第5話:女王の害虫駆除(デトックス)
「ふぅ……。流石に深くなってきたわね」
第2層の濃霧エリアを抜けた俺は、少し開けた岩場で足を止めた。
湿度は高いままだが、霧は晴れている。
俺は額に滲んだ汗を指先で拭い、小さく息を吐いた。
隣では、ミミックのパンドラが、短い足を一生懸命動かしてついてきている。
その箱の蓋が、パクパクと開閉して空気を入れ替えているのが見えた。どうやら彼(彼女?)も疲れているらしい。
「少し休憩にしましょうか。パンドラ、お水飲む?」
俺はAmazoneで購入したミネラルウォーターのキャップを開け、パンドラの箱の中へ注いであげた。
パンドラは嬉しそうに体を揺らし、その水分を段ボールの繊維で吸収していく。
『パンドラちゃんかわいい』
『水飲むんだw』
『癒やし枠』
『ここまでは平和だな』
コメント欄も穏やかなものだ。
だが、俺の警戒心は解けていない。
第2層。ゲームで言えば、序盤の山場だ。今までのような雑魚ばかりではないはずだ。
(油断するなよ……。来るなら、地形が変わった直後の今だ)
俺は空になったペットボトルをアイテムボックス(パンドラ)にしまわせ、再び歩き出そうとした。
カサカサカサッ……!
不快な音が、頭上の岩場から響いた。
それも、一つや二つではない。複数の足が、硬い岩肌を叩く音だ。
「……ッ! 上か!」
俺は咄嗟にバックステップを踏んだ。
直後、俺が立っていた場所に、白い粘着質の液体がビチャリと叩きつけられる。
「キシャアアアアッ!!」
天井から降ってきたのは、巨大な影。
八本の長い脚。黒光りする甲殻。そして、無数の赤い瞳。
軽自動車ほどもある大きさの「大蜘蛛」だった。
『うわああああ虫だあああ!』
『【ジャイアント・スパイダー】!』
『中ボス級だってよ!』
『逃げて女王様!』
コメント欄が悲鳴に変わる。
俺も内心で絶叫した。
虫は嫌いだ。特に、生理的嫌悪感を催す多脚系は勘弁してほしい。
(くそっ、やるしかねえ!)
俺はパンドラからチェーンソーを取り出し、起動させた。
「……ふん。品のない姿ね。私の視界に入らないでくださる?」
恐怖を押し殺し、俺は蜘蛛に向かって疾走した。
先手必勝。あの長い足を切り落とす!
ギュイイイイーン!!
唸りを上げる刃を、蜘蛛の脚目掛けて振り下ろす。
だが。
ヒュンッ!
速い。
蜘蛛は巨体に似合わぬ速度で跳躍し、俺の一撃を軽々と回避した。
空振ったチェーンソーが虚しく空を切る。
(なッ……!? 当たらねえ!?)
重いチェーンソーは、振り回すと隙ができる。
蜘蛛はその隙を見逃さなかった。
天井に張り付いたまま、尻から白い糸を噴射してくる。
バシュッ! バシュッ!
「くっ……!」
俺はドレスを翻して回避を試みるが、糸の弾速が異常に速い。
避けた先にも、計算されたように次の糸が飛んでくる。
ペチッ。
「あ……」
左足が、床に縫い付けられた。
動けない。
「しまっ――」
バランスを崩した俺の全身に、次々と粘着糸が絡みつく。
腕、腰、太もも。
俺は為す術もなく、岩壁に張り付けにされた。
「ぐぅ……ッ! 放しなさい、この……!」
もがけばもがくほど、糸が食い込む。
チェーンソーは遠くへ弾き飛ばされていた。
最悪だ。完全に捕まった。
蜘蛛が、ゆっくりと天井から降りてくる。
獲物をじっくりと味わうつもりか、すぐにはトドメを刺してこない。
だが、それが逆に恐怖を煽る。
(やばい、やばい! 詰んだ!)
俺は必死に心の中でコメント欄に叫んだ。
(おいお前ら! 弱点はどこだ!? 火か!? それとも目か!? 早く教えろ!)
俺は祈るような思いで、カメラの向こうのリスナーを見た。
だが。
流れてきたコメントは、俺の予想を裏切るものだった。
『ありがとうございます!』
『緊縛シーンたすかる』
『やべえ、このアングル最高かよ』
『もっと苦しむ表情ください』
『スクショ連打した』
……は?
俺は目を疑った。
こいつら、俺が死にそうなのに、何を興奮してやがる?
ピンチすらも「コンテンツ」として消費する、欲望に忠実な愚民どもめ。
「っ……ふざ、けんじゃないわよ……!」
俺はギリリと歯噛みした。
だが、皮肉なことに。
¥10,000『いい悲鳴だ』
¥5,000『資料用に支援』
¥50,000『糸になりたい』
チャリンチャリンチャリンチャリン!!!
変態たちの欲望が、莫大なドネチャとなって降り注いだ。
残高カウンターが凄まじい勢いで回転する。
(……この変態どもがァ!!)
俺の脳内で血管がブチ切れる音がした。
いいだろう。その金、全部使って生き残ってやる。
「パンドラッ!!」
俺は叫んだ。
岩陰に隠れていたパンドラが、俺の声に反応して飛び出す。
俺は動かせる手で入力し、Amazoneで、ある商品を購入し、配送先を「パンドラの手元」に指定した。
ポシュッ。
パンドラの目の前に落ちてきたのは、「業務用ガストーチバーナー」。
キャッチコピーは『1300℃の集中炎! 風にも負けない最強火力!』。
パンドラは箱の中から触手を伸ばし、器用にバーナーを掴んだ。
そして、トリガーを引く。
ボォォォォッ!!
青白い炎が噴き出す。
「こっちよ! 私の腕についてる糸を焼きなさい!」
パンドラが躊躇うように震える。
俺を燃やしてしまうのが怖いのだ。
「いいからやりなさい! 私は無傷だと信じろ!」
俺の剣幕に押され、パンドラがバーナーを振るった。
炎が、俺を拘束する糸を舐める。
熱い! だが、ここで諦めるわけにはいかない!
ジュワアアアッ!
糸が一瞬で炭化して崩れ落ちる。
俺のドレスは少し焦げたが、火傷はない。
自由になった俺は、地面に着地するなり、憤怒の形相でカメラを睨みつけた。
「……よくも、見世物にしてくれたわね、愚民ども」
そして、呆気にとられている蜘蛛の方へ振り返る。
「そして貴様もよ、害虫」
俺の怒りは頂点に達していた。
見世物にされた屈辱。ベタベタする糸の不快感。
すべてを清算してやる。
俺はウィンドウを開き、[殺虫剤] カテゴリを叩いた。
金ならある。あの変態どもがくれた軍資金がな。
「そのサイズなら、これが特効薬ね」
俺が購入したのは、『ハチ・アブ用マグナムジェット(10m噴射)』。
そして、『ムカデ・クモ用 瞬間凍殺ジェット』の二刀流だ。
両手にスプレー缶を握りしめスプレー缶を振る。
キャッチコピーが視界に躍る。
『狙った獲物は逃さない』
『神経に作用し、即座にノックダウン』
「消毒の時間よ。――消え失せろッ!!」
俺は両手のトリガーを同時に引いた。
ブシュアアアアアアアアアッ!!!
左手からは極低温の冷却ガス。右手からは強力な神経毒を含んだ殺虫ガス。
二つのガスが螺旋を描き、蜘蛛へ殺到する。
「ギ、ギシャアア……!?」
蜘蛛が逃げようとするが、遅い。
『10m噴射』の加護は、伊達じゃない。
ガスは魔法のように誘導し、蜘蛛の顔面を直撃した。
バキバキバキッ!
冷却ガスで脚が凍りつき、動きが止まる。
そこへ、致死量の殺虫成分が吸い込まれていく。
Amazoneにおける「殺虫剤」の定義は絶対だ。
相手が「虫」である限り、それは即死魔法となる。
ドサァァァッ……。
数秒もしないうちに、巨大な蜘蛛は痙攣し、仰向けにひっくり返って動かなくなった。
完全な勝利だ。
『つっよwww』
『殺虫剤最強説』
『女王様ブチ切れモードこわ』
『でもありがとうございます!』
コメントが流れるが、俺の機嫌は直らない。
全身、糸とスプレーの薬剤と、蜘蛛の体液でベタベタだ。
最悪だ。一刻も早く洗い流したい。
(……金はある。たんまりとな)
俺は冷ややかな目で残高を確認した。
さっきの「ご褒美タイム」で稼いだ金だ。
なら、最後までサービスしてやるのがプロの流儀か。
「……汚れたわ。最悪」
俺はパンドラと一緒に、死角になる岩陰にスペースを探した。
そして、Amazoneで購入したのは――『更衣室テント付き・アウトドア用曇りガラス付きポータブルシャワー(温水対応)』。
ザッ、とテントが展開される。
俺はカメラに向かって、背中越しに言い放った。
「覗いたら、殺すわよ?」
俺はテントの中に入り、ジッパーを閉めた。
カメラは、テントの外観と、内側からの光でぼんやりと浮かび上がる「シルエット」だけを映している。
シャアアアア……。
お湯が出る音。
俺はドレスを脱ぎ捨て、温かいシャワーを頭から浴びた。
「……はぁ……。生き返る……」
思わず、艶っぽい声が漏れる。
曇りガラスのようなテント越しに、俺が体を洗う影が動く。
『うおおおおお!』
『シルエットたすかる』
『神回確定』
『想像力が試されている』
『音だけで飯が食える』
コメント欄は今日一番の盛り上がりを見せていた。
俺はシャンプーの泡を流しながら、心の中で舌を出した。
(へっ。せいぜい想像してろ、愚民ども)
本当はただのおっさんが汗を流しているだけだとも知らずに。
この滑稽な状況こそが、俺にとって最高のリベンジだった。
怒り任せにドネチャを使ってしまったが、この設営シャワーはご褒美で稼いだドネチャのほとんどが消えてしまったのは計算外だった。
(明日対策を考えるとしよう……)




