小川の淵
メリーナはショックをうけ、よろけた。アルトゥルが駈け寄ってきて、メリーナの体を支える。「ハンナ、奥さまが気分を悪くしたみたいだ! ベッドの用意を!」
マティアスの従姉妹で、さっきまで相当メリーナを庇ってくれていたハンナは、さっと走り出て来るやメリーナをおぶった。心配そうに声を尖らせる。
「もう、はやく妖精に近付いてもらう為と云ったって、すぐにあんなにお酒を呑ますものじゃないわ。本来人間が呑むようなものじゃないのよ。マティアスと結婚したからたえられるのに」
「ハンナ、俺に文句を云わないでよ」
「なんにも役に立たないあんたこそわたしに文句を云わないで」
ハンナはかなり厳しい調子で云い、眉をひそめた。「ちょっと、彼女をこの難行にひきずりこんだマチューはどこへ行った訳? 可愛い妻を置いて?」
アルトゥルが呻いて、答えない。
「アルトゥル?」
妖精は、男女が不適切な関係を結ぶかもしれないという意識が低いようで、メリーナは集会所傍の建物の寝室でベッドに横になり、傍にはアルトゥルが立っている。ハンナは水を持ってくると云って、出て行った。
アルトゥルはメリーナが呼びかけても、困ったような顔をして答えない。
「アルトゥル」
「……はい、奥さま」
「マティアスはどこへ行ったの? あの女性は誰?」
距離をとるような奥さまという呼びかたにちくっと胸の痛みを覚えたが、メリーナは根気よく、アルトゥルに口を開かせようとした。視野がきらきらしていて、色がかすんでしまっている。
「アルトゥル」
精一杯威厳のある声を出すと、アルトゥルは泣くような顔になった。「あのひとは、人間みたいだった。マティアスにいさんと話があるんだって。凄く大事なことみたい。森で話すって云ってた」
メリーナは無理に体を起こすと、外へ飛び出した。
小径をぬけると、石へ飛びのる。次の石へ飛びのり、また次の石へ……と、途中まで云ったところで、寒さで体が動かなくなってくる。「奥さま!」
アルトゥルが追ってきた。
「停めないで」
「停めない!」アルトゥルは叫ぶ。「でもだめだ、こっちからだと時間がかかりすぎる」
「ああ……」
そうだった。森から山の下まで、移動に時間がかかることを彼女は忘れていた。吹雪だの雪原だのを越えて、十日もかかってしまう。
アルトゥルに促されるまま、彼女は来た道を戻った。小径の辺りで、ハンナが悲鳴をあげている。「メリーナ! 落ちてしまうわ!」
メリーナはひょいひょいと、間を開けずに石から石へ飛び移っていった。ジャンプの度にハンナが悲鳴をあげる。ハンナの悲鳴で、ほかの妖精達も集まってきた。メリーナが石から石へとびうつるのを見て、ハンナと同じく悲鳴をあげる。
上まで辿りつくと、アルトゥルが先にたって走った。「こっちだ!」「アルトゥル、奥さまをどこへつれていこうって云うの!」
ハンナが叫んだが、メリーナはそれに会釈してアルトゥルを追いかけた。
小径に這入り、彼はその途中で右に曲がる。花を踏み散らすのは心苦しかったが、メリーナはそれを成る丈見ないようにして、アルトゥルのせなかを見失わないことだけを考えた。
アルトゥルが消えた、と思った瞬間、メリーナは息苦しさを覚えた。目の前にアルトゥルが居る。彼がなにか云いながら、メリーナに手を伸ばした。メリーナはその手を掴み、綿を踏むような奇妙な心地を覚えつつ歩く。アルトゥルも自分も動いているのかいないのかわからないくらい、体が重く、動作がゆっくりになっていた。
周囲には極彩色ひろがっている。あらゆる花を潰したような、メリーナの上司だった官女がつかっていた絵の具箱の中身をすべてぶちまけたような、異常な鮮やかさが目を刺す。
息が楽になった、と思ったら、メリーナは森に居た。あの、どこへ通じるのかわからない、まっくらな坂の傍だ。
「大丈夫? ねえさん?」
いつものようにアルトゥルが云い、メリーナは息を整える。悪路を馬車に揺られたように、気分が悪い。だが、マティアスのところまで行かなくてはならない。あの女のひと、なんだかいやな感じがする……。
アルトゥルがぽかんと大口を開けた。
メリーナはアルトゥルが見ている方角を向く。
そこにはマティアスが居た。あの女性と一緒だ。あの、淵の辺りに立っていた。マティアスは怒っているみたいで、女性の腕を掴み、顔を赤くして怒鳴っている。「そのような脅しは」
マティアスの声が途切れた。女性の胸にぱっと赤がひろがる。メリーナは叫ぼうとしたが、声が出なかった。アルトゥルがマティアスのもとへ走っていく。「ウルリーケ!」
アルトゥルが絶望した声を出した。ばけつをふたつ提げたウルリーケが、あおい顔で木立から出てきたのだ。
もどかしいくらいに時間がゆっくりとすすんだ。女性の胸を貫いたなにかが、ウルリーケを狙った。アルトゥルが言葉にならない悲鳴をあげる。メリーナはアルトゥルを追い越し、親友を助けようと小川へ飛び込んだ。だが、絶望的に距離がある。「ウルリーケちゃん!」マティアスがウルリーケをつきとばす。それはマティアスをさらい、淵のなかへひっこんだ。
女性は倒れ、動かない。