思惑
それから時々、仕事帰りに時間を合わせたりしながら桐ヶ谷さんが途中まで送ってくれるようになり、あれから奇妙な出来事も起こらなくなっていた。
最初の頃は、証明写真機の横を通る度に何となく気を張っていた彼もだんだんと安心してきたのか、今では会話をしていたらいつの間にか通り過ぎていたなんて事も多くなっていた。
けれどそうなると、これ以上彼の厚意に甘えるのも申し訳なく思い始めた私は、
「この数日、送ってくれてありがとうございます。でも、あれから何も起こらなくなったみたいですし、もう大丈夫かなと……」
そう話を切り出すと、彼は少し間を置いたあと意を決したように告白した。
「鈴野さんさえ良ければ、これからも僕に送らせてくれませんか?」
彼の気持ちに全く気がついていなかったと言ったら、嘘になる。桐ヶ谷さんの真剣な眼差しには、私への想いが込められているのを感じていた。
彼との会話は楽しかったし、誠実な優しさも十分伝わってきた。
桐ヶ谷さんの告白を受けて、私は何かを堪えるようにぎゅっと手を握り締める。
心はすでに決まっていた。
「私……」
彼に向かって口を開きかけた時だった。
――カタン。
ふいに、小さな音が鳴った。
二人とも弾かれたように音がした方向へ視線を向ける。
ついこの前までその場所にはなかったはずの証明写真機が、いつの間にか設置されていた。
カーテンは閉まっていたけれど、足元部分に人影はない、それなのに受取口には白いプリント用紙が残されていた。
一瞬にしてその場の空気が張り詰める。言いようのない不気味さに思わずゴクリと息を呑む。
さすがの桐ヶ谷さんも、その光景を前にして表情を強張らせていた。
「鈴野さんは、ここにいて下さい。僕が……確かめて来ますから」
「で、でも、危ないかも……」
そんな私の言葉に、桐ヶ谷さんは硬くしていた表情をふと和らげて、
「大丈夫です。何かの手がかりになるかもしれませんし、鈴野さんにはこれからも安心して笑っていて欲しいから」
そう力強く告げると、ゆっくりと証明写真機に近付いて行った。
私はそんな桐ヶ谷さんの後ろ姿を見つめながら、けれども彼に気づかれないように静かに後ずさりをしたのだった。
◇◆◇
息を切らせながら転がり込むようにして、私は部屋に帰った。
「……っ、ゴホッ、ゴホッ」
咳き込みながら思わず玄関の床にへたり込む。何とか息を整えようとしても、心臓がバクバクしっぱなしで上手く行かない。
そんな時、ふと部屋の奥から声がした。
「蒼祈? おかえり……って、どうした、大丈夫か?」
婚約者である貴之さんが出迎えてくれたけれど、私の様子に驚いて駆け寄ってくれた。
「……だ、大丈夫。今日出張から帰って来るって聞いてたから、思わず走って帰っちゃった」
彼の手を借りて立ち上がりながら、まるで何事もなかったようにそう言ってみせた。
「だからって、そんなになるまで走らなくても」
彼が息を切らせて真っ赤になっているであろう私の顔を覗き込むと、目と目が合った瞬間二人してクスクスと笑い出してしまった。
「僕も、早く会いたかったよ」
そう言って、貴之さんが私を抱き寄せると、ぽんぽんと背中を撫でてくれた。そのまましばらく彼に身を任せていると、だんだんと呼吸も落ち着いてきて、
「うん。私も」
そう返すと同時に、彼の背中に手を回してギュッと抱きしめた。
「出張ばかりで寂しい思いをさせて、ごめんな。でも、今回で大きなプロジェクトも無事に終わったから、やっと蒼祈との結婚式の準備が出来るよ」
嬉しさのあまり彼の胸の中で笑みが溢れる。
「一緒に、幸せになろう」
婚約者からのこの上ない言葉を噛み締めながら、私も同じ想いを口にした。
「うん、幸せになろうね」
――絶対に……。
不意に、先ほどまで一緒だった桐ヶ谷さんの事が頭をよぎった。
彼のことについて……心が痛まないと言ったら嘘になる、けれどこの幸せを守るには必要な事だったと何度も何度も自分に言い聞かせる。
――そう、最初から私の心は決まっていたのだ。
それに彼も最期に言ってくれたじゃないか、「これからも笑っていて欲しい」と。
――だったら、これで問題ないよね?
「そろそろ、ご飯にしようか」
「そうだね。走ったからお腹空ちゃった」
私は再び何事もなかったかのように微笑みながら貴之さんの腕を取ると、部屋の奥へと入っていった。
そう、今さら罪悪感や良心の呵責に苛まれたところで、すでに後戻りなど出来やしないのだ。
だって……。
――彼で、三人目なのだから。