次の春の為に
マイツェの結婚は、僧院で僧や尼、そしてお互いの親族立ち会いのもと、儀式を行って成立する。
妖精の結婚はそうではなかった。ふたりは手をつないで家まで戻り、マティアスが結婚のことを口にすると、アルトゥルとウルリーケが立会人になってすぐに結婚は成立した。立会人の前で結婚すると云うだけでいいらしい。
妖精は「約束」に忠実で、誓った以上はそれを違えない。だから、約束した以上結婚は絶対のものなのだ。
アルトゥルもウルリーケも、ふたりの結婚を喜んでくれた。ウルリーケは、メリーナが妖精と付き合いをしていると知っている兄にだけ、そのことを報せてくれるという。メリーナは安堵した。権力志向の父にこのことを知られたら、大きな騒ぎになりかねない。さいわい、妖精と違って人間は簡単に嘘をつけるから、兄は家族へ、メリーナは森のなかの世捨て人と結婚した、とでも云ってくれるだろう。
数日、四人ですごし、最初にアルトゥルが帰っていった。次にウルリーケが、靴下やドレスの完成品、それにたっぷりの野草茶を持って馬車で帰っていき、メリーナとマティアスはふたりきりになった。
ふたりは一緒に野草を摘んでお茶をつくり、水を汲み、畑を耕し、実りを戴いた。マティアスは森に住んでいる顔も名前も定かでないご近所さん達に、無事に受け容れられ、おめでとうと達筆で記されたカード付きのパンがドアにひっかかっていたこともある。実りは相変わらず、ご近所さんと分けていた。
「妖精もこんなふうにすごしているの?」
「これに、鶏と牛が加わるよ。それから、沢山の魔法の練習もね」
メリーナは首をすくめる。魔法というのは、人間もつかえるものだ。適性があるので、つかえない人間も居るが、めずらしい。メリーナはしかし、その魔法をつかえない、めずらしい人間だった。
マティアスはメリーナが魔法をつかえないことをまったく気にしていないのだろう。だから、簡単に魔法のことを口にしたのだ。メリーナはそれをわかっているが、ちょっと意地の悪い気持ちになって首をすくめてみせた。
優しいマティアスは、すぐに顔色をかえ、あわてて云いそえた。「あの、リナ、君のことをあげつらったのじゃない」
「ええ、マチュー。わかってるわ」
メリーナはくすくす笑う。夫の優しいところと、少しだけそそっかしいというか、ぬけたところが可愛かった。
マティアスと結婚してからひと月ほどがたち、メリーナは小川の上流でこの秋の最後の梨をつんで、家へと帰っていた。梨は熟れすぎ、つまんだだけで形がかわる。そのまま食べてはおなかを壊すから、酒にする。これにはちみつとパン種をまぜておけば、来年にはおいしい酒になる。森のみんなに分けて、ささやかなご祝儀返しをするつもりだった。
この辺りの魔獣は、マティアスが追い払ってくれたので、近頃は姿を見ない。小川の途中の淵に、大きな魔獣が居るらしいが、メリーナはそれを先生から聴いただけで、直に見たことはなかった。
排泄のあとなど、痕跡は残っている。マティアスは魔獣を殺したのではなくて、自分達夫婦を襲ってもいいことはないぞと「学習」させたのだ。実際、ふたりを襲って、魔獣の側に得はないだろう。メリーナはそう考えている。
メリーナは前世の記憶にある、ゲームのオープニング曲をなんとなく口ずさみ、歩いていた。その声が停まり、足も停まる。
家の前に、若い女性が立っている。しゃれた帽子から金色の髪がはみだしていた。ドレスは襟を立て、袖も裾も長く、きちんとしたものだ。顔立ちは整い、人間離れしている。
そのひとはマティアスを捕まえて、なにか喋っていた。
メリーナは勇気が出ず、木のかげでじっとしていた。家の近くに馬車が停まっていて、女性はどうやらそれでやってきたらしいとわかる。かなり上等な馬車だ。女性の服装も、洗練されている。幼い頃のほんの一時期といえ、宮廷に居たことのあるメリーナには、その女性がかなり裕福であることがよくわかった。そんなひとが、どうしてシュタルの森へ? どうしてマチューを捕まえて話しているの?
足を踏み出し、ひっこめる。何度目かでメリーナは歩き出したが、その時には女性は影も形もなくなっていた。彼女の馬車もだ。少なくとも、彼女があの馬車で来たらしいと云うのはあたっていた。
「マチュー?」
マティアスは沈んだ表情でメリーナを見る。「やあ」
「どうしたの? ……今のひとは誰です?」
自分への客かもしれない、という考えはなかった。もしそうなら、マティアスは彼女を家へ上げ、その上でメリーナをさがしに来ただろう。
マティアスは肩をすくめた。
「わたしの……問題だよ、リナ。気にしないで」
「でも」
「いいんだ。君に迷惑はかけない」
その言葉の意味を図りかね、メリーナは小さく呻いた。マティアスはそれでも、くわしいことを口にしなかった。
秋が終わり、冬になると、森はかすかに雪を被る。気温が下がり、暖炉の火が盛んに燃える頃、アルトゥルがやってきた。
「にいさん……」
アルトゥルは困った顔で、いつもの元気がない。妖精達がつくったという酒の壜を持って、所在なげに戸口にたたずんでいる。
「アルトゥル、這入って頂戴」メリーナはその表情にただならぬものを感じたけれど、あえて明るく云った。「風が吹き込んでる。凍えてしまうわ」
アルトゥルは首をすくめ、這入ってきて、後ろでに戸を閉めた。メリーナはその手から壜をとってテーブルへ置き、タオルでアルトゥルの肩の辺りを拭う。雪が彼の頭から落ちた。
マティアスが台所から、ゆっくりと歩いてきた。「アルトゥル、わたしに話があるんだろう」
「……はい、マティアスさま」
アルトゥルはかしこまって云い、その場に片膝をついた。「山へ戻ってください。次の春の為に」
マティアスやアルトゥルがなんの妖精なのか、そして妖精がなにをしているのか、メリーナは知らないし、知ろうともしていない。マティアスが語らないからだ。
アルトゥルとマティアスの会話から、どうやら妖精というのは季節に関わっているらしい、となんとなく把握する。妖精は長く生きるが、アントワル伝説に出てくる妖精は数百年間、マイツェの冬を短くしたとも伝わっている。シュタルの森へ帰るまでの間だ。
アルトゥルは非常に心苦しい様子だった。メリーナはふたりのやりとりを、台所から眺めている。ご近所さんのお裾分けの毛糸であんだショールを、体へまきつけた。マティアスは山へ戻るのだろう。それでかまわない。またいつか、訪れてくれるのなら、別れて暮らすのは仕方がないことだ。彼はなにかしらの使命を帯びた妖精で、自分は前世の記憶なのか幻覚なのかわからないものに振りまわされている地位も名誉もないちっぽけな人間なのだから。
「リナ」
マティアスが云いながら、席を立った。メリーナは頷く。マティアスへ近付いていって、ふたりはそっと抱き合い、はなれた。
しかし、マティアスが云ったのは、メリーナにとって意外な言葉だった。
「一緒に山へ行ってほしい。君を、我が一族へ紹介し、結婚をより強固なものにしたい」