秘すれば花なり
「うわ、本当にいた……こんな枯れ木の前で何してるの?」 溜息混じりに発せられた棘のある声を見ると黒髪でショートボブの女性がこちらを見下げていた。右脇の方に置いてあった日本酒を指して彼女は窘めるような口調で言う。 「とゆうか二つも瓶開けて……何それ、お酒?」
「ん、そうだよ。」
「またなんでふたつも……とゆうかあんた酒飲めたの? 」困惑した様子で隣に座り込む。酒が飲めたのかと彼女が聞くのは会社の飲みの席でいつもソフトドリンクしか飲んでないことを知っているからだろうか。
「ん〜、喉焼けそう」現に喉が焼けそうだった。アルコール度数を10%越えるともう駄目なのだ。辛すぎる。
「本当になんで飲んでるの……」最早呆れたといった口調だった。もちろん理由がない訳じゃあないけれど、あまりに荒唐無稽な話だ。現実主義的な一面のある彼女に話してもより目が冷たくなるだけの気がする。
「うーん……まぁそうだねぇ……そこの木って枯れて二度と花が咲かなくなったから今度切り倒されるんだよね」ボヤくようにして一口酒を口にする。やっぱり辛い。
「へぇー、それがどうしたの? 」
「だから今日はそのお通夜……みたいなもんかな」
「……? 」
「まぁ、酔いどれの与太話として聞いてもらえればいいんだけどさぁ」
とある枯れ木の下。そう言って、慣れない酩酊状態で言葉をひとつひとつ紡ぎ出した。
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学生時代、いつもこの木のある公園を通っていた。丁度学年が上がった春頃で、桜が綺麗に咲いていてちょくちょくお花見をしている人なんかも見られるような時期。大学受験について考え始めなきゃいけない上テスト期間でもあったのだけれど勉強するのが嫌で嫌で随分と夜遅くに散歩に出かけていた。
特にその木のある公園は夜桜がとてつもなく綺麗で必ず通る散歩ルートのひとつだったのだ。
そんなある日、コンビニで買った飲み物とお菓子を桜の近くのベンチで飲み食いしていた時の事。
ふと、飲み物の栓を開けようとした時、視界の端に人影を捉えた。人が居ないことを確認して座ったはずなのに見えた人影。この時間帯で人に出くわすというのはあまり好ましい事ではないので思わず目を見張った。
人影の方を見るとそこには独りの少女が反対側の桜の真下にあるベンチに座っていた。その少女は赤と桃のグラデーションの布地に桜文の柄をした着物を着て、帯の位置まで伸びた艶やかな黒髪をして頭に桜をあしらった髪飾りをつけている。歳は恐らく十五、十六。同性の私から見ても惚れそうなくらいに綺麗な顔だった。
こんな夜中に着物で独り、随分と俗世離れしていて普通ならその場を立ち去るべきだったのだけれど、ずっとその場から動かなかった。見とれていて動けなかったのかもしれない。ほぼ無意識だったと思う。
意識が戻ってきたのは惰性で口にしようとしたお茶を飲み損なって襟首辺りまで零した後だった。
だんだん気温が上がってきつつはあるものの夜の気温はまだ低い方だ。湿った服が異常に冷たい。ハンカチを探してポケットを漁ってみたが散歩するのにわざわざハンカチを持ってくるほど几帳面な性格ではないのでどうすることも出来なかった。ハンカチがないことを確認してもう帰ろうとしてふと前に目をやると、その少女はすぐ目の前にいて思わず声を上げた。
その少女は微笑みながら手ぬぐいを差し出している。一瞬戸惑ったけれどとにかく冷たくて仕方なかったので受け取った。薄紅色の、ほのかに甘い香りのする手ぬぐいだ。一通り拭いたあと(それでもまだ少し冷たかったけれど)「ありがとう」と言って手ぬぐいを返した。少女は手ぬぐいを受け取るとニコッと笑い、丁度私の横を指さして顔だけで綺麗な疑問符を浮かべて見せる。随分とまぁ綺麗な顔をした少女だ。
恐らく、隣に座っていいか、という事だろう。警戒心という警戒心はほぐれて特に断る理由がなかったので隣に少女を招いた。
「えっと……こんな時間に歩いてて大丈夫なの?」
自分でも多少なりとも口下手さを感じつつもそんな風に声を掛けてみる。少女は微笑みながらこっくりと頷いて返した。
「何歳なの?」女性らしい丸みを帯びた手で左手で一、右手で五と作って見せた。やはり十五歳らしい。
しかしながら、先程から一切喋ることのない少女。喋らないだけなのかそれとも喋れないのか。聞くことに一瞬躊躇ったが好奇心が勝り訊いてみた。
彼女はふと考えるように桜を見上げてしばらくすると再びこっくりと頷いた。その時少女は少し悲しげな表情をしたような気がしたけれど、頷いた後はまた微笑んだ。
「そっか……辛いだろうに……」そう同情するように声を掛けてはみたけど、その少女はまた首を傾げて疑問符を浮かべた。余計なお世話、というよりあまり言ってることにピンと来ていないようで、彼女にとって喋れないことは重りではないようだった。
「あなたは……いつもこの時間ここに居るの?」気づいたらそんなことを聞いていた。その質問に彼女はまた微笑んで頷いて返す。やはり、どこか人を惹く魅力がある少女で、また会いに来ようと。そんな風には思ったのだ。
「そっか……じゃあ、また明日も来るよ。この時間に、ここで会おう?」そう聞いた瞬間、その少女はパッと花が咲いたように明るくなってしっかりと力強く頷いた。子供ながらに子供らしい笑顔だと、そう思った。
そろそろ帰らないと不味い頃合だと思いひとまずその日は帰ることにした。帰り際、買ってきたみたらし団子を半分程その少女に分けると美味しそうにパクパクと食べてくれた。これまた綺麗な顔で。
翌日、また菓子なりなんなりを持って再びその公園に行くとその少女は居た。
こちらに気づくなり微笑んで彼女が座っている横をぽんぽんと叩いた、
ベンチのすぐ近くまで桜が伸びていてその少女がヴェールを被ってるみたいだ。
相変わらずの綺麗な顔をして微笑を浮かべている彼女の横へ行って菓子を開けたり話をしたりした。彼女は喋ることは出来なかったけど、確かに私の話を聞いて、必ず相槌を打つ。微笑んだり、大きく笑ったりはたまた疑問符を浮かべたり。
とても不思議な子だ。けれど、そんな彼女と会うのがいつの間にか楽しくなっていて日課になっていた。
桜も葉が多くなり花が落ち始めた頃、いつものように一通り話し終えて帰ろうとすると彼女がふと私を引き止めた。いつもは微笑んで手を振って見送ってくれるけど、今日は引き止めて何事かと思うと彼女は桜をあしらった髪飾りを手渡す。「くれるの?」と聞くとこっくりと頷いてそれを私の手でぎゅっと握らせてくれた。
そして、聞こえるか聞こえないかの小さな声で「ありがとう」と、そう言った気がしたのだ。外見に反して、優美な女性を思わす声だった。思わず驚いたけれど、やっと心を開いてくれたのかと思い嬉しくなった。そして、また明日。そう言ってその日は彼女と別れた。
次の日、いつものようにその公園に行くとその少女は居なかった。桜の葉は落ちきってただの葉桜になっていて、桜と映えるあの着物を着た少女は居なくなっていた。
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「まぁ、今思えばあの娘は桜の花自体だったのかなぁって。」
酔った勢いに任せて随分と喋ってはみたものの、目の前の女性はやはり冷たい目をしていた。
「ふーん……だったらなんでお酒なの?」
「んー?花見で一杯って奴?」
「……?」
「まぁ、あの娘と話してた時にいつかお酒飲もうねって言ってたからさ。私が飲めるようになったら今こうして飲んでるんだ」 そう言って何とか酒を飲み干す。
「ふぅ……そろそろ帰ろうかな。それ、飲んでいいよ」
「あ、うん……どうも」
そうやってベンチを立ち公園の出口へ向かう。
木から離れて十数メートル。ふと、後ろから風が吹いた。その風は、いつの日かの、花の匂いをしていて。後ろを振り返った。そこには花を落とし葉を落とした木がただ佇んでいるだけだ。
しかし、ふと空を見ると空から何かが降ってきていた。掌を広げて落ちてくるものを取る。
それは春に見られるような綺麗な、綺麗な一輪の桜だった。