桐ヶ谷さん
「鈴野さん、今帰りですか?」
その日、業務を終えた私は重い足取りでオフィスビルを出たところで、後ろから声を掛けられた。
振り返ると、見覚えのある顔だった。おぼろげな記憶を頼りに目の前の人物の名前を思い出す。
「あ、えと……きりがや、さん?」
「そうです。名前、覚えていてくれて光栄です」
「ど、どうも。お久しぶりです」
私が勤務している会社は、複数の企業が入っているオフィスビルの中にあるひとつで、声を掛けてきた人物はそこの企業交流会で出会った男性だった。
「お久しぶりです。同じビルとは言えなかなかすれ違う機会もなかったので、今日はラッキーです」
少し照れながらも真っ直ぐな言葉を口にする桐ヶ谷さんに、思わずドギマギしてしまった。
「実は、交流会の時に鈴野さんが僕の話を熱心に聞いて下さったのが、とても嬉しくて……。ああいう民俗学的な話は退屈に思われるんじゃないかと……」
交流会の時にも思ったけれど、彼の話し方に真面目そうな印象を受ける。
確かに、彼の言う通り最初は全然と言っていいほど興味のない話題だったから、正直、途中までは単に聞くふりをしていただけだった。
「……いえ、パワースポットの話とか、興味深かったです……」
でも、私の趣味がトレッキングだと知ると、彼は各地のパワースポットなどにも詳しく、それから少し話が弾んだような記憶がある。
「本当ですか、嬉しいなぁ。あ、あの、もし良かったらこれから少し時間ありませんか? また鈴野さんとお話がしたいとずっと思っていたんです」
桐ヶ谷さんからのストレートな誘いに、思わず心臓がドキッとした。
けれど……。
「せっかくのお誘いですけれど、私、今日はちょっと気分が優れなくて……」
何だかお断りの常套句みたいになってしまったけれど、実際、気分がよくないのは本当だった。
「大丈夫ですか? 確かにあまり顔色が良くないようですね。鈴野さんが良かったらですけれど、心配なので近くまで……。あ、いきなり送るとか、女性からしたら怖いですよね。申し訳ありません。でしたら、タクシーで帰るとか……」
けれど、そんな私に桐ヶ谷さんはあたふたしながらもおそらく純粋に心配してくれている様子が伝わってきて、重苦しかった気分がフッと肩の荷がおりたように緩むのが分かった。
そこで私は少し考えた後に、
「では……ご迷惑でなければ、途中までお願いできますか?」
そう言うと、彼はパッと表情を輝かせて頷いてくれたのだった。
◇◆◇
「実は最近、少し変な事が起こってて……。たまたま偶然が重なっただけかもしれませんが、それでちょっと気分が参ってしまって……」
桐ヶ谷さんと並んで歩きながら、私はここ最近起こった奇妙な出来事を話していた。
今のところあれ以来奇妙な出来事は起こっていなかったけれど、彼は真剣に私の話に耳を傾けてくれていた。
「何か思い当たる事とかありますか?」
「……。いえ、特には」
彼の問いに私は考える素振りを見せたあと、そう答えた。
話しているうちに、やがて例のアーケードまで来た。桐ヶ谷さんは、もしまたプリント用紙が取り残されていたら、一度、取り出して調べてみようと申し出てくれた。
例の証明写真機が近づくに連れ何となく二人とも黙ったまま様子を伺ってみると、今日はカーテンが開いていて誰もおらず、受取口にも何もなかった。
桐ヶ谷さんがサッと中の様子も見てくれたけれど特に何もなく、その場を後にし少し離れたところまで歩くと、自然と詰めていた息を二人同時に吐いた。
「すみません……。何か変な話に付き合わせてしまって」
真面目に話を聞いてくれた彼に対して、ほんの少し気まずさを感じながら謝る。
「いえいえ、何も起こらなくて何よりです」
そんな私に、桐ヶ谷さんは優しくそう言ってくれたのだった。