回りだした歯車 3
牛乳のせいだ。ユメは口元に手をやりながら、思った。
美味しいクロワッサンがのった白い磁器のお皿の横にあった、グラス一杯の牛乳。あれを飲んでしまったからこんなにも気分が悪いのだ。牛乳はもともと嫌いではないが、好きでもない。いや、正確に答えるなら、ユメの嗜好の針はやや「嫌い」のほうに傾くだろう。
とにかく、今気分が悪いのは、あの牛乳を飲んだこと、そして平坦ではない山道に、吹き荒れる強風でいつもより大きく揺れる馬車のせいだ。
だから、間違っても、緊張のせいじゃない。だいたい何一つ緊張する要素なんてないのだ。王立シータ学院に入学なんて、人間界の学校に入学するわけでもあるまいし、なんでもないことだ。苦手な学級だって人間界とはかけ離れて違うはずだし、第一ユメは正規でその学院に入学するわけではない。特別短期履修生として、ちょっと顔を出す程度だ。
王立研究所付属である王国随一の名門王立シータ学院で一般的な精霊界のことを学び、月の精霊としての訓練は家庭教師をつけて月城で学ぶ。ゲントゥムは学院での勉強はあくまで基礎、そして家庭教師との訓練は応用だと言った。
基礎というからには基本的なことだけであり、学ぶのに取り立てて苦労することはきっとないに違いない。実技はともかく、理論や歴史の授業も多いと聞いた。もともと勉強は平均よりはできるほうだ。だから成績がひどすぎて悪目立ちしてしまうという可能性も少ないだろう。学院は広大な王宮の一角にあり、王立研究所付属とあって、教鞭をとる教師も図書館の蔵書量も王国一を誇る。静かに邪魔されず読書をしたり、勉強をしたりするのが好きなユメにとっては案外ぴったりのところかもしれない。お金とかの心配もせずに通えるのだから。しかもそれを奨励してくれる保護者の存在もあって。
必死に気分が悪い言い訳を考えるユメをあざ笑うかのように、場所の外で吹き荒れる風が唸る。なんだってこんな日に限って、こんなにも天気が悪いのだろう。ユメはため息をついた。
嫌なこと、不愉快なことをじんわりと耐えていくのは得意なほうだ。けれど、今まさにこのように、それらが到来するのを待つのは苦手だ。転ぶのを恐れて前進するよりは、さっさと転んでしまったほうがよい。
無意識に左の封印の腕輪に触れる。そこで今までの意識の外にあった、左手の甲に刻まれた焦げ茶色の魔法陣が目に入る。今朝、入学祝いとしてマルス、いや星の精霊達がユメに贈ってくれたものだ。
本来なら、マルスは今ユメに付き添って学院に連れ立っているはずだったが、何やら「急用」ができたらしく来れなくなった。もちろんゲントゥムの執事としての急務だが、その内容は一切ユメには知らされないものの、傍から見てるとまるで極秘任務にあたっているかのような隠密さ、それでいて何やら奥の深い重要さが感じられた。
ユメもその希少な月の精霊の一人としてあの月城に住んでいるのに、未だに城の事も身内の一族のこともさっぱりだ。城については自分の部屋とメインに使用しているダイニングルーム、ゲントゥムの書斎、その隣のマルスの執事室などようやく覚えることができたものの、その他の部屋についてはさっぱりだし、下手に一人で動くと迷子になってしまう。ただどうやら細く長く立っている東の塔(城と繋がっているが一度も足を踏み入れたことはない)と地下があることは掴めた。しかし日常の生活のうえでそれらの場所に足を踏み入れることもないし、また踏み入れたいとも思わない。城全体でさえ何だか複雑な怪しげな雰囲気が漂っているのに、不気味に立ちそびえる東の塔や薄暗い(であろう)地下などは、かかわるのはごめんだ。
世の中には、人間界だけでなく精霊界でさえ、見ないほうがいい、知らないほうがいいというものがあるはずだ。人間界で憂き目を見た経験が、ユメに絶え間なく警告をし続ける。
もちろん、空気を読んで、口にこそ出しはしないが。これ以上の厄介ごとはごめんだ。人間界でも厄介ごとには極力首を突っ込まない、それが自分の根幹ともいえるポリシーだったはずだ。それがこの精霊界に来てからというもの、いとも簡単に覆され始めている。
厄介ごと。そうだ、ただでさえあの謎めいた月城、謎めいた月の精霊という存在に取り巻かれるどころか、その中核の一部として属していることに気を揉んでしまっているのに、あの時ラクスに向かってつい頷いてしまった失態。それがユメの頭痛をひどくさせる。
今は考えまい。王位継承争いなど、厄介ごとがつきまとうどころの沙汰ではなく、厄介ごとそのものだ。ユメは馬車内で一人、髪についた何かを取り払うようにぶんぶんと頭を強く振った。今は新しく学院に入学するために王都へと向かっている道中だ。余計なことは極力考えないほうがいい。
とりあえず学院でうまくやっていくことに今日は集中しなければ。
左手の甲の小さな魔法陣をそっと撫でる。それに今は新しい友達がいる。マルスを含む星の精霊達がユメに贈ってくれたもの、それは思いがけなくとても嬉しいものだった。胃が痛く吐きそうな気分の悪さの中でも、その魔法陣はユメの胸を小躍りさせる。
グリちゃん。そう名付けた。グリフォンだからグリちゃん。我ながら単純な命名だが、可愛いからよしとすることにした。
術継承。今朝、新たに学んだ精霊界特有の言葉。
ある者または複数の者達によって作り出されたエナジーはその彼または彼等に「帰属する」らしい。そして、放出された後に一定の間継続する術、召還の術などは術を繰り出したものの所有エナジーが減少したりまたは死亡したりすると影響を受け消滅してしまう。
しかし、術継承は術が帰属するところの者、つまり術所有者を変更できる。
――ディアナ様に呼応しあの金色の炎を放ったということは、ディアナ様の思いや願いがこのグリフォンに通じた証。さぞかし、相性がよいのでしょう。
マルスはそう言いながら、円を描くようにユメの左手の甲をなぞり、小さな魔法陣を刻み付けた。腕輪をはずし、右手を左手の甲に重ね、マルスについて唱える。
星の導きよ。金翼の王者を誘い、我、主のもとに姿を現せ。
重々しい文言とは裏腹に眠そうな顔をして金色の輪から現れたグリフォンは2m以上もある大きさだったが、まるで幼い子供のようにゆっくりとあくびをした。
自然に笑みがこぼれユメが手を伸ばすと、「撫でて! 撫でて!」と言わんばかりの人懐っこさで手が届く高さに頭を下げ、いざ手が頭に触れると気持ちよさそうに目を閉じる。
グリちゃん。
ユメはこの「入学祝い」が心底気に入った。まるで弟ができたみたいに、舞い踊ってしまうくらい嬉しい。用心棒としての実力も、十分あの王宮で実証済みだ。
それに。
と、ユメは馬車の窓にコツンと額をくっつけながら思う。例えば学院の休み時間とかに一人になってしまったとき。もう人間界にいた時みたいな孤独は味わなくてすむ。寂しい時はいつでもグリちゃんを呼び出せばいいのだから。
ユメはもう一度そっと右手で左手の甲を撫でた。