第4話:愚民(リスナー)参加型クエスト「王の目を代行せよ」
「……ん。焼き上がったようね」
湿っぽいダンジョンの空気に、芳醇なバターの香りが爆発的に広がる。
俺は『Amazone』で購入した「直火式パンメーカー」を携帯コンロから下ろし、ゆっくりと開いた。
パリパリッ。
熱々のトレイの上で、きつね色に輝く「クロワッサン」が、微かな音を立てている。
冷凍生地を焼いただけだが、この世界に「発酵バター」なんて高級品は存在しない。
その香りは、もはや暴力だ。
『音やばすぎ』
『サクサク音が聞こえる……』
『ここダンジョンだよな? なんでパン焼いてんの?』
『完全に料理チャンネル』
コメント欄が「空腹」を訴える阿鼻叫喚で埋まる。
俺は内心でガッツポーズをした。
昨夜のステーキで味を占めた俺は、この「食事配信」を定番コーナーにすることに決めたのだ。
(……朝はやっぱり、焼きたてパンとスープだよな)
俺はクロワッサンをちぎり、口に運ぶ。
サクッ、と軽い音がして、中はもっちりとした食感。バターの甘みが脳を溶かす。
「……悪くないわ。層の立ち上がりも完璧ね」
俺はパンの欠片を、足元の段ボールへ放った。
ガサゴソと段ボール箱が動き、中からピンク色の触手が伸びてくる。
ミミックのパンドラだ。
「お食べ。貴女の分よ」
パンドラは嬉しそうにパンの耳を受け取り、箱の中に引っ込んだ。
どうやら、こいつも地球の小麦の味にハマったらしい。
俺はサイドメニューの「コーンポタージュ」を啜り、優雅に朝食を終えた。
現在の同接は1,800人。
朝の時間帯にしては上出来だ。
腹も満たされた。精神も安定した。
「さて。散歩(攻略)に行きましょうか」
俺は立ち上がり、パンドラを引き連れて第2層への階段を下りた。
◇
階段を下りた先。
そこは、白一色の世界だった。
「……濃いわね」
俺は顔の前で手を振ってみたが、自分の指先すら霞んで見える。
濃霧だ。ただの霧じゃない。肌にまとわりつくような湿気と、魔力の気配。
俺のゲーマーとしての経験則が告げている。これは「視界ジャック」のギミックだ。
(うわ、最悪……。マップが見えないダンジョンとかクソゲーだろ)
内心で悪態をつきながら、俺は『Amazone』のウィンドウを開いた。
文明の利器で解決するしかない。
俺は[アウトドア]カテゴリから「業務用強力LEDヘッドライト」を購入し、装着した。
カチッ。
ヘッドライトから強烈な光が放たれる。
だが――光は霧の粒子に乱反射し、逆に視界を真っ白に染め上げただけだった。
(……詰んだ。余計に見えねぇ!)
俺はライトを消し、冷や汗を流した。
視界ゼロ。方向感覚も狂う。
こんな状態で敵に襲われたら、反応すらできずに死ぬ。
不安に駆られ、俺は視界のコメント欄に助けを求めた。
『うわ、画面真っ白』
『放送事故か?』
『いや待て、TPS(三人称)視点だと透過されてるぞ』
『敵マーカー出てる。赤点2つ』
……は?
俺はコメントを二度見した。
俺の視界(一人称)は真っ白だ。だが、リスナーが見ている「配信画面(三人称)」には、ゲーム的な補正がかかって霧が透過されているらしい。
しかも、「敵のマーカー」まで表示されているだと?
『右から来てるぞ』
『距離10メートル』
『【ミスト・ファントム】だな。霧に擬態してる』
マジかよ。
俺に見えてない「答え」を全部知ってる。
その時、霧の奥で「ヒュッ」と風を切る音がした。
殺気。
見えない。どこだ? 右か? 左か?
チェーンソーを構える手が汗ばむ。
(どうする? 逃げるか? いや、方向が分からない!)
俺は悟った。
このエリアを抜ける方法は一つしかない。
俺の目ではなく、神の視点を持つ「彼ら」の目を借りることだ。
◇
俺は震える足をドレスで隠し、大きく息を吸い込んだ。
素直に「見えないから教えて」とは言えない。それでは女王の威厳に関わる。
ならば、言い方を変えればいい。
これは「ピンチ」ではない。「参加型イベント」だ。
俺は虚空に向かって、気だるげに髪をかき上げた。
「……ふぁあ。退屈な景色ね」
わざとらしく欠伸をする。
「ただ歩くだけなのも飽きたわ。ねえ、愚民ども。貴方たち、いつも画面の前で偉そうに講釈を垂れているわよね?」
『は?』
『いきなり煽られたw』
『まあ指示厨は多いな』
コメントがざわつく。
俺は口角を吊り上げ、提案を投げた。
「いい機会よ。その『能書き』が役に立つのか、試してあげる。――特別に、私の『目』になる権利を貸してあげるわ」
一瞬の沈黙。
直後、コメント欄が爆発的な勢いで加速した。
『ファッ!?』
『参加型イベントきたあああ!』
『俺たちが指示出せるってこと!?』
『ラジコンプレイか! 燃える!』
『任せろ! FPSで鍛えたエイム力見せてやる!』
食いついた。
リスナーたちは、これを「縛りプレイ企画」だと解釈したらしい。
よし、これで戦える。
「さあ、案内しなさい。……もし私の体に傷一つでもつけたら、全員『処刑』よ?」
◇
企画開始の合図と共に、コメントの色が変わった。
雑談が消え、的確な「指示」だけが並ぶ。
『3時の方角! 敵1!』
『距離5……4……来るぞ!』
『下段攻撃だ! ジャンプしろ!』
俺には何も見えない。
だが、俺はコメントを信じて、反射的にその場から跳躍した。
ヒュンッ!!
鋭い鎌のような一撃が、俺の足下の空間を薙ぎ払う。
見えていないはずの攻撃を、紙一重で回避。
背筋が凍る。だが、止まっている暇はない。
『着地狩り来るぞ! 右へステップ!』
『そこだ! 水平斬り!』
俺は叫び声の代わりに、チェーンソーのトリガーを引いた。
唸る刃を、見えない敵がいるはずの空間へ薙ぎ払う。
ギャアアアッ!
確かな手応え。
断末魔と共に、霧の中に血飛沫が舞った。
(当たった……!)
俺は戦慄した。
凄い。完全に「見えて」いる。
俺一人なら今の一撃で足首を持っていかれていた。だが、2000人近くの「目」が、俺の死角を完璧にカバーしている。
『ナイスキル!』
『次、後ろ! 2体いる!』
『左45度! そのまま突っ込め!』
息つく暇もなく、次の指示が飛ぶ。
俺は考えるのをやめた。
自我を捨てろ。俺は今、プレイヤーじゃない。
リスナーという「神」が操作する、高性能なアバターだ。
左へステップ。
振り返りざまに突き。
しゃがむ。
跳ぶ。
霧の中、俺は踊るように戦った。
側から見れば、完全な暗闇の中で、まるですべてが見えているかのように舞う「達人」に見えただろう。
その実態は、画面の向こうのオタクたちの書き込みに、必死で食らいついているだけのおっさんなのだが。
『うおおおおお!』
『ラグなしで反応するとかAI凄すぎだろ』
『俺の指示で女王様が動いた……!』
『この一体感ヤバい。神ゲー確定』
チャリン、チャリン!
敵を倒すたびに、ドネチャが飛んでくる。
これは「賞金」じゃない。「操作料」だ。
数分後。
周囲の気配が消えた。
どうやら、このエリアの敵を殲滅したらしい。
(はぁ……はぁ……死ぬかと思った……)
心臓が早鐘を打っている。
だが、ここで膝をつくわけにはいかない。
俺はチェーンソーの血糊を払い、涼しい顔で髪を整えた。
「……ふん。少しは楽しめるかと思ったけれど」
俺はカメラに向かって、挑発的なウインクを投げた。
「貴方たちの指示、0.5秒遅いわよ?ま、私の『手足』となって動けることを、光栄に思いなさい」
『すいませんでしたァ!』
『一生ついていきます!』
『PS高すぎて震える』
コメント欄が称賛と謝罪で埋め尽くされる。
完璧だ。
これで、俺とリスナーの間には「共犯関係」が成立した。
俺は霧の晴れ始めた通路を、堂々と歩き出した。
もう、視界不良も怖くない。
俺には数千の「監視カメラ」がついているのだから。




