プロローグ 始まりは七歳の冬
ただただ断罪されない悪役令嬢がしあわせになり愛でられる物語。
記憶が戻ったのは、高熱の後だった。
七歳の冬、レティシアは三日三晩熱を出して寝込んだ。医師が何度も往診に来て、両親が交代で看病して、それでも熱は下がらなかった。
四日目の朝、熱が引いた。
目を覚ましたレティシアは、しばらく天井を見つめたまま動けなかった。頭の中に、知らない記憶がある。山ほどの情報が頭の中にみっしりと詰まっていて、整理しようとするとずきずきと痛んだ。
侍女を呼ぶ前に、レティシアはふらつく体を起こし、鏡の前に立った。
青みがかった漆黒の髪が、冬の朝の光を静かに吸い込んでいる。切れ長の瞳は深い青で、感情を映さない湖面のように澄んでいた。小さな顔に整いすぎた目鼻立ち——美しいというより端麗、愛らしいというより冷厳。熱で頬がわずかに上気していなければ、七歳の子供の顔とは誰も思わないだろう。
(私は、誰だ)
鏡の中の少女が、静かに問い返してくる。
レティシア=クラーレ。クラーレ公爵家の一人娘。七歳。それは間違いない。でも同時に、日本で生まれて二十三年生きた誰かでもある。
両方が、自分だった。
「レティシア様、お気づきになりましたか」
侍女の声がした。レティシアはゆっくりと振り返った。
「……水をください」
「はい、すぐに!」
侍女が部屋を出ていく。レティシアは再び鏡に向き直った。
(私は悪役令嬢だ)
ゲームの知識が、静かに告げていた。乙女ゲーム『星降る王宮のシンフォニア』。このままシナリオ通りに進めば、最後に婚約を破棄され断罪される。処刑か、国外追放か。どちらにしても花屋の夢は終わる。
前世で叶えられなかった夢だった。街角に小さな花屋を開くこと。忙しすぎた人生の中で、ずっと諦め続けていた夢。この世界には見たこともない花が溢れていて、余計に諦めきれない。
(だから、破滅だけは避ける)
水を飲み干して、レティシアは静かに決意した。
◇
翌年八歳の春、王家主催の茶会でセドリック=グランフォードと初めて会った。
庭園の花壇を眺めていたレティシアの前に、金色がかった茶髪の少年が仁王立ちで現れた。整った顔をしているが、顎を上げて明らかに見下すような目をしている。
「お前がクラーレの娘か」
「はい。レティシア=クラーレと申します、殿下」
「ふん」
それだけだった。品定めをするように一瞥して、鼻を鳴らした。
(若いからかゲームより感情が顔に出るな……)
レティシアは内心でそう思いながら、表情を変えなかった。
「なんで花壇なんか見てるんだ。茶会は向こうだろ」
「綺麗だったので」
「くだらない」
「左様でございますか」
「公爵家の令嬢がしゃがみ込んで土を触るな、みっともない」
「失礼いたしました」
「謝り方も気に入らない。もっと反省した顔をしろ」
(反省した顔、とは)
レティシアは内心で首を傾げた。反省はしていないので、した顔を作る理由がない。しかしそれを言うと面倒なことになる予感がした。
「善処いたします」
「善処って何だ」
「努力するということです」
「俺が言ってる意味わかってるか?」
「はい」
「わかってたらもっと困った顔をするはずだろ」
セドリックが苛立ったように言った。レティシアは静かにセドリックを見返した。切れ長の青い瞳が、感情なく少年を映している。
「……なんだその目は」
「目、でございますが」
「気に入らない」
「申し訳ございません」
「だから謝り方が気に入らないと言ってる!」
声が大きくなった。近くにいた大人たちがちらりとこちらを見たが、王子が相手では誰も注意できない。レティシアは内心でため息をついた。
(思い込みが激しくて感情的)
「とにかく、俺の前でしゃがむな。目線が合わなくて不愉快だ」
「かしこまりました」
「それと花壇を見るな。みっともない」
「花は好きなので、それは難しいかと」
セドリックが目を細めた。
「……今、断ったか」
「花壇を見ることに関してはお断りしました」
「俺が言ったことに逆らうのか」
「全部ではございません。しゃがむことはいたしません」
セドリックが言葉に詰まった。反論できない顔をしている。全部断ったわけではないので文句が言いにくいらしい。
しばらくの沈黙の後、セドリックは「覚えてろ」と言い捨てて歩いていった。
レティシアはその背中を見送りながら、小さく息を吐いた。
(やりにくい)
でも——意地悪をしたいわけではなく、ただプライドが高くて不器用なだけ。そんな印象だった。
◇
婚約が決まったのは、それから二年後のことだった。
十歳のレティシアは、父から話を聞いた夜、自室で一人天井を見つめた。
(シナリオ通りだ)
ゲームの中のレティシアはここから、セドリックを陰で支え、教育し、ただひたすら尽くし続ける。その献身はゲームの中では一切報われず、冷徹令嬢となったレティシアはヒロインに嫉妬、嫌がらせをし、最後に婚約破棄と断罪が待っている。
(今回は、やらない)
尽くすのは終わりだ。支えるのも教育するのも、全部やらない。どうせヒロインに持っていかれるなら、消耗するだけ損だ。自分のスキルだけを磨いて、破滅エンドさえ回避できれば——あとは花屋の夢に向かって生きる。
翌日、婚約者への挨拶のためグランフォード王家を訪れた。
応接室に入ったレティシアを見て、セドリックが眉を寄せた。二年ぶりに会う婚約者は、以前より背が伸びて、顔立ちがさらに整っていた。冷たく澄んだ青い瞳、淡く色づいた唇、しんと静かな佇まい——誰もが思わず目を奪われる美しさだったが、セドリックはそれを認めるつもりが全くない顔をしていた。
「お前か」
「はい。よろしくお願いいたします」
「よろしくない」
「左様でございますか」
「俺はこの婚約に納得していない。お前みたいな女が婚約者とは、王家の恥だ」
強い言葉だった。傍に控えていた侍従が困った顔をしている。レティシアは表情を変えなかった。
「殿下のお気持ちは承知いたしました」
「……それだけか」
「他に何かございますか」
「怒らないのか」
「怒っても状況は変わりませんので」
セドリックが舌打ちをした。
「気に入らない」
「左様でございますか」
「その口癖もだ」
(では何と言えばいいんだ、この人は)
レティシアは内心でそう思いながら、完璧な令嬢の笑みを保った。
八歳の茶会から二年。セドリックは相変わらず図に乗っていて、口が悪くて、思い込みが激しかった。あの頃より少し背が伸びて、顔つきが少し大人になっただけで、中身は何も変わっていない。
(関係ない。シナリオ通りに進むだけだ)
これが、レティシアとセドリックの婚約の始まりだった。
そして八年後の春、舞台は王立学院へと移る。




