(ネタバレ無し)エヴァファンでない僕が映画『シン・エヴァンゲリオン』を観賞した感想。……というか、レビューというか。
先日、現在公開中の映画『シン・エヴァンゲリオン』を観賞した。
先ず始めに言っておきたいが、僕はこのエヴァンゲリオンという作品に対して全く特別な思い入れはない。
ただ、テレビや雑誌を通して、そして友人や知人から話を聞いたりして、主人公の碇シンジを始め、アスカ・ラングレー、綾波レイ、葛城ミサト、それに碇ゲンドウというキャラクターたちの名前や顔・声などは知っているが、一人一人のキャラクターに特別な思い入れがあるわけでもない。後は、AT フィールドとか使徒とか、そんな専門用語は知っていたが、それがどういう意味なのかも分かっていない。
過去に僕はエヴァンゲリオンを3度観賞したことがある。
一度目はテレビアニメのとある回で、その時は碇シンジが30分間の放送中、ほぼずっと苦悩し続けているだけで終わった。それを見て『俺には無理だ』と思った。
それから何年も経ち、また別の人に「多分気に入ると思うよ」と言われたため、今度は新劇場版の3作品に挑戦してみた。いつだったか忘れたがテレビ放送されたのをBlu-rayに録画しており、それを再生して観賞した。しかし、その時も一作目の途中でギブアップしてしまった。 やっぱり俺には合わないと思った。
しかし、昨年のコロナウイルスによる緊急事態宣言で時間ができた僕は、その間に映画を50本と、100冊以上の本を読了した。その中のひとつにこのエヴァンゲリオン新劇場版3作品も含まれて、もう一度観てみようと思ったのだ。
この時、やっと最後までちゃんと観ることができた。
そして、その時に『ひょっとしたら面白いのかも』と感じるようになった。
ただ、その時点でも細かな内容までは全く分からないし、専門用語もよく分からない有様だった。
この作品が好きな人はキャラクターの可愛さや演出などが好きという人も大勢いると思う。 それは悪いことでもないし、人それぞれ楽しみ方なんて千差万別だから構わないと思っている。
しかし、僕のような人間には、キャラクターの魅力云々がよくわからないような人にとっては、やはり内容を重視してしまう傾向があるようだ。
肝心の内容がよくわからないと言う有様だと、この作品のどこに魅力を感じるのか、それが理解できなかった。
熱狂的なファンの多い作品であるから嫌味っぽく聞こえるかもしれないが、僕はまったくそんなつもりはないし、どちらかと言うとそれだけ何十年ものあいだ評価され続けている作品を理解できないという歯がゆさのようなものしかなかった。 だからこそ、いつかこの作品を理解できるようになりたい、という思いがあった。
前置きが長くなってしまったが、ここからが本題。 こんな僕が見た『シン・エヴァンゲリオン』という作品。 ぶっちゃけて言うと、ファンの人たちはこの作品が完結するのを長い間待ち続けていたはずなのに、僕はと言うと『ちょうど上映しているし、まあ観てみようかな』程度の感覚で映画館へ足を踏み入れた。
完結作となった『シン・エヴァンゲリオン』。 この作品の上映中、冒頭から、やはりいまいちよくわからないような展開が続いていた。 しかし、20分ほど経ってから『ひょっとしたら、この作品ってやっぱりすごいのかも……』と段々感じ始め、そしてその感覚は時間が経つにつれ確信へと変わっていった。
庵野秀明という人を僕は名前ぐらいしか知らなかったし、“エヴァンゲリオンという作品を作った人”程度の知識しかなかったが、この作品を見ているうちに、『これって、この庵野秀明という人の脳みその中を覗いてるような体験だ』と感じた。
上映中、スクリーンに映る映像を観ながら、僕はずっとそんなことを考えていた。
『庵野秀明という人は自分の頭の中に全く別の世界が存在していて、それをアニメーションというメディアを通して表に吐き出したのが、このエヴァンゲリオンという作品なんだ……』、僕はそう感じた。
ネタバレを書かないよう気をつけてはいるが、上映中に主人公の父親である碇ゲンドウの語りのシーンがあり、それを見ているうち『やはり、この人はこういう体験を実際にしてきたのではないのか』と思える描写があった。
あと、この新劇場版シリーズ全4作品が10年以上の歳月をかけてやっと完結を迎えたということで、『なぜそんなに時間がかかったのか?』と思っていたし、ファンの人たちなら尚更ヤキモキしていただろう。
ただ、それも観終わった後に感じたのは『この作品は中途半端な形で終わらせたくない』という監督の思いがあったんだろうし、TVアニメで放送していた時は庵野秀明氏自身の頭の中でまとめきれなかったため、中途半端な形で終わってしまったのではないか? と勝手に想像している。
それはこの完結作を見れば分かると思うが、『ラストをどういう風にまとめるか』ということに相当悩んだだろうし、監督自身の脳や心の一部が壊れなければこういうものを作れないのではないのか、なんてことを僕は思った。
そして、3作目を終えてからこの最終作を公開させるまでに約9年かかったのか、『そんなに時間がかかるものなのか』とファンでもない僕でも思ったし、監督が何らかの事故で作品を最後まで完成させることができなくなる可能性だってあったはずだ。
だが、もしかすると庵野秀明氏自身はドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』のように『もしも途中で作品が終わってしまったとしても、それはそれでいいかも』という考えがあったのかもしれない。
(実際、『カラマーゾフの兄弟』は第2部の構想があったにも関わらず、完成させることなく作者は亡くなった)
アニメファンが好みそうな女性キャラクターをデザインしたり、大掛かりな演出などでコーティングをしているが、この作品の中身はかなり文学的であるように感じた。
普通に描くと殆どの人達に注目されることがなく、なかなか理解されない物語を、アニメというメディアを通してポップに味付けすることで、大勢の人に注目されるようにしている。……が、実はその中身はとても深く、難解で、それでいて無駄がない。
一度見ただけでは難しすぎて理解に苦しむだろうし、こういう作品は何年も経ってから観返すことで、また違った感覚を味わえ、魅力に気付けるとものではないかと思っている。
はっきり言って僕はこの作品を観て、原作者の伝えたいことの10%も理解はできていないかもしれないが、それでもやっとその凄さに気づけたというか、そこに大きな喜びを感じた。
観賞後、もう一度最初から観たいと思ったし、上映中は『ひょっとしたら、この作品は生涯の映画ベスト10内に入るかもしれない』なんてことを感じていた。
自分でも信じられないが、お世辞抜きで本当にそう感じた。
それほどの衝撃を受けた作品は久しぶりだった。
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