紫の洞窟 10
ぽつりと額に冷たい水滴がおち、ユメは目を覚ます。
最初は暗くて何も見えなかったが、だんだん目が慣れてくると、自分が洞窟らしき中にいることが分かる。
水滴が落ちてきた天井を見、それから壁に沿って視線を滑らせると、すぐさま自分が「紫の洞窟」にいるらしいことを悟る。疑問の余地はない。洞窟の天井、そして壁は紫紺の光沢で輝いていたからだ。宝石か何かが一面に埋まっているらしい。
ゆっくりと身を起こし、あたりを見回すと、ラクス、イグニフェル、レニタスはそこにはいなかった。ユメの後にも先にも洞窟は続いているが、どちらに進めばいいのか、当然ユメには分からない。
ひんやりとした空気が洞窟の中を占めている。もう少し厚着してくればよかったと、今更ながら後悔する。
さて。
二の腕を手で摩りながら、思考を走らせる。
今は最奥にあるおるという泉を探すよりも、やはりラクス達を探すほうが得策だろう。
ぽつり、とまた天井がら雫が落ちてくると同時に、ユメは大声で呼びかけようと深く息を吸った。
が、その直前に冷たい空気が微かに動いたのを頬で感じ、無言で口を閉じた。
予想は的中したみたいだ。
「ユメさん、こんなところにいたのですか」
背後から聞こえる柔らかな声。振り替えると、レニタス。そしてその後ろには、ラクスとイグニフェル。
「早く見つかってよかったよ」
ほっとしたように、ラクスが言う。
「また、ゲントゥムが何かを仕掛けたんではないかと、不安だったんだ。彼は僕を簡単に欺くことができる。今日、身をもってそれが分かったよ」
口調からして、飛ばされる前にゲントゥムがしたことにラクスが極めて不愉快に思っていることが見て取れる。ユメは、先ほどゲントゥムが何を仕掛けたというのは分かったが、正確には何が起こったのか分からないでいた。ただ、ダークリットから聞こえてくる声、断末魔、そして自分の周りの空気があたかも爆発したかのような爆音に未だ混乱している。
「さっきは、何が起こって……?」
ラクスがその問いにはぁと小さく息を吐く、その横でイグニフェルが足を踏み出してユメに近寄った。
「寒いか? さっきから、腕を摩っている」
はっとして、ユメは摩る手を止めた。無意識にずっと摩り続けていたらしい。
「ここでは結界が張られているようで術が使いづらいが、これくらいなら」
ラクスの言うように、いつも「せわしない」イグニフェルだったが、今いつになく真面目で落ち着きを払っていた。
「ペティ・イグニス」
低く小さい呪文と共に、ユメを囲むようにして、円状に配置した4つの小さな火の玉が現れる。少し驚いて思わず一歩後退すると、同じだけ火の玉も後退した。どうやらユメの動きに合わせて、火の玉も動く仕組みになっているらしい。急にユメを包むまわりの空気が暖かくなるのを感じた。
「あ、ありがとう」
ぎこちなくユメがお礼を言うと、イグニフェルはいつものように歯見せて、ニっと笑った。
「少しは気が利くところのもあるんだな、火。お前にそういう気質はかけらもないのかっと思っていたよ」
ラクスが憎まれ口叩く。不思議だ。いつも至って冷静なラクスだが、イグニフェルを前にするとむきになることが多い。イグニフェルはそっけない態度をとられても、全く意に介せずラクスを慕い続けてるが、それにまるで子供のように応じるラクスも本当はまんざらでもないんだろう。
「なんだよ、俺が気配りができる男だってのは、お前が一番知っているはずだろ? ラクス」
「それより」
ラクスが豪快にイグニフェルを無視して、話を切り出す。
「さっきのユメの問いだが、ユメは目を閉じてたから分からなかっただろうけど、ダークリット達がユメに襲いかかろうとした瞬間、ユメにかけられていたシールドの術が発動して、寸前でユメの周りで爆発するようにダークリットを返り討ちにした。その威力であっけなくダークリットは消失したよ。やられたよ」
ラクスが声に苛立ちを滲ませる。苦々しげな表情が、顔に浮かぶ。
「さっきは完全にゲントゥムに出し抜かれた。ダークリット5体なんて、あんなにドタバタしなくても冷静に対処すれば5秒もかからずに消すことができたはずだ。あんなみっともない場面を目撃して、さぞかしゲントゥムはおかしかっただろう」
「ラクス様……」
ラクスの自嘲的な言葉に、レニタスが心配そうな表情をする。
「だがよ、ラクス」
イグニフェルが問いかける。
「最後に俺達を包んだあの光は、じーさんが――」
「その通りだ。あれは間違いなく、月の精霊の術
ラクスが重々しく頷く。
「僕達に術を使わせないようにして、ユメのシールドを発動させるための」
「でも、何のために?」
ユメが思わず口を挟む。ゲントゥムの行動は、ユメにとってでさえ疑問が多い。まるでユメが人間界からきた話を信じているかのような素振り、気難しい性格であるのにユメに対しては割りと好意的で、むしろ大きな関心を寄せているようにも感じられた。
分からない、とラクスが首を横に振る。
「今回だけでなく、彼の意図はいつも分からない。ダークリットや闇の精霊と実は繋がりがあるんじゃないかと、実は王族も細心の注意を払って目をつけているのだが、なかなか尻尾を出さない。ユメに対してもかなり興味がある様子だが、理由は分からない。目的も分からない。一方的にこちらがしてやられただけだ。僕も迂闊だった。あれだけ油断してはいけないと肝に命じていたのに、大馬鹿だったよ」
ラクスが視線をユメの足元あたりに落とす。ゲントゥムに出し抜かれたことが、よほど悔しいらしい。ユメが返す言葉が見つからず黙っていると、ふとラクスが再び顔を上げた。
「そういえば、ユメ」
「何?」
「庭に出る前、ホールで何を彼と話していたんだ。あそこまで上機嫌に大笑いをするゲントゥムは見たことがない。彼の前ではレニタスの術も迂闊には使えない。十中八九見破られるだろう。話の内容が気になるんだが、よかったら話してくれないか?」
悪びれもせずに盗み聞きする意思が存分にあったことを話すラクス。大きく頭を振って、イグニフェルが同意を示す。
「いつも、月のじーさん、おっかねぇ顔してるからな。俺もあん時は、びっくりしたぜ」
「あの時は……」
ユメは言葉を詰まらせた。
あの時は、ゲントゥムはユメの話を信じているとまでは断言しないものの、大いに可能性があると思っていると言ってくれた。ラクスは全く信じてくれていなかったことを、ゲントゥムは、頭首達の面々の中でも随一の術使いだと称される彼が、真実である可能性があることを認めてくれた。もちろん、それも何かの思惑があって嘘をついているのかもしれないから、手放しでは喜べないが、誰も信じてくれないという失望の中ではその言葉がどれほど嬉しかったことか。
気まずい沈黙が続く。
何か声に出して言おうと思っても、何も出てこなかった。どういう顔をしてこのことを、よりによってラクスに伝えればいいのだろう。ユメが困惑してとまどっていると、じっとユメを見つめて返答を待っていたラクスだが、ふいにそっぽを向いた。
「言いたくないなら、言わなくてもいい」
途端に冷たくなるラクスの声。レニタスの方にに体こと向く。
「こうしているうちにも、だいぶ時間がすぎた。このまま立っていても時間の無駄だ。レニタス、洞窟はこっちの方向に長く続いているのだろう?」
指をさして一方を示すラクスに、レニタスは頷きながら肯定した。その方向に無言で歩き出すラクス、何か物言いたげな視線をちらりとユメに寄越してあとに続くレニタス。その後にイグニフェル、そしてユメも続いた。
ラクスはどうやら機嫌を悪くしたらしい。ユメがゲントゥムを庇ったように感じられたのだろうか。それでも、いくら王族がゲントゥムを警戒し、ラクスも彼を腹立たしく思おうが、ユメはゲントゥムをどうしても悪い人のようには思えなかった。