折原の朝
書棚は夕暮れでできている、と折原は昔から思っていた。朝に店を開けるとき、薄絹のような光が格子窓をすり抜け、背表紙の凹凸を淡くなぞる。黄昏書房の奥には、開かれてはならないページが山になって積まれている。紙の端は指紋の代わりに記憶の傷を持ち、そこを触れば遠い音が返る。店の表通りは日常の雑踏から離れ、ここだけ時間の陰影が濃い。
折原は長年、ここで「仕上げ」を請け負ってきた。客は二種類いる。ひとつは家族や代理人としての依頼者――誰かの死後に残された生の版を提出する者。もうひとつは本人が持ち込む未完稿――自らの人生の終わり方を自分で書き換えたいと願う生者である。依頼には必ず署名と、編集の範囲を示す「誓約札」が添えられる。誓約札は簡潔だ。何を消し、何を残すか。何を柔らかくするか。署名があると書物は公共の文物になり、黄昏書房はその公共的裁断を行う。
折原の仕事は、厳密で冷たい。削る。補う。頁送りの手つきは医師のそれに似ていると、彼自身は思っていた。だが、彼の処置は医療行為ではなかった。消された一文は誰かの「痛み」を消すが、消えた痛みがどこへ行くかは誰にも断言できない。かつて折原が手を入れたある遺稿は、街角の看板の文字の色を薄くした。彼はそういう“副作用”を、しかし言葉にはしなかった。言葉にするとまた別の事が動くからだ。
その朝、折原は小さな茶碗の縁に指を当て、店の戸を引いた。助手の若い男が、郵袋を一つ抱えて待っていた。郵袋の口には黄褐の紙札が結わえられ、「差出人:匿名 種別:未定稿」とだけある。折原は札を指で撫で、郵袋を引き寄せると、いつもの習慣で最初の頁の角を確かめた。角は意外に新しく、まだ紙の匂いが湿っている。
折原は郵袋を広げ、中の束をそっと並べた。表紙は無地、タイトルも無い。ただ、最初の頁にひとつの文字列があった——横書きで、細く震える字で「折原」とだけ書かれている。読み間違いだろうか。彼は指先でその文字を触れた。紙は冷たく、文字は乾いている。しかしその瞬間、彼の胸の奥で小さな針が刺さるような感覚が走った。針は記憶の層を一枚引きはがすように効き、彼は子どもの頃に見た古い鍵の形を思い出した。そこにあるはずの鍵は、確かにあったはずなのに、いつの間にか存在しなくなっていた。
折原は頁をめくった。最初の章は平凡な叙述で始まる——路地裏の猫、母の釜、青い傘の話。しかし読み進めるほどに、叙述は彼の個人的な記憶へと滑り込んでいった。しかもその挿話は、折原がかつて誰にも語らなかった細部を含んでいた。彼は心臓の鼓動が静かに速まるのを感じた。編集者としての鋭さが働き、「これは依頼者の自伝ではない」と彼は思った。誰かが彼を観察している。誰かが彼を「書いている」。
だが最も奇妙だったのは、頁の余白に薄く刻まれた注記だった。注記は読者の手による鉛筆書きのようで、そこには簡潔にこうあった——「もっと遠くへ。あなたの忘れ物を見届けたい」。署名は無く、代わりに小さな三角が添えられている。折原はその三角をどこかで見た記憶を手繰ったが、答えは手の届かぬ場所にあった。
彼は机の上の青いインク壺に指を浸し、禁じられた習慣でないことを知りつつも、その注記の脇に一言書き込んだ。「誰が?」しかし彼の筆跡が紙に触れると、インクが赤く光ったように見え、部屋の空気が一瞬だけ引き締まった。気のせいかもしれない。だが棚の間で本がひとつ、深い眠りから目を覚ましたように、微かに頁をめくる音を立てた。
外から客の足音が近づいてくる。黄昏書房には常連がいる。夕餉の時間に来て、短い編集を頼む者。遺族が遺稿を差し出す者。生者が自分の終わりを再設計したいと来る者。だが今朝の手稿は彼個人に向けられているように思えた。折原は手稿を胸元へ引き寄せ、そこで初めて自分の顔を見た。鏡のように紙は彼を返していたが、その返りはどこか歪んでいた——彼の笑いが、いつのまにか誰かの注釈に変わっていた。
彼は立ち上がり、店の奥へ足を運ぶ。奥の小部屋には、未処理の遺稿が眠る棚があり、そこにはかつて彼が編集した記録が順に保管されている。棚に手を触れると、そこから淡い紙の匂いとともに、過去に消した言葉の余韻が浮かび上がる。彼はそれを一つずつ確かめる。どれも静かに、しかし確かに“何か”を奪った跡がある。
ふと、最奥の箱の中に見慣れない封筒があるのに気づいた。封筒の口は未開で、封には古い書店の刻印と、薄く「閲覧者へ」とだけ書かれている。折原は迷った。ここにあるものは通常、遺族が呼び出して来て、正式な手続きを経て閲覧される。封を開ければ、職務としての裁断が必要になる。だが彼の手は既に動いていた。彼は封を切り、封蝋の破片が机に落ちると同時に、書店の灯りが一瞬だけ暗くなった。
中は短い手紙と一枚の紙片だった。手紙は乱暴にしたためられており、紙片には一行だけ——「あなたの章が薄れている。読む者が書くのだ」とあった。差出人は書かれていない。折原は目を上げ、店の入口の方を見た。外では通りの人影が忙しげに行き交っているが、誰一人こちらを見ているようには思えなかった。
折原は紙片を掌に置いたまま、気がつくと自分の編集指示書に赤い線を引いていた。線はいつの間にか、自分の名の近くで途切れている。彼は息を吐き、窓の外へ目を走らせた。薄暮の空は、いつもより深く、折り重なっていた。読む者が書く──言葉は単純だが、その意味は折原の顔を静かに引き締めた。
黄昏書房は、静かに呼吸をする。頁をめくる音が遠くからこだまする。折原は立ち尽くし、店の中で自分の居場所がページによって揺らぐのを感じた。誰が、どの頁をめくっているのか。誰が、彼の章を書いているのか。答えを求めた足が、知らぬうちに店の戸口へ向かっていた──誰かが、今まさに押し入ろうとしている気配を確かめるために。




