第五話『判決の日の沈黙』
神波地方裁判所の前は、冬の空気が乾いていた。
灰色の箱みたいな建物の正面に、国旗と裁判所の標章が揺れている。揺れている、というより、揺れようとしているのに寒さで固まっているようにも見えた。
私は手袋の上から、薄い紙の束を握り直した。期日のメモ。事件記録。未使用の付箋。
どれも、きょうの結果に直接影響しない。そう分かっているのに、指先だけが何かを掴んでいないと落ち着かなかった。
入口の自動ドアが開くたびに、冷たい空気が押し出されてくる。金属探知機の音。職員の短い声。
その一つ一つが、ここが「話を終わらせる場所」なのだと教えてくる。
法廷の中は描かない、と自分の中で決めていた。
真壁さんと私が、あのガラス越しで積み上げてきたものが、別の形式に回収される瞬間を、私は文章の中で再現したくなかった。たぶん、私は耐えられない。
だから私は、廊下に立っていた。
扉の向こうの声は、断片でしか届かない。名前と罪名と、数字。形式的な言葉が、壁に吸われていく。
しばらくして、扉が開いた。
人の流れが廊下に溢れ、また収束していく。私は流れに乗り切れず、柱の陰に寄ったまま、遠くを見た。
真壁惣一さんは、いた。
傍聴席の人波の向こう、少し高い位置に、拘束具の金属の色が見えた。顔までははっきり見えない。見えないことが、助けだった。
「主文」
声がした、と後から思う。
実際には、私は自分の耳に入ってきた言葉を、都合よく「声」にまとめただけかもしれない。
有罪。
罪名。
刑期。懲役十五年。未決勾留日数算入。
紙の上に乗るには十分に整った言葉だった。整いすぎて、怖い。
「密室」という見出しが、きょうで完全に固定される。事件が、ニュース用の形に固まる。そこから先、誰が何を言っても、逆らえない石膏みたいに。
私は呼吸を一つ深く入れた。
冬の廊下の空気は、吸うと肺が少し痛む。
外に出ると、空が薄く曇っていた。降りそうで降らない。第4話の面会の日と同じ色だった。
私はスマホを見ないようにしていたのに、画面が勝手に光った。通知が一つ、すぐ下に滑り込んでくる。
――「セレスティア神波密室殺人事件 被告に懲役十五年 地裁判決」
私は親指で通知を払い、画面を消した。
消しても、見出しは頭の中に残った。消しゴムをかけたみたいに薄くならない。むしろ、輪郭がはっきりする。
そのまま私は、神波拘置所へ向かった。
判決後の短い面会が許される、と事務的に告げられていた。時間は短い。内容も限られる。録音は当然できない。
拘置所の受付で、面会カードを差し出す。番号札を受け取る。
札の数字は軽くて、手のひらの中で意味だけが重い。
待合室の自販機の前に人が二人いた。缶コーヒーのボタンを押し間違えて、少し甘すぎるのが出てきたらしい。小さく舌打ちして、苦笑している。
私はそれを見て、笑いそうになって、やめた。笑うには、きょうは静かすぎた。
番号が呼ばれる。
重い扉が開く音が、面会室の空気の乾きを引っかく。
*
ガラスの向こうに、真壁さんが座っていた。
拘置所支給のトレーナー。痩せた肩。目元の疲れは、きょうは少し違う形になっていた。疲れが減ったわけではない。ただ、疲れの行き場が決まった顔だった。
受話器を取る。向こうも取る。
音がつながるまでの一拍が、いつもより長い気がした。
「……先生」
彼は、いつも通り私を呼んだ。
その一言だけで、私は少しだけ現実に戻れた。
「判決、聞きましたね」
私の声は、思ったより落ち着いていた。落ち着いていることが、逆に怖い。
彼は小さくうなずいた。
「はい。……聞きました。ちゃんと、数字で言ってくれました」
数字。
十八時五十八分と、十八時五十九分。
懲役十五年。
この物語は、最後まで数字に支配される。
「控訴について、確認させてください」
私はいつもの前置きを口にした。
法廷ではなく、ここで。ガラス越しで。
彼は一瞬だけ天井のデジタル時計を見上げた。癖は、きょうも残っている。
そして視線を戻し、言った。
「しないです」
「理由は……聞いてもいいですか」
「……終わらせたいんです」
彼の言い方は、投げやりではなかった。
投げやりじゃないのに、諦めに似ている。諦めに似ているのに、決意に近い。
「終わったことに、するんですか」
私が言うと、彼は苦笑した。目だけが笑わない、そのいつもの笑い方で。
「先生、意地悪ですね。……終わったことにする、って言うと、僕が勝手に終わらせるみたいですけど」
「じゃあ、何ですか」
「終わることになった、って感じです。紙の上で」
紙の上。
調書。起訴状。判決文。
私の手帳だけが、まだ紙の上に載らないものを抱えている。
私は息を整えた。時間が短い。分かっている。
それでも、きょう言わないと、この先もっと言えなくなる気がした。
「真壁さん。最後の機会として、一つだけ」
彼の手が、受話器のコードの近くで動いた。ねじる、まではいかない。触れるだけ。
彼は何も言わない。
「あなたが、語らなかったことが一つだけある気がします」
言った瞬間、面会室の空気が少し重くなった。
重くなったのは空気じゃない。私の中の言葉の置き場だ。
彼は、すぐには否定しなかった。肯定もしない。
ガラス越しに見える喉仏が、小さく動いた。
「……先生」
「はい」
「それは、僕じゃない誰かの話です」
私は、その言い方がいちばん苦しい形だと知っていた。
「僕じゃない」と言い切ることで、彼は自分を守る。
同時に、誰かを守る。
「“誰か”って、具体的に言わなくていいです。名前じゃなくてもいい。場所でもいい。たとえば――」
私は言いかけて、止めた。
「たとえば、お姉さん」
その固有名詞を口にした瞬間、私は線を踏み越える気がした。
彼の目が、わずかに細くなった。怒ってはいない。むしろ、困っている。
困っているのに、どこか私に謝っている。
「先生には、ずいぶん余計な話までしてしまいました」
彼はそう言って、少しだけ視線を落とした。
余計な話。雨の強さ。チェーンの音。傘。缶コーヒー。白い時計。
そして、一分間。
「余計じゃないです」
私は反射的に言った。
職業的に、というより、私の感情が先に出た。
彼はそれを受け止めるように、小さくうなずいた。
「でも、余計なんです。……先生の仕事、増やしてる」
「仕事は、増えてもいいです」
「それが……優しい言い方なの、分かってます。でも」
彼は受話器を握る手に力を入れた。白くなるほどではない。ただ、指の関節が目立つ。
私は、その手を見ないようにした。見たら、言葉が乱暴になる気がした。
「僕が言うと、違うものになるんです。……先生が書く言葉の中で、“確定”しちゃう」
第4話で彼が言ったのと、同じ種類の恐怖だった。
言語化=確定。確定=不可逆。
この人はそれを、誰より知っている。職場でスケープゴートにされた人の、知り方だ。
「確定しない書き方も、あります」
私は言いながら、自分の言葉が嘘に聞こえた。
どんなに曖昧に書いても、書いた瞬間、それは“形”になる。
彼はゆっくり首を振った。
「先生が悪いんじゃないです。……僕が、そういうふうに、できてる」
私は、話題を少しだけずらした。
ずらすのは、彼の役目だったのに、きょうは私がそれをしている。
「傘のこと、覚えてますか」
彼は、一瞬だけ眉を上げた。
それから、いつもの、少し投げやりな砕けた口調が混じった。
「覚えてます。先生、まだ傘の話するんだって」
「します」
「……持ってませんでした」
その一点だけは、最後まで変わらない。
変わらないことが、事実か、意地か、守りか。私はまだ判断できない。
「玄関にあった傘は」
「僕のじゃないです」
「“僕のじゃない”って言い方、前にもしましたね」
「言いました」
「それって、“誰かの”って意味ですか」
彼は答えなかった。
沈黙が一つ落ちる。面会室のデジタル時計が、数字を一つ進める。
私は、数えた。
十。二十。三十。
六十までは数えない。きょうは、あの一分間をここで再現したくなかった。
「真壁さん」
彼が顔を上げる。
「あなたは、自分を、犯人だと思っていますか」
質問としては遅すぎる。弁護士としては、最初にやるべき確認だ。
でも私は、最初にそれを聞かなかった。聞けなかった。
ガラス越しの最初の面会で、彼が淡々と「やりました」と言ったからだ。私はそれを“事実”として扱った。
彼は少し考えるように、目を伏せた。
「……犯人に向いてる顔ですから」
冗談の形をしている。
その形が、彼の逃げ道でもある。
「顔の話じゃなくて」
私が言うと、彼は小さく息を吐いた。
「思ってます」
「どうして」
彼は、答えるのに少し時間がかかった。
そして、言葉を選ぶように言った。
「……何もしなかったからです」
私は、その一文が、いちばん危険な形だと感じた。
何もしなかった。
それは、誰に対して、どの瞬間に、何を、なのか。
「“何もしなかった”って」
私は続けようとして、止めた。
また、踏み越える。
彼は、私の止めたことに気づいたのか、気づかないふりをしたのか。
どちらでもいいように、目を細めた。
「先生が考えてるより、僕はひどい人間ですよ」
第4話の、あの言葉。
きょうも同じ形で置かれたのに、響き方が違った。
判決が出たあとだと、これは“告白”ではなく、“確認”に聞こえる。
「ひどい、って――」
そのとき、職員の足音が近づいた。
扉の向こうの気配が、会話の中に入り込んでくる。面会は時間で切られる。いつも通りに。
「時間です」
機械的な声。
デジタル時計の数字が、こちらを見ているみたいだった。
私は焦って、最後に言った。
「真壁さん。もし、あなたが“語らない”ことで守っているものがあるなら――」
彼は、ゆっくり首を振った。
「守ってるって言うと、守ってることになります」
「……じゃあ、あなたは何をしてるんですか」
彼は少しだけ笑った。
悲鳴みたいに小さい笑いだった。
「……終わらせ方を、選んでるんだと思います」
職員が合図をする。
受話器を置く時間が来る。
私が受話器を戻す前に、彼が先に言った。
「先生」
「はい」
「ありがとうございました」
その言葉が、急に現実的で、私は胸の奥が少し痛んだ。
感謝されるような仕事を、私はしていない。結果は変えられなかった。
それでも、彼は“線”を一本持ってくれた人に対して、礼を言っている。
私は受話器を戻した。
ガラスの向こうで、彼も戻した。
扉が閉まる音。
いつもより大きく聞こえた。
*
拘置所の外に出ると、地面が少し濡れていた。
雨が降ったのか、降らなかったのか、判断できない程度の濡れ方だった。水たまりはない。靴底に薄い冷たさが残る。
私は自販機の前に立った。
缶コーヒーにするか、茶にするか。どうでもいい選択なのに、こういうときほど迷う。
結局、温かいお茶を選んだ。
缶が落ちる音が、空っぽの胃に響いた。
指先が冷えていた。缶の熱が、皮膚の表面だけを溶かすみたいに戻してくる。
私は一口だけ飲んだ。熱すぎて、舌が少し痛い。痛みが、いまここにいる証拠になる。
スマホがまた光った。
さっき消したはずの見出しが、別の媒体で同じように出てくる。ネットニュースは、こちらが拒否しても追いかけてくる。
――「密室殺人、被告に実刑 供述の変遷も…」
私は今度は消さずに、数秒だけ眺めた。
“供述の変遷”。
“密室トリック”。
“血の付いた折りたたみ傘”。
見慣れた言葉が、見慣れた順番で並んでいる。そこに“語られない一分間”はない。あの一分間は、記事の形式に入らない。
画面を伏せ、ポケットにしまった。
冷たい空が、少しだけ明るくなっていた。雲の薄いところから、弱い光が射している。
私は、手帳を開いた。
ページの端に、私の字で残っている。
18:58 → 18:59 語られない一分間
その下に、きょう書き足した。
懲役十五年
数字が二つ、同じ紙の上に並んだ。
どちらも、彼が見上げていた時計と同じ種類の確定だ。
私はペン先を止めたまま、少しだけ考えた。
弁護士として、私は“次の手”を考えるべきだ。控訴期限。手続き。依頼者の意思確認。
でも、きょうの私の思考は、手続きの外側に触れたまま戻ってこない。
ガラス越しに見えた彼の手。
「僕じゃない誰かの話です」という言い方。
そして、「何もしなかった」という一文。
真壁さんは、何かを語らないことで、誰かを守っている――そう言ってしまうのは簡単だ。
けれど彼が嫌がったのは、その“守る”という言葉の確定だった。確定した瞬間、物語になる。物語になった瞬間、紙の上の線になる。線は、誰かを切る。
私は自分の息が白くなるのを見ながら、缶のお茶をもう一口飲んだ。
熱は少し落ち着いて、喉を滑った。
ふと、離れたところに人影があった。
喫煙所のあたり。スーツの肩。ネクタイの曲がり方。
佐伯さんだった。
彼は私に気づいて、近づいてくるでもなく、ただ顎だけで小さく挨拶した。
私は同じように返した。
「終わったか」
彼の声は、いつもの荒さが薄かった。
「……終わりました」
「控訴は」
私は一拍置いて答えた。
「本人は、しないと言いました」
佐伯さんは、短く息を吐いた。煙草は吸っていない。ここでは吸えないから、ただ“吸う前の癖”だけが残っている。
「そうか」
それだけ。
それ以上の言葉は、たぶん彼も持っていない。
彼は少し視線を逸らして、空を見た。
私も同じ方向を見る。
「降らなかったな」
彼が言った。
私は、地面の薄い濡れを思い出した。
「降ったかもしれません。気づかない程度に」
「……そういう雨もあるか」
小さな会話。どうでもいい会話。
でも、こういう“どうでもいい”の中にしか、残らないものがある。
佐伯さんは私を見ずに言った。
「先生、線、持ってるか」
私は手帳の重みを、コートの内側で確かめた。
「……持ってます」
「なら、いい」
彼はそれだけ言って、歩き出した。
背中が、裁判所の灰色と同じくらい、乾いて見えた。
私はその背中を見送り、もう一度空を見上げた。
雲の切れ目が少し広がっている。晴れ、と呼ぶには弱い。でも、暗くはない。
分からないまま終わる事件がある。
終わったことにするしかない話がある。
それでも、終わったあとに残る沈黙は、誰かが引き受けて持って歩く。
私は手帳を閉じ、缶のお茶の残りを飲み干した。
空になった缶は軽い。軽いのに、捨てる場所を探す手だけが慎重になる。
ゴミ箱に缶を入れた。
金属が当たる音が、小さく鳴った。
その音は記録に残らない。
だからこそ、私は覚えていようと思った。
ガラス越しに聞いた、いくつもの言い直しと、言わなかった一言と一分間を――“確定”させない形のまま。
拘置所の壁の上の監視カメラが、こちらを見ていた。
私は視線を上げ、カメラではなく、その先の空を見るふりをした。
冬の光は薄く、静かだった。
それでも、確かにそこにあった。




