第33話 白百合の歌
今、大切なものが消えた。
あんなに必死で伸ばしたのに。
ツバキナの腕は彼女の身体に掠りもせず、すり抜けるようにして零れていった。
底の見えない海に放り出されたのだ。
恐くなかったはずはない。
けれど祖母は笑っていた。
いつもツバキナとエソトオを見ていた、あの優しい瞳で。
「さあ、次は儂らの番じゃ」
「そうさね、チヤギ婆を独りにはできん。早く逝ってやろう」
「辛気くさいのはいやじゃな。歌でも歌うか」
「白百合の歌がええ。歌いながら船を降りたら、鳥になれるかもしれんからのう」
「ははは。儂らがなれるのは、きっとアホウドリの群れくらいじゃろう。アホウ、アホウ」
やがて、ツバキナの耳に聞き慣れた歌が聞こえてきた。
子供の頃、いつも枕元でチヤギが歌ってくれた子守歌だ。
いや、チヤギだけではない。
エソトオと一緒に毎日違う家に泊まりに行った。
爺婆はみんなこの歌を歌ってくれた。
鼓動と同じ拍子で胸をトントン優しく打ちながら、囁くように紡がれた歌。
夏の始まりを告げるよう、
島を真っ白に染めあげる白い百合
陽光を浴びた白い花弁はうっすらと金色を纏い、
小さな村に一時だけ白金の夢を見させてくれる
花は何人にも平等に安らぎを与えてくれるもの
だから憂いは胸にしまわず、
みんなで分けあえばいい
少しずつ背負っていけばいい
エィヌ島をゆっくりと流れる時間の中で
手を取りながら生きていこう
温かい島唄がツバキナに正気を取り戻させる。
――ダメ。
ぼうっとしている場合じゃない。
くるりと身体を捻り、ツバキナは手摺を背にして老人たちに向き直る。
両手を広げ、これ以上誰も飛び降りないようにと行く手を阻む。
皆に伝える言葉は見つからなかった。
チヤギを失った今、ツバキナが口にできることなど何もない。
けれど、広い甲板でそんな行為は無駄なだけ。
ツバキナの両脇を村人たちは歌を口ずさみながらすり抜けていく。
皆一緒に飛び降りるつもりなのか。
船の手摺に沿って並び、黒い鞭のように飛翔船へと伸びてくる波を見つめている。
ふっと、歌が途切れた。
ツバキナの背を言い知れぬ悪寒が撫で回す。
みんなの呼吸が一つになり、今にも手が届きそうな距離に迫った海へと意識が引き摺られていく。




