
「では決定だ」
「……セドリック」
「なんだ」
「……私も、ずっと隣にいます」
セドリックが黙った。しばらくして——
「……ずるい」
「……そうですか」
「そうだ」
セドリックが顔を近づけた。
「そういうことを——急に言うな」
「セドリックこそ、いつも急におっしゃいますが」
「……俺はいい」
「なぜですか」
「……好きだから言っている。それだけだ」
レティシアは少し間を置いた。
「……私も、好きです」
「……もう一度言え」
「……好きです」
セドリックが、レティシアの頬に手を添えた。ゆっくりと、丁寧に。
「……笑うな」
「……笑っていません」
「笑っている」
「……セドリックも」
「……今日は笑っていい」
「さっきもそうおっしゃいましたが」
「……今日は特別だと言った」
エルメ草の香りが、静かに漂っていた。
セドリックが顔を近づけた。レティシアは目を閉じた。
花の香りがした。
エルメ草の、春の香りがした。
◇
翌朝、窓から差し込む光の中で、レティシアは目を覚ました。
隣に、セドリックがいた。
静かな寝顔だった。眉間に皺がない。口が引き結ばれていない。ただ穏やかに——眠っている。
(こんな顔をするんだ)
知らなかった。十一年、知らなかった。
レティシアはしばらく、その顔を見ていた。
窓の外で、鳥が鳴いた。春の朝の光が、部屋に満ちている。エルメ草の香りが、まだ漂っていた。
そっと起き上がろうとした瞬間、腕が伸びてきた。
「……っ」
気づいたら、抱きしめられていた。
後ろから、しっかりと。セドリックの腕がレティシアの肩を包んでいる。温かくて、重くて——離してくれる気配がない。
「……セドリック」
「……いい匂いだ」
「起きていたんですか」
「……ずっと前から」
「……ずっと?」
「……お前が眠っている顔を——見ていた」
レティシアは動きを止めた。
「……見ていたんですか」
「……綺麗だったから」
「……それは」
「ずっと見ていられた」
セドリックが言った。声が、いつもより低くて、静かだった。
「……起こすのが惜しかった」
「……セドリック」
「なんだ」
「……それは」
レティシアは言葉を探した。
「……ずるいです」
「俺が言うことだ」
「……私だって——」
「……俺だって、何だ」
レティシアは少し間を置いた。
「……セドリックの寝顔を、見ていました」
「……いつから」
「……目が覚めてから、しばらく」
セドリックが黙った。腕の力が、少し強くなった。
「……そうか」
また沈黙が続いた。窓の外で、鳥が鳴いた。春の朝の光が、二人を包んでいた。
「……レティシア」
「はい」
セドリックが、ゆっくりとレティシアの体を向けた。正面から、まっすぐに見た。
夜明けの光の中で——セドリックの目が、レティシアを見ていた。
いつもの鋭い目ではなかった。眉間に皺もない。ただ——真剣に、深く、まっすぐに。まるで、他には何も見えていないような、熱い目だった。
レティシアは息を飲んだ。
(こんな目で)
(見るんだ)
「……セドリック」
「なんだ」
「……その目で見ないでください」
「なぜだ」
「……どうしていいか、わからなくなるので」
セドリックが少し目を細めた。
「……慣れろ」
「……慣れるものですか」
「慣れてもらわないと困る」
セドリックが言った。
「一生こうして見る」
「……一生、ですか」
「そうだ」
「……それは」
「愛している」
レティシアは固まった。
「……今、何とおっしゃいましたか」
「聞こえていただろう」
「……聞こえましたが」
「なら繰り返さない——」
セドリックが少し間を置いた。
「……繰り返す。愛している」
「……セドリック」
「毎日言う」
「……毎日、ですか」
「そうだ。一生毎日言う」
セドリックがレティシアの頬に手を添えた。
「……逃げるなよ」
「……どこにも逃げません」
「本当か」
「……はい」
「……そうか」
セドリックがレティシアを引き寄せた。また抱きしめた。今度は後ろからではなく——正面から、しっかりと。
「……セドリック」
「なんだ」
「……私も」
「……俺も、何だ」
「……愛しています」
セドリックが黙った。長かった。
「……もう一度言え」
「……愛しています」
「……そうか」
腕の力が、また強くなった。
「……セドリック、苦し——」
「もう少し」
「……もう少し、ですか」
「……もう少しだけ、このままでいい」
レティシアは観念して、力を抜いた。セドリックの胸に顔を埋めた。
(温かい)
(ここが——)
(ここにいていいんだ)
窓の外で、また鳥が鳴いた。春の朝の光が、二人を包んでいた。
(ずっと、か)
ずっとは長い。でも——
(悪くない)
いや——
レティシアは目を閉じた。
(うれしい)
エルメ草の香りが、春の光の中で静かに漂っていた。
結婚式で完結です!ありがとうございました!




