第九章 告白、しかし伝わらない
その日の朝は、何もない普通の朝だった。
講義が終わり、演習場で術式の自主練習をしていたレティシアは、背後に人の気配を感じて振り返った。
セドリックが立っていた。
「殿下、今日は練習が——」
「クラーレ」
声が、いつもと違った。
文句を言うときの声でも、指摘するときの声でも、監視していると宣言するときの声でもない。低くて、真剣で——どこか、緊張しているような。
レティシアは術式を解いて、セドリックに向き直った。
「……はい」
セドリックが一歩近づいた。腕を組んでいない。いつも何かに苛立っているような眉間の皺が、今日はない。ただまっすぐ、レティシアを見ている。
(なんだろう)
「言いたいことがある」
「はい」
「……お前のことが、気になっている」
演習場に、風が通った。
レティシアはセドリックを見た。セドリックもレティシアを見ている。
(気になっている)
その言葉を、レティシアは頭の中で反芻した。気になっている。セドリックが。レティシアのことを。
(……婚約者として、当然気になるということだろうか)
「それは——婚約者として、ということですか」
セドリックの眉がわずかに動いた。
「違う」
「では、監視の一環として」
「違う」
「……では、術式の——」
「違う!」
声が大きくなった。セドリックが額に手を当てた。深く息を吐いている。
「なんでそうなるんだ、お前は」
「申し訳ありません。では、どういう意味で——」
「だから、そういう意味じゃなくて——」
セドリックが言葉を探すように間を置いた。
「……お前のことが、気になっている。ずっと。婚約者としてとか監視としてとか、そういう話じゃない」
レティシアは黙った。
(ずっと、気になっている)
それは——どういう意味なのか。
(でも、これはシナリオ的に考えると——)
「……殿下」
「なんだ」
「もしかして、それはリリアーヌへの気持ちを整理するために、婚約者である私と話したい、ということでしょうか」
セドリックが固まった。
「……は?」
「リリアーヌは真っすぐな方ですから、殿下が惹かれるのは自然なことで——」
「何を言っているんだお前は」
「違いますか」
「全然違う!」
セドリックが声を荒げた。演習場に声が響く。しかし周囲に人はいない。
「俺が言っているのはリリアーヌの話じゃない。お前の話だ。お前のことが気になっていると言っている」
「……私の、ことが」
「そうだ」
「なぜですか」
セドリックが目を細めた。
「……なぜ、って」
「婚約者だからですか」
「違う」
「幼少期からの付き合いだからですか」
「それだけじゃない」
「では——」
「わからないのか!」
セドリックが一歩踏み出した。距離が縮まる。レティシアは動かなかった。
「何を言っても動じない。何を言っても流す。それが気に入らくて、ずっと絡んでいた。でも——」
セドリックが言葉を続けた。
「気に入らないのに、目が離せなかった。毎日探していた。いないと気になった。それが——」
「婚約者として気にかけていた、ということですね」
「……お前」
「そういう意味では——」
「そういう意味じゃない!!」
完全に叫んだ。レティシアは瞬きをした。セドリックが額に手を当てて、天井を仰いでいる。
しばらく沈黙が続いた。
「……クラーレ」
「はい」
「俺は今、お前に告白をしている」
「……告白」
「そうだ」
レティシアはしばらく沈黙した。
(告白)
(セドリックが)
(私に)
頭の中でその事実を転がした。しかしどう転がしても、しっくりこなかった。
(でも——ゲームでは、こんな展開はない。だとすれば——)
「……ご冗談を」
セドリックが、今度こそ完全に固まった。
「……は?」
「殿下がそのような冗談をおっしゃるとは思いませんでしたが、もしかして私への嫌がらせの一環でしょうか」
「嫌がらせ!?」
「違いますか」
「違う!! なんで嫌がらせになるんだ!!」
「では本気とおっしゃるんですか」
「本気だと言っている!! さっきからずっとそう言っている!!」
「……申し訳ありません」
「謝るな、話を聞け」
「聞いています」
「聞いてないだろ!!」
セドリックが髪を掻き乱した。珍しく、本当に珍しく、狼狽えている。レティシアはその様子を見ながら、内心で必死に考えた。
(本気、と言っている)
(でも——なぜ私なのか。シナリオ的に考えれば——)
(いや、シナリオはもう変わっている。リリアーヌはノアが好きで、セドリックのことは好きじゃないと言っていた)
(では、シナリオ外の展開として——)
(でも——悪役令嬢が——私が——)
頭の中がぐるぐると回った。
「……クラーレ」
「はい」
「今、何を考えている」
「……色々と」
「俺の話を聞いているか」
「聞いています。ただ——」
「ただ?」
レティシアは少し間を置いた。
「……信じられない、というのが正直なところです」
セドリックが黙った。
「殿下は入学初日に、私のことを信用していない、好きでもないとおっしゃいました」
「……それは」
「八年間、会うたびに気に入らないとおっしゃっていました」
「それも——」
「監視していると言われました。おかしな動きをしたら婚約を破棄すると言われました」
「……わかってる」
「それが——なぜ今、そのようなことを」
セドリックが口を開いた。しかし言葉が出てこなかった。しばらくして、絞り出すように言った。
「……俺にも、よくわからない」
「よくわからないんですか」
「ただ——お前のことを考えている。毎日。それだけはわかる」
レティシアは黙った。
(毎日、考えている)
(でも——)
「……少し、考えさせてください」
セドリックが一瞬、傷ついたような顔をした。すぐに元に戻ったが、レティシアはそれを見逃さなかった。
「……わかった」
「申し訳ありません」
「謝るな」
セドリックが踵を返した。演習場の出口へ向かいながら、一度だけ振り返った。
「……逃げるなよ」
「……はい」
セドリックが出ていった。
レティシアは一人、演習場に残った。
夕暮れの光が、石畳に長い影を作っている。
(告白された)
その事実が、ようやく頭の中に降りてきた。
(セドリックに、告白された)
信じられなかった。信じたくなかった——というより、信じ方がわからなかった。十一年間、ずっとシナリオ通りに動くと思っていた相手が、シナリオにない言葉を言った。
(どうすればいいんだ)
答えが出なかった。ただ——
(逃げるなよ、と言った)
その言葉だけが、妙に温かく響いていた。




