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語られない密室  作者: 夕陽野 ゆうひ


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4/5

第四話『語られない一分間』

 判決期日が近い、という言葉は、紙の上ではいつも淡々としている。


 けれど拘置所の受付で面会カードを出すとき、番号札を受け取るとき、重い扉の向こうに消えていく係員の背中を見るとき――その淡々とした言葉が、急に身体に触れてくる。


 この日、廊下の自販機はやけに明るく見えた。蛍光灯が白く反射して、缶のラベルだけがやたらと鮮やかだった。


 微糖の缶コーヒーに手を伸ばしかけて、やめた。朝から喉が乾いているのに、糖分を入れる気分になれなかった。代わりに、ぬるいペットボトルのお茶を買った。キャップを回しても、音だけが大きくて、何も落ち着かなかった。


「本日、面会番号――」


 アナウンスが呼ぶ番号は、いつも私の心臓の少し上を叩く。立ち上がって、椅子の脚が床を擦る音に自分で驚いた。


 通路の先、ガラスの向こうに並ぶ面会ブース。白い壁と厚いガラス、受話器。固定されたテーブル。天井の監視カメラ。壁の上部のデジタル時計。


 いつもの景色のはずなのに、今日は時計が目に刺さった。赤い数字が、きちんと一秒ずつ動いている。


 録音は禁止。メモも最小限。記録に残らない会話。残るのは、私の手帳と、私の解釈だけ。


 ――だから今日は、できるだけ「通し」で聞く。


 私は手帳の紙を一枚、指で押さえた。これまでの面会で出てきた時刻、言い回し、調書の断定表現、彼の「気がする」。それらを並べて作った、ひどく頼りないタイムライン。


「第4ブースです」


 職員に促され、私はブースの椅子に座った。受話器を取る。ガラス越しの向こうが、しばらく空席のまま揺れた。


 扉の開閉音がして、少し遅れて真壁惣一が入ってきた。


 痩せた身体に、拘置所のスウェット。目の下の影が以前より濃い。笑う気配を見せても、目だけは動かないことが多い人だ。今日もそうだった。


 彼は椅子に座り、受話器を取り上げ、こちらを見る前に一度だけ天井の時計を見上げた。


 ――やっぱり、見る。


「先生」


「真壁さん。……今日は、少しだけ、お願いがあります」


 私は言い方を探した。お願い、と言っていいのか。職務の範囲だと言い切ることもできる。でも、このシリーズの面会は、いつもその境界が曖昧になる。


「判決が近いので」


 彼は小さくうなずいた。うなずき方が、どこか「知っている」というより「やっと言われた」という感じに見えた。


「最後にもう一度、事件当日のことを――最初から最後まで、できるだけ通しで、聞かせてください」


「……通しで」


 真壁は受話器のコードを指でねじった。ゆっくり、同じ方向に。


「先生、前にも、だいたい話したじゃないですか」


「“だいたい”じゃなくて。止めずに。途中で私が確認を入れないで。真壁さんのペースで、最初から最後まで。終わってから、必要なところだけ質問します」


 沈黙が挟まった。ガラス越しの隣のブースから、断片的な声が聞こえる。言葉の内容は分からない。抑えた声の調子だけが、ここが“普通の会話の場所”ではないことを思い出させる。


 真壁は、私の言葉を一度口の中で転がすようにしてから言った。


「……分かりました。やります。……ただ、うまくいかないかもしれないです」


「うまくいかなくてもいいです。うまく話そうとしないでください」


 そう言った瞬間、私は自分が何を求めているのか分からなくなる。うまく話さなくていい。けれど、話してほしい。矛盾しない形で、ではなくて、矛盾の形のまま。


 真壁は、また時計を見た。面会時間のカウントダウンを、彼は自分の身体に刻むみたいに確かめる。


 それから、息を吐いて話し始めた。


「……その日、家を出たのは、六時前だったと思います。……“前”って言うと曖昧ですけど。六時よりちょっと前。五時五十分とか、そのくらい」


 私は頷いた。ペンを持ったが、すぐには書かなかった。今日は“書くために聞く”のではなく、“聞くために聞く”。


「外に出たとき、雨は……降ってなかった。少なくとも、僕はそう感じた。……感じた、っていうのが、もうダメなんですけど」


「続けてください」


「駅まで歩いて、コンビニ寄って。缶コーヒー……あの日も微糖だった。先生が前に飲んでたやつ。……あれ、苦くないですか」


 不意に、ほんの小さな笑いが混じった。彼の笑いは、場を軽くするための笑いに見える。軽くするつもりで、むしろ軽くならない。


「苦いです。でも、今日は飲みませんでした」


「……じゃあ、先生も、“終わらせたい側”なんですね」


 その言い方に、私は少しだけ息が止まった。“終わらせたい側”という分類が、ここで作られてしまう。


 真壁は続けた。


「コンビニを出たとき、頬に当たるくらいの雨があって。傘が欲しいとかまでは思わないけど、……濡れるのが気になるくらい。駅からマンションまで歩く間に、だんだん強くなった。あのへん、街灯が少なくて、雨が目に見えやすいんです。光の中に線が出るみたいに」


 “光の中の線”。妙に詩的な比喩だった。彼は普段、比喩を多用しない。必要なときだけ言葉が変わる。


「マンションのオートロックは、インターホンで岡島さんが開けた。……そこは、映像もあるから、多分、合ってる」


「はい」


「エレベーターで十階に上がって。廊下、ちょっと寒かった。……あの廊下、窓があって、雨のときはガラスに水が流れる。あの日も、流れてた」


 私は、ペン先をほんの少し紙に触れさせた。書きたい衝動を押さえながら、“廊下の窓の水”だけを小さくメモする。


「1003号室の前に着いて。……ドアは、鍵が閉まってる感じはなかった。ドアノブを回したら、開いた」


「……」


「“中からチェーンを外す音がした”って、調書には書いてあるんですよね。……でも、僕、あれ、たぶん、音を想像したんです。……ニュースで“密室”って言われて、チェーンが重要なんだろうって」


 私が頷くと、真壁は少し安心したように見えた。安心の仕方が、どこか“叱られなかった”という種類の安心だった。


「入って、玄関で靴を脱いで。……床が少し濡れてた気がする。僕の靴のせいかもしれないし、……分かんないです。あのとき、雨、強くなってたから」


「続けてください」


「岡島さんは、リビングの方にいた。……最初に言葉を交わしたのは、……“遅いな”だったと思います。……その言い方が、怒ってるというより、疲れてるみたいで」


 私は、そこで初めて、彼が“被害者の声”を思い出していることを意識した。今までの彼の語りは、どこか“出来事”として語られていて、相手の声はいつも薄かった。今日は、声が出る。


「僕は、……“すみません”って言った。で、コンビニの袋を見せて、“これ、家賃です”って。……現金。封筒に入れて。……それを、テーブルに置いた」


「岡島さんは、何て」


「“今さら”って。……“今さら持ってくるくらいなら、最初から”って」


 真壁はそこで一度、受話器のコードを強くねじった。指が白くなる。


「……先生。僕、こういうの、得意じゃないんです。人の言葉を、正確に思い出すの」


「正確じゃなくてもいいです。あなたの中に残っている形で」


「残ってる形が、たぶん、僕に都合よくなってる」


 その自己否定は、いつもより鋭かった。判決が近いという事実が、彼の中の“逃げ場”を削っているのかもしれない。


「岡島さんは、保証人の話をした。……“保証人にも迷惑がかかる”って。……それで、姉の――」


 そこで、真壁の声が一瞬だけ途切れた。


 私は、促さなかった。促したら、話はまた“整う”。整えるのは彼の癖だ。相手が欲しい答えを察してしまう。


 真壁は、息を吸い直した。


「……姉の話を、出した。……“お姉さんはどう思ってるんだ”って。……僕は、“関係ない”って言ったと思う。……でも、強く言ったわけじゃない。強く言うと、逆に、刺さるから」


 “刺さる”。言葉の選び方が、また少しだけ変わる。


「それで、いつもの話になった。仕事のこと、将来のこと。……“どうするつもりなんだ”って。……僕、あのとき、何て言ったんだろう。……覚えてない。……たぶん、“すみません”って言った」


「あなたが立ち上がったのは」


 私は、質問を挟むべきではないと決めていたのに、口から出た。止めるべきだと思うのに、止められない。


 真壁は、私を見た。責めるようではなく、“先生も限界なんだ”と確認するみたいに。


「……立ち上がったのは、……その後です。……岡島さんが、テーブルの上の封筒に手をかけて、……“これで終わりだと思うな”みたいなことを言った」


「“みたいな”」


「……そういう意味のこと。……僕、そのとき、時計を見たんです」


「時計」


「リビングの壁に、時計があって。……白い、丸い。……秒針が、ちょっと音を立てるタイプ。……あれが、やけに大きく聞こえた」


 私は、面会室のデジタル時計を見上げた。秒針はないのに、ここでも一秒が目に見える。


「その時計が、……十八時五十八分だった。……と思う」


「“と思う”」


「……はい。……でも、その“十八時五十八分”だけは、変なふうに残ってる。……秒針の位置まで」


 真壁は、指先で空中に小さな円を描いた。ガラス越しの、触れない空間に。


「それで」


「それで、僕は立ち上がって。……棚の方に行って。……ガラスの置物があって。……前にも言ったやつ。……あれを手に取って」


 彼の声は淡々としていた。淡々としたまま、どこかだけ固い。受話器を握る手が、少し震えているのが分かった。


「一回、振り下ろした」


 私は頷いた。ここまでは、これまでの語りと大きくは違わない。


「岡島さんは倒れた。……倒れた、って言うのも、……倒れたというより、崩れた。……僕、そこで、……動けなくなって」


 真壁は、そこで一度黙った。黙り方が、これまでの“考えている沈黙”とは違う。言葉が追いつかないというより、言葉を出すことを身体が拒んでいるような沈黙。


「……それで、僕は――」


「はい」


「……次に気づいたとき、岡島さんは……床に倒れてて。……血、は、……あって。……僕は、玄関の方にいた」


 私は、ゆっくりとまばたきをした。今、彼は“飛ばした”。


「真壁さん」


「……はい」


「いま、飛ばしました」


 彼は、否定しなかった。否定しない代わりに、笑った。いつもの、目だけ笑っていない笑い。


「先生、さっき言いましたよね。うまくいかないかもしれないって」


「うまくいかなくてもいい。でも、飛ばしたところは、飛ばしたと言ってください」


 真壁は、受話器のコードをねじるのをやめた。指をほどいた。ほどいたのに、手は受話器から離れない。


「……飛ばしました」


「どこを」


「……」


「最初に言葉を交わしてから、岡島さんが倒れているのに気づくまで」


「……」


「その間の時間」


 私は、手帳を開いた。今日のために書いてきた欄。彼が“十八時五十八分”と言ったところ。


「あなたは、時計を見たと言いました。十八時五十八分だった、と」


「……はい」


「そして、“次に気づいたとき”」


「……はい」


「その時計は、何分になっていましたか」


 真壁は、目を上げた。天井の時計ではなく、私を見た。ガラス越しの、真正面。


「……十八時五十九分」


 私は息を吸った。息が、喉の奥で少し引っかかった。


「一分です」


 真壁はうなずいた。うなずき方が、さっきの“知っている”ではなく“知ってしまっている”だった。


「……一分」


「語られていない一分」


 私がそう言うと、真壁の口元が少し歪んだ。笑いではない。耐える形に見えた。


「真壁さん。その一分間に、何がありましたか」


「……何も」


「“何も”」


「何も、です」


 私は、すぐに次の質問をしなかった。面会室での沈黙は、時間の制約のせいでいつも罪悪感を伴う。沈黙している間にも、面会時間は減っていく。だから私たちは、沈黙を避ける。


 でも今日は、避けたくなかった。


 私は、天井のデジタル時計を見た。秒が一つ進む。もう一つ進む。


 真壁は、こちらを見ない。ガラスの奥の自分の膝あたりを見ている。


 一秒、二秒、三秒。


 私は心の中で数えた。数えることは、真実に近づくためではなく、逃げないためだった。


 十秒。


 隣のブースから、短く笑う声が漏れた。笑い声がここでは異物みたいに聞こえる。


 二十秒。


 真壁の指が、また受話器のコードに触れた。触れて、でもねじらない。触れるだけ。


 三十秒。


 私の喉が渇いた。さっき買ったお茶を、ここでは飲めない。飲めるのは外に出てからだ。


 四十秒。


「先生」


 真壁が言った。声が、少しだけ掠れていた。


「僕、ほんとに、何もしてないです。その一分」


「“何もしてない”」


「……“何も”が、何なのか分からないですけど。……僕は、……そこだけ、言葉にできない。……言葉にしようとすると、違うものになる」


 私は、言葉にしようとした。あなたは、その一分に何を見たのか。誰の声を聞いたのか。誰かの痕跡を見つけたのか。電話が鳴ったのか。傘の水滴が床に落ちたのか。


 でも、それらは全部、私の中の“物語の補完”だ。


「真壁さん」


「はい」


「その一分間、あなたはどこにいましたか。リビングですか。玄関ですか」


「……分からない」


「分からない、というのは」


「気づいたら、玄関の方にいた。……でも、どうやって移動したのか、……分からない。……歩いたと思うけど、……歩いたって言ったら、歩いたことになる」


 私は目を閉じたくなった。言葉が、彼にとって“確定”になることへの恐怖が、ここまで具体的に表に出たのは初めてだった。


「あなたは、その一分間に、岡島さんに触れましたか」


 真壁の肩が、わずかに跳ねた。


「……触れてない」


「凶器――ガラスの置物は」


「……手に持ってた。……持ってたと思う。……でも、……置いたかもしれない」


「“かもしれない”」


「……先生。僕、こういうの、ずるいですよね」


「ずるい、というのは」


「“かもしれない”で逃げてる。……でも、逃げてるんじゃなくて、……ほんとに、そこで、……抜けてる」


 私は、机の上で手を握った。握って、開いた。自分の身体が、彼の言葉に引っ張られて固くなるのが分かる。


「その一分間に、誰かの声を聞きましたか」


「……聞いてない」


「物音は」


「……秒針の音」


「それ以外は」


「……」


 真壁は黙った。その黙り方は、さっきの黙り方よりも“意志”がある。守っている。あるいは、壊れないように抑えている。


 私は、別の角度から聞くことにした。問いの形を変える。事実を求めるより、彼の“選択”を浮かび上がらせる。


「真壁さん。あなたは、判決について、どう考えていますか」


 彼は、意外そうに眉を上げた。


「……急に、そっちですか」


「この一分間が語られないまま、判決は出ます」


 真壁は、少しだけ笑った。今度の笑いは苦い。


「……有罪ですよね。……僕も、そうなると思います」


「控訴は」


「……したくない」


「理由は」


 真壁は一瞬、答えを探した。探した末に、いつもの言葉を選んだ。


「早く全部、終わってほしい」


「終わったら」


「……終わらないものもあるでしょうけど。……でも、“終わったことにする”のは、できる」


 “終わったことにする”。その表現は、彼の中の“公的な物語”と“個人的な沈黙”をつなぐ、仮の接着剤みたいだった。


「あなたは、誰かを守っていますか」


 私は言ってしまった。言った瞬間、自分の声が少しだけ震えたのが分かった。面会室の空気が、急に薄くなった気がした。


 真壁は、笑わなかった。


「……守ってないです」


「本当に」


「……守ってるって言うと、守ってることになる。……それも、嫌です」


「じゃあ、あなたは何をしているんですか」


「……先生が考えてるより、たぶん、しょうもないことです」


「しょうもない、とは」


「……“迷惑をかけないようにする”とか。……そういうやつ」


 その言葉に、私は胸の奥が少しだけ痛くなった。迷惑をかけないようにする。彼が何度も口にする言葉。その言葉が結果的に、誰かに迷惑をかけることもある。


「真壁さん」


「はい」


「その一分間を語らないことは、誰にとっての“迷惑をかけない”ですか」


 真壁の目が、ほんの少しだけ揺れた。揺れたのに、答えは出ない。


 代わりに彼は、天井の時計を見た。面会室の時計。ここでも、時間が彼を追い立てる。


「先生」


「はい」


「その一分間って、……先生にとって、そんなに大事ですか」


「大事です」


「……なんで」


 私は、正直に答えた。


「あなたが、一貫して語らないからです」


「……」


「雨の強さは揺れる。チェーンの音も揺れる。傘の話も、“調書の上では”揺れている。でも――あなたの中では、傘は“ない”。そして、この一分は“語られない”。そこだけは、形が変わらない」


 真壁は、しばらく黙っていた。それから、少しだけ首を傾けた。


「……先生、僕、傘の話、そんなにしてましたっけ」


「してました。あなたが思っているよりも」


「……そっか」


 その返事が、妙に柔らかかった。柔らかいのに、すぐに固くなる予感がした。


 私は、最後に、言うべきことを言おうとした。判決の前に、私の側の“確認”を残したい。


「真壁さん」


「はい」


「真壁静さんのことを――」


 その瞬間、ブースの外から短い電子音が鳴った。面会終了の合図。壁の時計が、残酷なくらいちょうどの区切りを示していた。


 職員の足音が近づく。扉の向こうの空気が、急に現実になる。


 私は受話器を握り直した。言葉を急いだら、台無しになる。でも、急がなければ終わる。


「――事件当日、静さんは」


「先生」


 真壁が私の言葉を遮った。遮るというより、先に音を置いて、私を止めた。


「……その話、今じゃなくていいです」


「今じゃないと」


「今じゃなくても、終わります」


 それは、彼の“終わらせ方”だった。法廷の判決よりも先に、彼自身が引いてしまう線。


 職員が扉の前に立つ気配がした。こちらのブースの扉が開く音がして、冷たい空気が少しだけ入ってくる。


 私は、最後に一つだけ言った。


「あなたが語らない一分間は、あなたを守るための沈黙ですか」


 真壁は、答えなかった。


 代わりに、受話器を握る手に力を込めた。指が白くなる。コードが、ぎゅっとねじれる。


 そして、扉が閉まる直前、彼は言った。


「先生が考えているよりも、僕はひどい人間ですよ」


 その言葉は、謝罪の形をしていなかった。自慢でも、開き直りでもない。


 ただ、事実みたいに、置かれた。


 ガラスの向こうで職員が彼を促し、真壁は立ち上がった。最後にもう一度だけ天井の時計を見て、こちらを見ずに出ていった。


 私は受話器を戻した。手のひらが、汗で湿っていた。


 *


 拘置所の外に出ると、空は薄い灰色だった。事件当日の雨とは違う。降りそうで降らない、あいまいな冬の空。


 自販機で買ったお茶を開けて、一口飲んだ。冷たさが、舌に触れた瞬間だけは現実的だった。


 手帳を開く。書きかけのタイムラインの横に、私は小さく書いた。


 ――十八時五十八分から五十九分。語られない一分間。


 その一分間を埋めたくて、私は今日ここに来たはずだった。


 でも、埋めようとすればするほど、そこが“誰かのための空白”にも、“彼自身のための穴”にも見えてくる。


 どちらにせよ、そこに私の鉛筆を差し込むのは、簡単じゃない。


 面会室のガラスの向こうにいた彼の手。白くなった指。ねじれた受話器のコード。


 そして、最後の言葉。


「ひどい人間ですよ」


 それは、何の告白だったのか。


 答えは、まだ、出ないままだった。

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