第十三章 図書館にて
その日の放課後、図書館は静かだった。
レティシアはいつもの席に座って、魔法理論の資料を読んでいた。セドリックはまだ来ていない。今日は講義が長引いているらしかった。
「クラーレ様」
声がした。顔を上げると、同学年の男子生徒が立っていた。伯爵家の子息で、名前はたしかエドワルドといった。成績優秀で、顔立ちも整っている。
「はい」
「隣、よろしいですか。参考にしたい資料が同じ棚にあって」
「どうぞ」
エドワルドが隣の席に座った。資料を広げながら、小声で話しかけてきた。
「クラーレ様は魔法理論の応用を研究されているんですか」
「少し興味があって」
「実は私も同じ分野で——もしよろしければ、意見交換など」
「……考えておきます」
「ぜひ。クラーレ様の魔力制御は学院でも指折りと聞いていますので」
悪意のない話しかけ方だった。レティシアは特に警戒もせず、資料に視線を戻した。
そのとき、図書館の扉が開いた。
いつもより少し足音が速かった。
「レティシア」
セドリックの声だった。いつもより低い。
レティシアが顔を上げると、セドリックが入口に立っていた。こちらを見ている。隣のエドワルドを見ている。また、レティシアを見ている。
眉間の皺が、いつもの倍くらい深い。
「……お疲れ様です」
「講義が長引いた」
「はい」
セドリックが歩いてきた。エドワルドが立ち上がって会釈した。
「殿下、失礼いたしました。クラーレ様とご一緒とは知らず——」
「知っておけ」
「……はい」
エドワルドが資料をまとめて、足早に去っていった。
セドリックがレティシアの隣に座った。向かいではなく、隣に。距離が近い。
「……セドリック。エドワルド様は魔法理論の話をしていただけですが」
「知っている」
「では——」
「それでも気に入らない」
「……なぜですか」
セドリックが資料を開いた。こちらを見ずに言った。
「……お前が俺のものだからだ」
レティシアは瞬きをした。
「……今、何とおっしゃいましたか」
「聞こえていただろう」
「……聞こえましたが」
「なら繰り返さない」
「……」
「立て」
「……はい?」
「立てと言った」
レティシアは首を傾げながら立ち上がった。瞬間、セドリックが動いた。
レティシアの背後の本棚に、セドリックの手がついた。逃げ場がない。
「……セドリック」
「なんだ」
「……近いですが」
「そうか」
「……離れてください」
「嫌だ」
「……なぜですか」
「お前が俺のそばにいる方が——落ち着く」
レティシアは瞬きをした。
「……今、何とおっしゃいましたか」
「聞こえていただろう」
「……聞こえましたが」
「なら繰り返さない」
「……」
「顔が赤い」
「……わかっています」
セドリックが本棚から手を離した。しかし隣に立ったまま、離れなかった。
「……嫉妬していましたか」
「していない」
「……していましたよね」
「……少し」
レティシアは少し驚いた。認めるとは思っていなかった。
「……うれしいです」
セドリックが固まった。
「……今、何と言った」
「うれしいと言いました」
「……なぜ」
「セドリックが気にしてくれるのが——うれしいんです」
セドリックが視線を逸らした。それだけだった。しかし口元が、わずかに動いた。
「……座れ」
「はい」
「隣に座れ」
「向かいではなくですか」
「隣がいい」
レティシアは椅子に座り直した。セドリックが隣に座った。資料を広げた。
「……手を出せ」
「……図書館ですが」
「静かにしていれば問題ない」
レティシアはゆっくりと手を差し出した。セドリックが握った。資料を片手で持ちながら、もう片手でしっかりと。
「……読めますか」
「読める」
「……器用ですね」
「……お前の手を離したくないだけだ」
レティシアは返事ができなかった。
(お前の手を離したくない)
(それを——平然と言う)
顔が熱くなるのを感じた。資料を見ているふりをしながら、どうしても文字が頭に入ってこなかった。
しばらくして、セドリックがぽつりと言った。
「……嫌いじゃないのか」
「……何がですか」
「こうして、俺が絡んでくるのが」
レティシアは少し考えた。
「……嫌いではないです」
「……そうか」
「むしろ——」
「むしろ?」
「……来てくれると、安心します」
セドリックが黙った。長かった。
「……安心」
「はい」
「……俺が来ると」
「はい」
また沈黙が続いた。繋いだ手が、少し強くなった。
「……可愛いな」
しばらくして、セドリックがぽつりと言った。資料を見たまま、独り言のように。
「……何がですか」
「……お前が」
「……そういうことを、急に言わないでください」
「思ったから言った」
「……」
「顔が赤い」
「……わかっています」
「もっと赤くなればいい」
「……意地悪です」
「……そうか」
セドリックが小さく噴き出した。声に出して。レティシアはその横顔を見た。眉間の皺がなくなっている。口元が緩んでいる。
「……笑っていますね」
「笑っていない」
「笑っています」
「……少し」
「笑うなとよくおっしゃいますが」
「……お前が可愛いことを言うからだ」
「……意地悪と言っただけですが」
「それが可愛いんだ」
レティシアは資料で顔を隠した。
「……顔を隠すな」
「……少し待ってください」
「何を待つんだ」
「……落ち着くのを待っています」
セドリックが「そうか」と言った。それ以上は急かさなかった。繋いだ手は、ずっと温かいままだった。
◇
図書館を出たのは、夕暮れ時だった。
廊下を並んで歩きながら、セドリックが言った。
「……また来る」
「図書館にですか」
「お前がいるなら、どこでも来る」
「……それは」
「文句があるか」
「……ありません」
「では問題ない」
レティシアは前を向いたまま、口元が緩むのをこらえた。こらえきれなかった。
「笑うな」
「……笑っていません」
「笑っている」
「……少し」
「……俺もだ」
「……笑っていますか」
「……お前が笑うと——こちらも笑えてしまう」
セドリックが少し咳払いをした。それだけだった。でも——声が、温かかった。




