第十二章 温室にて
二人で温室に来るのは、二度目だった。
今日は——セドリックが「来い」と言ったから来た。それだけだ。理由は言わなかった。レティシアも聞かなかった。
温室の中は、あの日と同じ花の香りがした。
レティシアは棚の花を見ながら歩いた。今日は目的がないので、ゆっくりと。
「……詳しいのか」
セドリックが言った。
「少しは」
「花屋をやりたいくらいだからな」
「はい」レティシアが足を止めた。棚の端の鉢に手を伸ばした。
「これはルベア草ですね」
「……何だそれは」
「湿地に咲く花です。乾燥に弱いのに温室で育てているのは珍しい」
レティシアが葉に触れた。
「管理が難しいんです。水の量が少しでも狂うと——」
「枯れるのか」
「葉が変色します。まず葉の端から」
セドリックが鉢を覗き込んだ。
「……これは健康なのか」
「はい。丁寧に育てられています」
「誰が管理しているんだ」
「温室の管理人の方だと思います。ここの温室は手入れが行き届いていて——あ」
レティシアが足を止めた。棚の端、少し奥まったところに小さな鉢があった。
「……これは」
「知っているのか」
「ハーネ草です。北の山岳地帯に自生する花で——学院の温室で見るのは初めてです」
レティシアがしゃがんで、鉢を覗き込んだ。
「花期が短くて、咲くのは一年に十日ほどしかない。今ちょうど蕾が——」
「詳しいな」
セドリックが隣にしゃがんだ。
「……花屋をやりたいので、色々調べてきました」
「いつから調べているんだ」
「……八歳のころから」
「八歳」
「エルメ草の名前を教えてもらってから——この世界の花に興味を持って」
セドリックが黙った。
「……俺が教えたのがきっかけか」
「はい」
「……そうか」
それだけ言って、視線を鉢に戻した。しかし、口元が——わずかに緩んでいた。
「……セドリック」
「なんだ」
「笑っていますか」
「笑っていない」
「……口元が」
「気のせいだ」
「……そうですか」
「そうだ」
レティシアは前を向いた。口元が緩むのをこらえた。こらえきれなかった。
「笑うな」
「……笑っていません」
「笑っている」
「……少し」
二人でしゃがんだまま、小さな鉢を眺めた。
◇
棚を一通り見て回った後、二人は温室の奥の長椅子に腰かけた。
「あの花、まだある」
セドリックが棚の端を指した。青みがかった白い小花。あの日レティシアが眺めていた花だ。
「はい」
「名前を調べたか」
「……調べたんですが、わからなくて」
「俺もだ」
「殿下も調べたんですか」
「……たまたまだ」
「たまたま、とは」
セドリックが視線を逸らした。それ以上は言わなかった。
「……私も何度か調べたんですが」
レティシアが花を見ながら言った。
「品種改良された園芸種かもしれません。原種が見当たらなくて」
「名前がわからない花もあるのか」
「たくさんあります。特に温室育ちの品種改良種は——記録が残っていないものも多くて」
「……花屋に置くなら、名前がわからないと困るか」
「いいえ」
レティシアが首を振った。
「名前がわからない花も置きたいんです。名札の代わりに、産地や特徴を書いて——出会ったことのない花に出会ってもらうのが、花屋の目的なので」
セドリックが黙って聞いていた。
「……いい花屋だな」
「……ありがとうございます」
「本当に作れ」
「……いつか」
「いつかじゃなくて」
「……やりたいとは思っています」
「なら——俺も手伝う」
「……殿下が、ですか」
「手伝うと言った。文句があるか」
「……ありません」
「では決定だ」
レティシアは前を向いた。
(花屋を、手伝う)
(セドリックが)
「……レティシア」
「はい」
「手を出せ」
「……はい?」
「繋ぎたい」
レティシアはゆっくりと手を差し出した。セドリックの手が、それを包んだ。
温かかった。
「……」
「……」
二人とも黙った。レティシアは花を見ていた。セドリックも花を見ていた。繋いだ手だけが、確かにそこにあった。
しばらくして、セドリックが口を開いた。
「……あの花、来年も咲くのか」
「品種改良種なら、条件が整えば毎年咲きます」
「条件とは」
「温度と水と、光の量です。この温室なら——たぶん、毎年咲く」
「そうか」
セドリックが花を見たまま言った。
「なら毎年ここに来よう」
「……二人でですか」
「俺とお前で、だ。文句があるか」
「……ありません」
「では決定だ」
レティシアは繋いだ手を見た。
(毎年)
(ここに来る)
(二人で)
「……顔を見ていいか」
セドリックが言った。
「……今も見えていると思いますが」
「ちゃんと見たい」
レティシアはセドリックに顔を向けた。セドリックがこちらを見ている。いつもより近い気がした。
「……何ですか」
「お前の目は——花と同じ色をしているな」
「……青い、ということですか」
「深い青だ。見ていられる」
「……」
「目を閉じろ」
「……なぜですか」
「閉じればわかる」
「わかってから——」
「閉じろ」
レティシアはゆっくりと目を閉じた。
花の香りがした。セドリックの気配が、近づいてくる。
唇に、温かいものが触れた。
一瞬だった。それだけだった。
でも——確かに、そこにあった。
「……」
「……」
レティシアはゆっくりと目を開けた。セドリックがすぐそこにいる。視線を花に戻している。口が一文字に結ばれている。
「……セドリック」
「……なんだ」
「……今」
「……花が、咲きそうだな」
「……ハーネ草のことですか」
「……そうだ」
「……蕾はまだ固いですが」
「……そうか」
しばらく沈黙が続いた。レティシアはセドリックの横顔を見た。花を見ているふりをして、どこか遠くを見ている。
(照れている)
あの口が悪くて、図に乗っていて、素直じゃないセドリックが——花の話で誤魔化している。
(……可愛い)
思ってから、レティシアは驚いた。
「……セドリック」
「なんだ」
「……隣に、いてもいいですか」
セドリックが少し間を置いた。
「何を今更」
「……聞きたかったので」
「……いろ」
「はい」
「ずっといろ」
「……ずっとは長いですが」
「長くて何が悪い」
「……悪くないです」
繋いだ手が、温かかった。
温室の外で、風が吹いた。夕暮れの光の中、二人は並んで花を見ていた。
名前も知らない、青みがかった白い小花が、静かに揺れていた。
「……来年も咲くといいな」
セドリックがぽつりと言った。
「はい」
「お前が教えてくれるか。咲いたら」
「……毎年ここに来るんじゃなかったんですか」
「来る。それでも教えてくれ」
「……わかりました」
「約束だ」
「……はい」
レティシアは繋いだ手を見た。
(約束)
(毎年、ここに来る)
(それが——)
悪くなかった。
いや——
(うれしい)
エルメ草の香りに似た、春の風が静かに通り過ぎた。




