紫の洞窟 5
頭首達が洋館を去るのをホールで見送った後。
フローラとレニタスは応接間で片づけを始め、ラクスは書斎にまた戻って行ったが、ユメは唇を噛んで覚悟を決めると真っ直ぐにラクスの書斎に向かい、断りもなしにズカズカと入って行った。
オーク製の大きなデスクの前で、座り心地のよさそうな椅子に腰掛けていたラクスは早速本を手にとって読んでいたが、ユメが突然入室したことに全く驚きもせず、それどころか本から顔もあげようとしなかった。
「どこまでが本心で、どこまでが嘘なの?!」
不愉快さを隠しもせず、ユメはラクスに問い詰める。
「その前に他人の部屋に入る時はノックをするというマナーは、君がもといた人間界にはなかったのかい?」
ラクスの冷ややかな声は、腹立たしいくらいに落ち着きを払った様子でユメの耳に届いた。
「君のやって来たという、まやかしの人間界で」
「まやかし?」
ユメの声が怒りで震える。やはり嫌な予感はあたっていた。
「ここは人間界と見かけはほとんど変わらぬ世界でも、所詮人間の世界を真似て作った虚構の世界。つまり根本的なところは全てが違う。仮に人間がこの世界に何かが起きてこの世界に来られたとしても、とっくに死んでいる。君がエナジーを摂取せずにここで生きていられるのは、幾重にもかけられている守備の術のお陰。最下層に張られているというシールドがあるとまでは僕は見ることはできなかったが、ゲントゥムが言うのならそれは本当なのだろう」
そこでラクスは、読んでいる本のページをめくった。
至ってユメには興味がないらしい。
「まぁ、術がかけてあるのにはすぐに気づいた。術は誰がかけたか。もちろん精霊だ。人間はこんなことできるはずがない。君が、人間界から来たはずはない」
「どうして信じたふりをしたの?」
「何者か分からないやつをわざわざ怒らせたりするのは、馬鹿がやることだ。懐柔しながら見張る、それが一番言い方法だと思わないか?」
今のラクスには、最初出会った時の紳士的な優しさはかけらもなかった。
エメラルドグリーンの瞳も凍ってるかのように、冷たい。
これが、ラクスの本性……。
「行きたくないといったら……?」
「どこに?」
「紫の洞窟に。私はあなたに従う義務なんてない」
「否が応でも連れて行くさ」
ラクスが余裕の笑みを浮かべる。
「逃げてもかまわないが、無駄だとは言っておこう。君が最初に来た日から、レニタスの優れた風の術でずっと君の行動発言を監視している。よって逃げても、君を捕まえるのは容易い。まぁ、めんどくさいから、できれば大人しくしていて欲しいがね」
怒りでまた全身が震え始め、何も答えられずにいると、ラクスが付け足した。
「心配しなくていい。こちらとしても、道中で君に死んでもらったら困る。命は保障されてると考えてもらっても構わない」
「最低……」
「まぁ、気づかない方が能天気すぎるんじゃないか? 正体不明の赤の他人をそうやすやすと自分の家に招くやつがいる? 警戒するのがとうぜ――」
ラクスの声は、突然のパンッという音にかき消された。
ラクスの持っていた本は数秒宙を舞い、そして床に落ちる。
気づいたらユメは肩で息をしながら、たった今ラクスの頬を打った右手を震わせていた。
ラクスはしばらく、本の落ちていった方をぼんやりと見つめていたが、やがて、そこで初めてユメを見上げた。
その顔は怖いほどに無表情だった。まるで始めから感情のない生き物のように。
ユメはぞっとするような感覚を覚え、くるりと背を向けるとそのまま駆けて書斎を飛び出した。
すると書斎のドアの脇には、レニタスが立っておりユメと目が合った。風の術を使っているのなら、今書斎で起こったことも全部見ていたのだろう。
レニタスは何かを言おうとして口を開きかけたが、その前にユメはホールへと駆け出した。
ホールで書斎からちょうど出てきたフローラに鉢合うも、ユメの表情を見て驚きそのわけを問うのを無視して、階段を駆け上り、自室へと飛び込んだ。
ドアを大きくバタンと閉めると、そのまま床に崩れる落ちるようにして座り込む。
どうして、いつも自分は……。
特別目立ったことをするわけでもなく、人に嫌われることをするでもなく、それなのにいつも浮いてしまう。もちろん、それを望んでいたわけでもない。
ユメは事が始まったその日を思い出した。
この世界に飛ばされた日。
――杉原さんって、なんか変だよね。大人しい子だけど、どこか薄気味悪いところがある。
――ああ、分かるかも。行動とか発言は至って平凡なんだけど、なんかね。生まれ持ったオーラなのかな?
――というよりは、杉原さん、両親いなくて養護施設で育ったらしいから、やっぱそこらへん私らと違ってくるんじゃない?
――なるほどね。有り得るかもね。
高校のトイレで偶然聞いてしまった、同じクラスの女子の会話。
唇をかみ締め、拳をぎゅっと握りしめ、ユメはじっとしていた。
こういうのには慣れっこでしょ、と自分に問いかけながら
そのまま施設に帰宅する気がしなくて、普段からいつもよく一人でいく森に遊びに行った。
その森は廃墟となった病院の裏にあるが、幽霊が出るという真偽が分からぬ噂のせいであまり人は近寄らない。一方、ユメは心霊現象など全く気にならず、町の喧騒から離れ一人になれることを好んでよく足を踏み入れた。
実は、ユメは3歳か4歳の時、この病院の裏の森で保護されたらしい。
当時はまだ営業していた病院の看護師さんが、偶然近くを通りかかってユメを見つけた。
一人で突っ立っていたという。
泣きもせず、無表情で、宙を見つめて。
ユメにはこの時の、そしてそれ以前の記憶が白紙と言っていいほどに全くない。