なかったら平穏に過ごせていたかすかな記憶
「うーん、なりがよくない……」
メリーナはぶつぶつ云いながら、家のすぐ傍につくったきゅうりの棚の間を歩いていた。
今年の夏は日差しがあるし、雨もきちんと降っている。肥料もきちんとやったし、摘心もした。なのだけれど、きゅうりはいまいち実をつけないし、つけたとしても形が悪い。メリーナはそのことに納得していなかった。
風がふいて、メリーナの淡い桃色の髪を揺らした。帽子が飛ばされそうになって、右手でおさえる。紙製の帽子には、昔メリーナが母からもらった時には飾りが沢山ついていたのだけれど、いつの間にか蝶々数頭を残してなくなってしまった。彼女の扱いかたに問題があるのだろう。メリーナはそういったことに無頓着だった。
もうそろそろ、兄が来る時期だ、とメリーナは思う。体を酷使する職業だし、おいしい野菜を食べさせてあげたい。
メリーナはマイツェという国の、西の外れ、シュタルの森に住んでいる。森といってもその外れで、数日かけて歩けば街道に出る。彼女も半年に一回くらい、自分では処理しきれないものを持って街道へ出、街へ向かい、それらを処分して対価を得ていた。
たまに兄や、彼女の幼馴染みであるウルリーケが、馬車に食糧や布を積んで持って来てくれる。暮らすのに困るということもない。かわりにメリーナは、ふたりにとれたての野菜と甘くてつめたい水、森でとれためずらしいくだものや新鮮な魚、鹿、それに満天の星を眺められる屋根裏部屋を提供していた。兄やウルリーケの言葉に拠れば、メリーナの家は相当快適らしい。
シュタルの森は、マイツェ王国のなかにあるけれど、誰の領土でもない。妖精のものとされている。
だから、お金のない者や、人間社会に愛想を尽かした者が、森のなかにぽつぽつと居をかまえていた。所謂世捨て人も幾らか居て、何故だかこの森のなかであらたな人間関係ができてしまっている。メリーナも勿論、その環のなかに居た。
といっても、ご近所付き合いというものはほぼなく、お互いの作物や獲物、つくったものをそれぞれの家の前に置いていくというような消極的な交流だ。お金は介在していないし、場合によっては顔も見ない。朝起きて外へ出たら、物干し竿にクッションカバーが掛かっている、というようなやりとりである。
メリーナもつい先日、たくさん釣れた鱒を一匹ずつ、森をめぐって置いてきた。翌日にはメリーナの家の前に、旬の桃や野いちごなどが積み上がっていた。それらをジャムにして自分が食べる以上のものは配り……と、お金がなく、対面での会話がほとんどなくても、そういうやりとりは成り立つのだった。
食べられそうなきゅうりをもいで、台所へ運ぶ。名前も知らないご近所さんに配る為に、小さなざるへ分けた。このざるは誰かがつくったもので、無言での物品やりとりにひと役買っている。
さてでかけようか、と思っていたら、規則的な音が聴こえてきてメリーナはそちらへ顔を向けた。あれは、ウルリーケの馬車の音だ。
表に出ると、小川の向こうにウルリーケの姿が見えた。小さな馬車の御者台に立っている。手を振ってくれたので、振り返した。馬車は近所の誰かがかけてくれた橋を、ゆっくりと渡る。「ウルリーケちゃん!」
「メリーナちゃん、久し振りね」
「ここってほんとうにいいところ」
きゅうりの「配達」を手伝ってくれたあと、ウルリーケはメリーナがつくった乾燥ハーブいりのクッションを抱きしめ、古ぼけたソファの上でごろごろしている。小柄なメリーナがベッドがわりにすることもあるソファだが、ウルリーケには少々小さい。
メリーナはやっぱり古ぼけた大きなテーブルに、ウルリーケが持ってきてくれたものを並べていた。布地、糸、毛糸、針、はさみ……などなど、主に裁縫の道具だ。森のなかで食べものや薬草を採っていると、服にかぎ裂きをつくってしまうことは多々あるので、とてもありがたい。
台所には、小麦粉の袋がある。そちらは、本当は今日来る筈だった、メリーナの兄からのものだそうだ。
兄はマイツェ王国で盛んな、鎧を着た者同士で模擬試合をする興行で、「闘士」として活躍していた。たまにやってきて、ここでひと月ほど体を鍛え、また興行へ向かうのだが、今度は国の東の端まで興行へ行ったらしい。ウルリーケへ、自分のかわりに同封したお金で小麦粉やなにかを買って持っていってやってくれという手紙を寄越した。
その手紙は、さっきメリーナも読んだ。兄はウルリーケにも、手間賃を幾らか包んでいたらしいが、ウルリーケはそれで針を買ってくれたそうだ。
ウルリーケはふんわりした髪を二本のみつあみにしているのだが、それがぶんぶん揺れていた。楽しそうに上下している。その前には、パンケーキとジャム、野菜のスープがある。
メリーナは窓辺へ近付いていって、ランタンをとった。締め切ってしまうと暑いので、開けた窓に網を垂らして虫が這入らないようにしているのだが、灯がついていると虫が寄ってきてしまう。
森のなかには不特定多数の人間が居るし、人間に慣れた動物も居る。人間にとっては道しるべ、動物には「人間が居るから近付かないほうがいい場所」と認識させる為につけているのだが、この時期は虫をおびきよせることにもなってしまうので、日が落ちたら外にかけることにしている。
メリーナは外へ出て、ランタンを物干し竿へひっかけた。室内へ戻ると、ウルリーケが目をきらきらさせて訊いてくる。
「メリーナちゃん、このジャムおいしい。持って帰ってもいい?」
「うん! お兄ちゃんが来るかと思ってとっておいたんだけど、悪くなったら勿体ないし、ウルリーケちゃんが持っていってよ。お兄ちゃんのお遣いのお礼」
「ありがとう」
ウルリーケはにこにこしている。
彼女はメリーナの幼馴染みだ。マイツェの女性にしては背が高く、最近、よその国からはいってきた眼鏡をかけていた。ウルリーケは遠視だ。
野草茶を淹れ、彼女に渡した。メリーナも席について、ちょっとさめたパンケーキを口へ運ぶ。気の置けない友人と、久し振りのふたりでの食事は、楽しかった。
メリーナがひとりでここに住んでいるのは、この世界に違和感を覚えてしまったからだ。
彼女には「前世の記憶と覚しいもの」があった。はっきりそうだと云いきれないが、それらしきものが。
メリーナは十六年前、マイツェの首都アントワルの、商人の娘としてうまれた。次女で、上には長男と長女、下には妹が三人居る。妹のひとりは、幼い頃に病気で亡くなった。
自分でははっきり覚えていないが、メリーナは「赤ん坊の時からかわった子だった」と家族は云う。教えてもいないのに計算ができ、一度教わった文字なら忘れない。あみものも教えていないのに靴下をあみ、料理もその調子で教わっていないのにやった。
メリーナの父は上昇志向の強い人間だったので、メリーナを宮廷へやり、高度な教育をうけさせることを望んだ。メリーナの家には金があり、貴族との伝手もあった。たまたま王さまがお隠れになり、あたらしい王さまが即位するにあたって官女や官吏の下働きを多数募集していたこともあって、メリーナは五歳で宮廷にはいり、貴族出身の官女付きのみならいになった。
宮廷時代の記憶は、メリーナにはあまりない。反抗的な態度をとったとか、仕事に少し遅れたとか、暗記するように云われた詩をきちんと暗記してこなかったとか、些細なことで鞭で打たれていた。
メリーナ十歳の時、やはりなにかの理由で鞭打たれた彼女は昏倒し、そのまま宮廷をさがった。しばらく僧院に預けられ、意識が戻らなければこのまま死ぬだろうと云われていた。
メリーナは意識をとりもどし、ついでにおぼろげな「前世の記憶らしきもの」を思い出していた。
メリーナの記憶では、ここはゲームの世界だ。しかし、それは遠い過去のことである。
メリーナがゲームとして記憶している内容が、この世界では伝説として語られている。メリーナも、幼い頃に本で読んだ。
ゲームといっても、殺伐としたもの、おそろしいものではない。
ひとりの少女が主人公で、人間だけでなく妖精やモンスターを仲間にし、魔法や不思議な道具を集め、商売をしてある町を発展させる、という内容だ。最高難度の条件をクリアしたエンディングを迎えると、彼女の頑張りで町が発展し、首都がそこへ移る。
その町こそ、少女「アントワル」が復活させた町、現在の首都アントワルなのだ。
おぼろげだが記憶がよみがえったメリーナは、遙か昔のアントワル伝説を調べ、ゲームと同じところを幾らかみつけた。と同時に、ゲームとまったく違うところも幾つも見付けた。
それが、伝説故の情報の不正確さから来るものなのか、単に生死の境でアントワル伝説をもとに奇妙な記憶を「思い出した」と思い込んでいるのか、メリーナにはわからなかった。
その辺りから、彼女は自分のありように疑問を持つようになる。
宮廷で読み書き計算、それに家事全般を叩きこまれたし、礼儀作法も軽く教わっていたメリーナは、父の意向でとある貴族と婚約することになっていた。
マイツェでは女児は父親の云うことをきくのが普通だし、婚約しろと云われたらするものだ。アントワルのことも、女傑だが娘にしたくはないと思う男性がほとんどである。
しかしメリーナは、ゲームの記憶と一緒に、そのゲームをしていた「自分」の記憶も、幾らかよみがえらせていた。
メリーナの前世は、娘だろうといやなことはいやと、父親に意見することができる、そういう少女だった。或いは、そういう社会だったのだろう、とメリーナは思っている。
メリーナは貴族男性との婚約を拒み、父は激怒して、彼女を勘当した。
メリーナは特になにかあてがあった訳でもなく、母がこっそり渡してくれた荷物や少額の金銭を手に、シュタルの森へ向かった。
途中で兄が追いついて、馬車にのせてくれた。メリーナがシュタルの森へ行くことを、兄は助けてくれた。
マイツェよりも女性の権利が強い国へ行くこともできるが、言葉の不安がある。メリーナはシュタルの森で、消極的に暮らすことを選んだ。いずれ、移動する勇気が出たら、マイツェからとびだすと決めて。
なけなしのお金で植物の苗や種を買い、保存の利く干し肉なども手にいれてシュタルの森へ行った時、メリーナはまだ十一歳だった。森に這入ってしばらくすすむと、優しそうな年配の女性と遭遇した。
その時、メリーナは宮廷でもらえる、官女みならいへのご褒美の鞄に荷物をつめていたのだが、その女性は鞄に気付くとメリーナを家へ招いてくれた。彼女はかつて、宮廷で官女をしており、先王崩御の折に宮廷を辞してシュタルで隠遁生活をしているという。
メリーナは、今の陛下の即位に際して募集された官女みならいに応募し、通ったのだという話をした。ほんの数日のずれで宮廷で会わなかったことに不思議な縁を感じたそうで、女性はメリーナを家に住まわせてくれた。メリーナは彼女を先生と呼び、持ってきた苗や種は、先生に教わって立派に繁茂し、実をつけた。
兄と、同じく宮廷に居たが母親の看病で官女を辞めたウルリーケだけは、メリーナがシュタルの森のどこに住んでいるかを知っている。
ウルリーケはメリーナの親友とも云える幼馴染みだが、メリーナの先生の口利きで宮廷にあがったのだ。先生はたまに、ウルリーケと手紙でやりとりをしており、メリーナのことを書いた手紙――小柄で、淡い桃色の髪、金色の瞳――から、自分と同期のメリーナではないかと思い、訪れてくれたのだ。
去年、先生が亡くなった時は、ウルリーケとふたりで先生を埋葬し、お弔いをした。