ういろうコード
その日は、早朝から京都の公園でロケバスを待つことになっていた。
まだ暗い人気のない公園でひとりポツンとベンチに腰掛けているのは、なんとも心細いものだ。
台本を開いてみたが、暗くてよく読めない。
しかたがないので発声練習でもすることにした。
ぼくの発生練習は主に外郎売である。
外郎売というのは、元々、二代目市川団十郎が『若緑勢曾我』(わかみどり いきおい そが)という歌舞伎の中で演じた劇中の一人芝居。
曽我兄弟が大道の薬売りになりすまして語る口上なのだ。
今では俳優や声優、アナウンサーの滑舌、発声練習として重宝されている。
「拙者親方と申すは、御立会の内に御存知の御方も御座りましょうが、
御江戸を発って二十里上方、相州小田原一色町を御過ぎなされて、
青物町を上りへ御出でなさるれば、欄干橋虎屋藤右衛門、
只今では剃髪致して圓斎と名乗りまする」
外郎売の口上を始めると、何故かにわかに周囲に霧が出て来た。
たちまちあたりの風景が見えなくなる。
さらに口上を続けていく。
後半に差し掛かり
「金熊童子に、石熊・石持・虎熊・虎鱚。
中でも東寺の羅生門には、茨木童子が…」
というところで、目の前に人影が現れる。
それも大きな4人の影だ。
ロケバスが到着したのかなと口上を止めると、
「我こそは金熊童子」
「石熊童子」「虎熊童子」「茨木童子」
ザンバラ髪の大男が口々に言った。
「よくぞ我らを呼び出してくれた」
「では、こやつの命と引き換えに親分の酒呑童子を呼ぼう!」
いっせいに大刀を引き抜く。
ぼくはベンチから転げ落ちた。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ」
尻餅をついたままじりじりと下がる。
4人の盗賊は、刀を構えて近づいて来る。
その時、耳元で声がした。
「外郎売を続けなさい」
誰の声か分からないが、慌てて従う。
「彼の頼光の膝元去らず。鮒・金柑・椎茸・定めて…」
と、4人の大男と対峙するように、甲冑姿の武者が5人現れる。
「我こそは源頼光」「渡辺綱」「坂田金時」「碓井貞光」「卜部季武」
5人も刀を抜いて4童子を睨みつける。
「頼光とその配下の四天王じゃ」
耳元声が囁いた。
「どうして彼らが?」
「君が呼び出したんじゃ」
「ぼくはただ、頼光の膝元去らず。鮒・金柑・椎茸・定めて、と…」
「頼光はもちろん源頼光、鮒は渡辺綱、金柑は坂田金時、椎茸は卜部季武、定めては碓井貞光…外郎売はこうした暗号を秘めておるのじゃ」
武者と盗賊は切結びながら霧の中へ消えていった。
「だから、ゆめゆめこのような古戦場で唱えるのではないぞ」
「わかりました」
「では、わしはこれで…」
「待ってください、あなたは?」
「わしは二代目の市川団十郎」
言い残し声が消えると同時に霧が晴れる。
「みぶさ~ん」
ロケバスの窓からADさんが手を振っていた。