第九章 それでも伝わらない
翌日から、セドリックの攻勢が始まった。
レティシアはそれを知らない。知らないまま、今日も「殿下のご冗談はやめてください」と言う準備をしていた。
月曜日の朝、廊下でセドリックに呼び止められた。
「クラーレ」
「殿下、おはようございます」
「昨日のことだが」
「冗談だったんですよね」
「違う」
「そうですか。では——」
「違うと言っている」
「……承知いたしました」
「承知していない顔をしている」
「そんなことは——」
「している」
レティシアは少し間を置いた。
「……殿下、私は婚約者です」
「知っている」
「婚約者に告白するのは、少し順序がおかしくないですか」
セドリックが眉を寄せた。
「……どういう意味だ」
「婚約者という関係がすでにあるのに、改めて告白するのは——何か別の意図があるのではと思いまして」
「別の意図はない」
「では——」
「好きだと言っている。それだけだ」
レティシアは黙った。
(好きだと言った)
(でも——)
「……承知いたしました」
「承知してない顔をしている」
「しています」
「していない」
セドリックが深く息を吐いた。
「……返事は」
「少し、考えさせてください」
「昨日も同じことを言った」
「はい」
「いつまで考えるんだ」
「……もう少し」
セドリックが何か言いたそうな顔をしたが、「わかった」と言って歩いていった。
◇
火曜日。食堂でいつも通り向かいに座ったセドリックが、昼食を半分ほど食べたところで唐突に言った。
「クラーレ」
「はい」
「俺と、放課後に庭園を歩かないか」
レティシアは箸を止めた。
(庭園を歩く)
(それは——デートの誘いでは)
「……何のためですか」
「話がしたい」
「話でしたら今もできますが」
「二人で、静かなところで話したい」
「演習場は静かですが」
「演習場じゃなくて」
「図書館は——」
「図書館でもなくて」
「では——」
「だから庭園だと言っている!」
周囲の生徒がちらりとこちらを見た。セドリックが咳払いをした。
「……庭園を、一緒に歩いてほしい」
レティシアは少し考えた。
(庭園。二人で。話したい。これは——)
(婚約者として、公の場で一緒にいることで体裁を保いたいということだろうか)
「婚約者として、公の場で一緒にいたいということですか」
「……違う」
「では——」
「好きだから一緒にいたいということだ」
「……ご冗談を」
「冗談じゃない!!」
また周囲の視線が集まった。セドリックが額に手を当てた。
「……頼む。庭園を歩いてくれ」
「頼む、とおっしゃるなら——」
「一緒に歩いてくれるか」
「……わかりました」
◇
放課後、庭園を二人で歩いた。
初夏の庭園には色とりどりの花が咲いていた。レティシアは花を見ながら歩いた。セドリックはレティシアの隣を歩いた。しばらく、二人とも黙っていた。
「……綺麗だな」
セドリックが言った。
「はい、庭園の花は——」
「花の話じゃない」
レティシアは少し間を置いた。
「……では何の話ですか」
「お前の話だ」
「……私は別に」
「綺麗だと言っている」
「……ありがとうございます」
「感想はそれだけか」
「……困っています」
「なぜ困るんだ」
「婚約者にそのようなことを言われると——」
「婚約者だから言っているんじゃない。好きだから言っている」
「……ご冗談を」
「冗談じゃない」
セドリックが足を止めた。レティシアも止まった。夕暮れの光の中、セドリックがまっすぐレティシアを見ている。
「……俺は本気だ」
「……はい」
「わかっているか」
「……はい」
「では返事は」
「……もう少し、考えさせてください」
セドリックが深く息を吐いた。
「お前はいつも、もう少し考えさせてくれと言う」
「申し訳ありません」
「謝らなくていい。ただ——」
セドリックが視線を逸らした。
「俺は、本気だということだけは、わかってほしい」
「……はい」
「わかったか」
「……殿下が本気でおっしゃっているのは、わかっています」
「では——」
「ただ——私には、理由がわからないんです」
セドリックが眉を寄せた。
「理由?」
「なぜ私なのか、ということです」
「……好きだから、じゃ駄目か」
「好きになる理由が——」
「理由なんてない」
「でも——」
「ない。ただ、お前のことが気になる。毎日。それだけだ」
レティシアは黙った。
(毎日、気になる)
(でも——私は悪役令嬢で——)
「……もう少し、考えさせてください」
セドリックが小さく笑った。笑ったのが意外で、レティシアは思わずセドリックを見た。
「……また同じ答えだな」
「申し訳ありません」
「謝るな」
セドリックが歩き出した。
「待つ」
「……はい?」
「待つと言った。急かさない。ただ——逃げるなよ」
「……はい」
二人は並んで庭園を歩いた。夕暮れの光の中、しばらく黙ったまま。
それが、悪くなかった。
◇
水曜日。図書館でセドリックが隣に座るなり、本を開かずにレティシアを見た。
「クラーレ」
「はい」
「俺の良いところを言え」
レティシアは本から顔を上げた。
「……何ですか」
「俺の良いところを言え。お前が俺を好きになる理由を作ってやる」
(何を言っているんだ、この人は)
「……魔法の腕前が優れています」
「他には」
「……判断力があります」
「他には」
「……真面目です」
「他には」
「……」
「なんで止まった」
「考えています」
「そんなに少ないのか俺の良いところは」
「そんなことは——」
「正直に言え」
「……口が、悪いです」
「それは良いところじゃない」
「はい」
「……わかってるなら直す」
「直るんですか」
「……努力する」
「善処するということですね」
「善処って何だ」
「努力するということです」
「……それはお前の台詞だ」
レティシアは思わず口元が緩みそうになった。こらえた。しかしセドリックに見えたらしく、「今笑いかけたな」と言われた。
「笑っていません」
「笑いかけた」
「……気のせいです」
「気のせいじゃない」セドリックが少し得意そうな顔をした。「笑えるじゃないか」
「……」
「もっと笑えばいい」
「……殿下」
「なんだ」
「良いところ、一つ思い出しました」
「なんだ」
「……諦めないところです」
セドリックが黙った。少しして、視線を逸らした。
「……そういうことを言うな」
「良いところを言えとおっしゃったので」
「……わかった」
セドリックが本を開いた。頬が、わずかに赤い。
レティシアは本に視線を戻しながら、内心で首を傾げた。
(諦めないところ、か)
自分で言っておいて、妙に腑に落ちた。
セドリックは——確かに、諦めない。八歳のときから、ずっと。
◇
木曜日。演習場でリリアーヌと練習していると、セドリックが来た。いつも通り三人で練習することになった。
練習が終わって、リリアーヌが先に帰った。
「先輩、また明日! 殿下も頑張ってください!」
「何を頑張るんだ」
「色々です!」
リリアーヌが演習場を出ていった。二人になった。
セドリックが道具を片付けながら、ぽつりと言った。
「……リリアーヌに言われた」
「何をですか」
「言えばいいじゃないですかって」
「……何を、ですか」
セドリックがレティシアを見た。
「お前への気持ちを」
レティシアは黙った。
「だから言った。昨日も一昨日も、ずっと言っている」
「……はい」
「伝わっているか」
「……殿下が、そのようにおっしゃっていることは」
「そのようにじゃなくて」セドリックが眉を寄せた。「俺が本気だということが、伝わっているか」
「……はい」
「では——」
「ただ——」
「ただ?」
レティシアは少し間を置いた。
「……なぜ私なのかが、まだわからないんです」
「前にも言った。理由はない」
「理由がなければ——」
「ある日突然好きになるわけじゃない」
セドリックが言った。
「気づいたらそうなっていた。それだけだ」
「……」
「お前はいつも、理由を探す」
「はい」
「気持ちに、理由はいらない」
レティシアはそれに答えられなかった。
気持ちに、理由はいらない。
(でも——私には——)
「……もう少し、考えさせてください」
セドリックが深く息を吐いた。
「……わかった」
「申し訳ありません」
「謝るな。ただ——」
「はい」
「俺はここにいる。それだけは、わかっていてくれ」
レティシアは黙ってセドリックを見た。
まっすぐな目だった。口が悪くて、思い込みが激しくて、素直じゃない。でも今この瞬間、その目は——ひどく真剣だった。
(わかっている)
口には出せなかった。でも——わかっていた。
「……はい」
短く答えた。セドリックが小さく頷いた。
それだけで、なぜか胸の中が少し、温かくなった。
◇
金曜日の夜、レティシアは寮の窓辺に腰かけた。
一週間を振り返った。
セドリックは毎日、何らかの形で気持ちを伝えてきた。廊下で。食堂で。庭園で。図書館で。演習場で。
全部、レティシアは「もう少し考えさせてください」と答えた。
(なぜ答えられないんだろう)
嫌いではない。それは認められる。怖くもない。それも認められる。一緒にいて、悪くない。それも——認められる。
でも。
(私は悪役令嬢だ)
シナリオが変わっていても、その事実は変わらない。セドリックに相応しい相手が——私でいいのか。
(いいわけが——)
「俺はここにいる」
セドリックの言葉が、頭の中で響いた。
「気持ちに、理由はいらない」
「逃げるなよ」
(逃げている)
レティシアは静かに、そう思った。
答えられないのは、考えているからじゃない。怖いからだ。信じていいのかどうかが——怖いんだ。
(でも——)
窓の外を見た。夜空に星が散らばっている。
(いつまで、シナリオの中に隠れているんだろう)
答えは、まだ出なかった。
でも——少し、出口が見えた気がした。
◇
土曜日の朝、リリアーヌが寮の前で待っていた。
「先輩!」
「……何ですか、朝から」
「ノアから返事が来ました!」
リリアーヌが手紙を掲げた。満面の笑みだ。
「そうですか。よかったですね」
「はい!」
リリアーヌがにこにこしながら言った。
「先輩のおかげで、自分の気持ちに気づけた気がします」
「私は何もしていません」
「聞いてくれたじゃないですか」
レティシアは少し間を置いた。
「……ノアのことが、好きだと気づいてよかったですか」
「はい! 怖かったんですけど——気づいてよかったです」
「怖かった?」
「好きだって認めたら、もし違ったら怖いじゃないですか」
リリアーヌが笑った。
「でも認めない方が、もっと怖い気がして」
レティシアは黙った。
(認めない方が、もっと怖い)
「先輩も——早く気づくといいですね」
「何にですか」
「なんでもないです!」
リリアーヌが手紙を胸に抱えて、寮の中へ駆けていった。
レティシアは一人、朝の空を見上げた。
(認めない方が、もっと怖い)
その言葉が、静かに胸に落ちた。




