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第十章 花屋の話

 日曜日の午後、レティシアは一人で王立学院の温室にいた。


 温室は学院の敷地の端にある。授業で使うこともあるが、休日は大抵がらんとしていた。レティシアがここに来るのは、珍しい花が見たいときだ。今日は特に目的もなく、ただなんとなく足が向いた。


 棚に並んだ鉢植えを眺めながら、歩く。見たことのない品種がある。青みがかった白い花弁の、小さな花だ。


 (エルメ草に少し似ている)


 八歳の春を思い出した。王家の庭園で、セドリックが教えてくれた花の名前。あのとき、なぜ教えてくれたのかが今もわからない。


 (でも——あのとき、悪い気はしなかった)


 「ここにいたのか」


 声がした。


 振り返ると、セドリックが温室の入口に立っていた。


 「……殿下、なぜここに」


 「探した」


 「探したんですか」


 「寮にも食堂にもいなかった」


 「……休日ですが」


 「わかっている」


 セドリックが温室の中に入ってきた。棚に並んだ花を一瞥して、レティシアの隣に立った。


 しばらく、二人とも黙っていた。


 「……花が好きなのか」


 セドリックが言った。


 「はい」


 「昔から?」


 「……昔から、好きでした」


 「なぜ」


 レティシアは少し考えた。


 「きれいだから、というのもありますが——」


 「ありますが?」


 「……前に、夢があったんです」


 「夢?」


 「花屋を開くこと」


 セドリックが黙った。レティシアは棚の花を見ながら続けた。


 「小さな花屋でいいんです。街角の、目立たない場所に。知らない花を集めて、好きな人に届ける——そういう店を、いつか持ちたいと思っていました」


 「……いつか、か」


 「今は無理ですが」


 「なぜ無理なんだ」


 「公爵令嬢が花屋を開くのは——」


 「お前がやりたいならやればいい」


 レティシアはセドリックを見た。


 「……殿下」


 「何だ」


 「今、何とおっしゃいましたか」


 「お前がやりたいならやればいいと言った」


 「公爵令嬢が——」


 「関係ない」


 セドリックが言った。


 「お前がやりたいことをやればいい。それだけだ」


 レティシアは黙った。


 (やりたいことを、やればいい)


 誰にも言ったことがなかった。花屋の夢のことを。父にも、侍女にも——誰にも。今日、なぜ言ってしまったのかもわからない。


 「……殿下は、夢がありましたか」


 「俺は王族だ。夢より役割がある」


 「それは——寂しくないですか」


 セドリックが少し間を置いた。


 「……昔はそう思ったこともあった」


 「今は?」


 「今は——」


 セドリックが棚の花を見た。


 「やりたいことが、できた気がする」


 「何ですか」


 「……お前の隣にいること」


 温室に、静寂が満ちた。


 レティシアはセドリックを見た。セドリックは花を見ている。横顔が、夕方の光を受けて静かに輝いている。


 (お前の隣にいること)


 その言葉が、すとんと胸に落ちた。


 今まで何度も「好きだ」と言われた。何度も「本気だ」と言われた。何度も「逃げるな」と言われた。全部——どこかで、信じられなかった。


 でも。


 (隣にいること、か)


 それは——花屋の夢と、同じ温度の言葉だった。大きくなくていい、華やかでなくていい、ただそこにいたい——そういう、静かな言葉だった。


 「……殿下」


 「なんだ」


 「一つ、聞いてもいいですか」


 「言え」


 「……隣にいたい、というのは——どういう意味ですか」


 セドリックがようやくレティシアを見た。


 「どういう意味、って」


 「婚約者として、ということですか」


 セドリックが眉を寄せた。


 「また婚約者の話をする」


 「でも——」


 「婚約者だからじゃない」


 「では——」


 「好きだから、だ」


 セドリックが言った。


 「何度言えばわかるんだ、お前は」


 「……好き、というのは」


 「好きは好きだ。それ以上でも以下でもない」


 「……でも、なぜ私なんですか」


 セドリックが深く息を吐いた。


 「また同じことを聞く」


 「答えてもらっていないので」


 「理由はないと言った」


 「理由がなければ——」


 「クラーレ」


 セドリックの声が、静かになった。怒っているのでも、苛立っているのでもない。ただ——真剣な声だった。


 「俺はお前のことを、十年見ていた」


 「……はい」


 「何を言っても動じなかった。何を言っても流した。腹が立った。悔しかった。気に入らなかった」


 「……はい」


 「でも——目が離せなかった。毎日探していた。いないと気になった」


 セドリックが続けた。


 「パンを買いに行った。図書館で隣に座った。術式を見ていた。全部——理屈じゃなかった」


 レティシアは黙って聞いていた。


 「お前が縁談の話をしたとき、断れと言った。筋の問題だと言った。でも本当は——お前がいなくなるのが、嫌だった」


 「……」


 「庭園を歩いたとき、綺麗だと言った。お前は花の話だと思ったかもしれないが——お前の話をしていた」


 「……」


 「図書館で一時間、隣にいた。それだけでよかった。それだけで——十分だった」


 温室の外で、風が吹いた。花の香りが揺れた。


 「だから」


 セドリックが言った。


 「理由を聞くな。理由なんてない。ただ——お前の隣にいさせろ」


 レティシアは動けなかった。


 (お前の隣にいさせろ)


 花屋の夢を話したら「やればいい」と言った。好きだと言った。隣にいたいと言った。理由はないと言った。ただ隣にいさせろと言った。


 (シナリオには——こんな場面、なかった)


 そうだ。なかった。最初からなかった。ゲームの中のセドリックは、こんなことを言わない。こんな顔をしない。こんなふうに——真剣に、レティシアだけを見ない。


 (シナリオじゃない)


 これは——シナリオじゃない。


 (じゃあ、これは——)


 「……殿下」


 「なんだ」


 「私は——」


 レティシアは言葉を探した。


 「悪役令嬢なんです」


 セドリックが眉を寄せた。


 「……何の話だ」


 「殿下に相応しい人間じゃない、という意味です」


 「誰がそう決めた」


 「……」


 「俺は相応しいと思っている」


 「でも——」


 「クラーレ」


 「はい」


 「お前は今、逃げている」


 レティシアは黙った。


 「また『もう少し考えさせてください』と言うつもりか」


 「……」


 「言うな」


 セドリックが言った。


 「もう十分考えただろう」


 「……はい」


 「では——」


 「……怖いんです」


 声が、思ったより小さかった。


 セドリックが少し目を細めた。


 「何が怖い」


 「信じて——いいのかどうかが」


 レティシアは続けた。


 「殿下は入学初日に、信用していないとおっしゃいました。好きでもないと。それが——今になって変わるのが、信じられなくて」


 「……そうか」


 「申し訳ありません」


 「謝るな」


 セドリックが言った。


 「……俺が言ったことだ。返す言葉もない」


 沈黙が続いた。


 「でも——」


 セドリックが続けた。


 「変わった。それだけは本当だ。いつからかはわからない。でも——今は、本気だ」


 「……はい」


 「信じてもらえないなら、信じてもらえるまで言い続ける」


 「……それは」


 「逃げないでいてくれるなら、それでいい」


 レティシアはセドリックを見た。


 まっすぐな目だった。口が悪くて、思い込みが激しくて、素直じゃない。それは八歳のときから変わっていない。でも——この目は、嘘をついていない。


 (信じて、いいのかもしれない)


 (いや——)


 (信じたい、と思っている)


 それが——答えだった。


 「……殿下」


 「なんだ」


 「花屋の夢の話をしたのは——今日が初めてです」


 セドリックが少し間を置いた。


 「……そうか」


 「誰にも言ったことがありませんでした」


 「……なぜ俺に言ったんだ」


 レティシアは少し考えた。


 「……わかりません。ただ——言えた、んだと思います」


 セドリックが黙った。


 「それが——答えになりますか」


 「……どういう意味だ」


 「信じていない人には、言えない気がして」


 セドリックがレティシアを見た。レティシアもセドリックを見た。


 夕暮れの温室に、花の香りが満ちている。


 「……なんだそれは」


 セドリックの声が、少し低くなった。


 「遠回しすぎる」


 「……そうですか」


 「もっとはっきり言え」


 「……」


 「クラーレ」


 「……隣に、いてもいいです」


 沈黙が落ちた。


 セドリックが、ゆっくりと息を吐いた。


 「……それだけか」


 「……嫌いじゃない、です」


 「嫌いじゃない」


 「……怖くも、ないです」


 「怖くもない」


 「……一緒にいて、悪くないと——思っています」


 セドリックが額に手を当てた。


 「……お前というやつは」


 「申し訳ありません」


 「謝るな」


 セドリックが言った。


 「……まあ、いい」


 「……いいんですか」


 「今は、それで十分だ」


 セドリックがレティシアの隣に並んだ。棚の花を見ている。レティシアも花を見た。


 二人並んで、しばらく黙っていた。


 「……花屋」


 セドリックが言った。


 「はい」


 「本当にやるのか」


 「……いつか」


 「いつか、じゃなくて」


 「……やりたいとは、思っています」


 「なら——俺も手伝う」


 レティシアは思わずセドリックを見た。


 「……殿下が、ですか」


 「悪いか」


 「王子が花屋を——」


 「手伝うと言った。文句があるか」


 「……ありません」


 「なら決定だ」


 レティシアは前を向いた。


 (花屋を、手伝う)


 (セドリックが)


 それは——シナリオにない未来だった。破滅エンドでも、婚約破棄でも、国外追放でもない。ただ——隣に誰かがいて、花に囲まれている未来。


 (悪くない)


 いや——


 (いい)


 「……殿下」


 「なんだ」


 「エルメ草、覚えていますか」


 セドリックが少し間を置いた。


 「……八歳のときの」


 「はい」


 「……覚えている」


 「あのとき教えてくれて——よかったと思っています」


 セドリックが黙った。しばらくして、ぽつりと言った。


 「……俺もだ」


 温室に、夕暮れの光が差し込んでいた。


 二人は並んで、花を見ていた。


 それだけで、十分だった。

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