最後の、空
僕はその屋上で寝そべって空を見上げている時、本当に心から安心する。何故だかはわからないけれど、ひっそりとしたその空間で青空をアップで眺めていると、穏やかな日常の昼下がりというものを思い出したような、懐かしい気分になるのだ。
こうして高校で屋上の休息の一時を過ごせるのも、あとどのくらいだろうな、と思うと、少しだけ寂しいような惜しいような、そんな気分になってくる。周囲からは放課後の学生達のきゃらきゃらわいわいとした話し声が響いていて、それだけでこうした時間を大切にしたいなと思えた。
一人感傷に浸っていると、そこで屋上の鉄製の扉が開く音がした。ゆっくりと首をもたげてそちらを見遣ると、一人の女子生徒がずかずかとこちらに足音を立てて近づいてくるのがわかる。早香だった。
「あんたはなんで、部室にいつまで経っても来ないのよ! 今日は皆で今年の文芸誌どうするか、話し合うって言ってたでしょ!」
「あ……そうだったな。でも、大丈夫だ。僕は皆の意見に賛成するよ。その方向で進めてくれ」
「どの方向よ! あんたは、正反対の意見が出ても、どちらにも賛成すると言いたい訳?」
「どっちに転んでも、僕は両手を広げて受け止める覚悟でいるってことだ」
「ふざけんな!」
早香が思い切り僕の横っ腹を蹴り飛ばした。僕はうごっと情けない悲鳴を上げながらもんどり打ち、身悶えてしまう。
「こんなところで寝ていたって、一歩も前に進めないでしょうが! 考えているより、まず行動よ」
「僕は考える前にこの屋上で寝ることを選んだ。それも立派な行動の選択だ」
「ふざけんな! そういうのを行動と呼ばずに、怠慢と呼ぶんだよ!」
僕は早香の憤慨した様子を欠伸を噛み殺して見つめながら、やれやれとばかりに立ち上がった。そして、その腕をつかんで引っ張った。
「な、何するのよ!」
早香がバランスを崩してコンクリートに尻餅をつく。僕はそうして彼女に自分の隣のスペースをぽんぽんと叩いて促しながら、「まあここで空を眺めてみろよ」とつぶやいた。
「あんたね、コンクリートに体を打ったら、それこそ打撲じゃすまないわよ」
「大丈夫だ。脂肪がクッションになってくれるだろうよ」
「ふざけんな!」
もう一度頭を引っ叩かれながら、僕は何気に早香の口癖は「ふざけんな」という言葉だと今更気付いた。考えてみれば、幼い頃からこの腐れ縁は続いていたのに、こんな些細なことにも気付いていなかったのだ。
早香はぷりぷり怒っていたけれど、結局は僕の横にごろんと仰向けに横になった。そして、その青空を見上げて、小さく唇を開いた。
「確かに、ここで空を見上げると、すごく迫力があるわね」
「そうだろ? 何だか怖いような、清々しいような、いつもとは違う体験ができるだろ?」
「あんた……いつもここで空を見上げながら、何の益にもならないようなことを、ずっと考えていたの?」
「確かに何の意味もないようなことだろうけど、自分の将来とか、考える機会は得られたよ」
僕が突然そんな真面目くさったことを言い出したので、早香は目を丸くしながらこちらに振り向いた。
「まさか直射日光浴びて、のぼせたの?」
「馬鹿言うな。僕はもう都内の私立大の文学部を狙うって決めたよ。本を読むことが一番好きだし、そういう方面の勉強をしたいからさ。ここで寝そべって本を読んでいて、心からそう思えたんだ」
「まさか、この屋上で寝ていて、将来を決めることになるって、どういう心境?」
「とても楽な心境だ。寝ているだけで、将来が決まるんだから」
早香はそこで僕の頭をもう一度引っ叩いた。しかしそれは、いつもより少し優しい手つきだった。
「ここで寝ているだけじゃ、大学には受からないわよ。でも、浩介が都内の大学を狙ってるなんて、意外だな。まさか先を越されているとは」
「なんだ? 早香は成績優秀なんだから、もう難関大学狙ってるんじゃなかったか?」
早香は目を閉じて、小さく唇を噛んだ。そして、大きく肩の力を抜いて息を吐き出すと、「それがね」とつぶやいた。
「本当にやりたいことがまだ見つかってないのよ。いざ行きたい大学がどこかって言われると、答えを見出せないのよ。私、今のまま浩介とか皆で文芸部で駄弁ってる時間の方が、百倍好きだもん。これ以上は望んでいないのよ」
「なら、決まってるじゃないか。そういう好きなことを目標に、進む道を考えるんだよ」
早香が口をぽかんと開けたまま、再び振り向いた。
「浩介、この屋上で寝そべっていると、いつものアホな口調が消えるわね。ここには哲学の神様でもいるのかしら……」
「早香が文芸部で皆としゃべっているのが楽しいなら、それができるところに進むべきだろ。本が好きなら、それに関連したところに進めばいいし、駄弁るのが好きなら、大学のゼミに入ればいい。もっと勉強がしたいなら、それこそ難関狙えばいいし、早香が決めることだよ」
早香はしばらく唇を噛んだまま黙っていたけれど、やがて「そうね」ともう一度空を見上げてつぶやいた。そして、すっと立ち上がってこちらへと振り向いた。
「なんか、ヒントのようなものが得られたわ。ありがとね。まさか浩介にアドバイスされるとは」
「もっと他のアドバイスもできるけどな。スリムなボディにするにはどうしたらいいかとか」
ふざけんな、と思い切り腹を蹴られた。僕は大きく飛んで、コンクリートに尻餅をついた。その時早香のスカートがふわりと捲れ上がって、青いストライプが見えた。
「いいから、文芸部行くわよ。こんなところで喋ってたら、会議も進まないし。ほら、さっさとする!」
早香に首根っこを掴まれながら、僕は渋々とその後についていく。そうして前をずんずん進んでいく彼女の後姿を見つめながら、こうして早香と馬鹿なこと駄弁ってるのも、あと少しなんだな、と救われたような、寂しいような、そんな微妙な気持ちになるのだった。
*
僕らはやっぱり子供のままで、大学に受かるにはそれはもう、色々な労力を強いられることになった。早香はしょっちゅう泣いていたし、僕はしょっちゅう寝過ごして学校を遅刻する羽目になった。でも、結局行き着く先は同じで、僕は何とか――それもギリギリセーフのところで、都内へと四月から引っ越すことになった。
僕が卒業式の後、その屋上の扉を開くと、そこには心地良い風の通り道が出来ていた。それは右から吹き付けて、コンクリートを流れて柵の向こうへと消えていく。それは僕らの過ごした日々が二度と戻ってこないように、現れては消える、人生の変化のサイクルの一つだった。
「早香」
僕が短く声を掛けると、早香はコンクリートに寝そべったまま、瞼を閉じていた。それは寝ているように見えて、実は何かを祈っているような、そんな表情だった。僕は後ろ手にドアを閉じると、彼女に近づき、ゆっくりと横に同じように寝そべった。
「あーあ、これで青春の日々は終わりなのか」
早香は本当に残念そうに嘆いてそうつぶやき、瞼をすっと開いた。そこには寂しさはなく、どこか前を見据えるような凛とした魂の強さがあった。
「また何年かして戻って来れるよ。僕はまたこの屋上で、この空を見上げたいと思うよ」
「それでも、こうして空を見上げることができるのも、たぶんもうないんじゃないかな。皆と馬鹿やって騒ぐのも、浩介の首根っこつかんで振り回すのも、高校時代だけだし」
早香はそう言って無言でこちらに振り向いた。僕は何気なくその瞳を見て、何か迷いがあるような眼差しをしていることに気付いた。
「東京に行くの、まだ迷っているのか?」
「違うよ。ここを離れたら、浩介とも……もう会えないかもしれないし、全然違う道、進んじゃうかもしれないじゃない。浩介はこう見えてかなり才能あるし、そのまま風に飛ばされて宇宙に行っちゃうんじゃないかと思うのよ」
「僕を人工衛星みたいに言うなよ。ちゃんと地に足を付けて立っているよ、僕は。早香と隣に並んで、僕は楽しかった」
僕がそう言うと、早香は跳ねるようにこちらに振り向き、少しだけ目を見開いた。そして、すぐに苦笑し、僕のワイシャツの袖を掴んだ。
「じゃあ、約束ね。またこうして肩を並べることがあったら、今までとは違う自分達で新しい前を見据えるって。そこに辿り着いたら、私は迷いなく浩介に言うよ」
「何を言うんだよ。僕を死ぬまでこき使ってやる、とかか?」
「その言い方、絶妙! それもいいわね」
彼女はそう言って、膝を曲げて足裏を地面に付けると、素晴らしい運動神経で飛び上がるようにして立ち上がった。僕はそっと顔を斜めに傾げたけれど、その日の柄は見えなかった。そして、いつものように彼女に横っ腹を蹴られることになる。
「たださ、今までとは違うことを浩介とは語り合いたいのよ。今までとは違う環境に入って、今までとは違うことを学んで、そしてまた二人で色んな馬鹿をやって騒ぎたいのよ。それが私の当分の目標よ」
「お前の将来には僕がマスコットで漏れなく付いてくるのか。まあ、それも悪くないな」
「でしょ?」
僕らはそうして並んで歩き出しながら、最後、屋上を振り返って、その空を見上げた。そこに広がる最後の空は、どこか哀愁を感じさせる朱に色づいていて、でも僕らが見ていなくてもそこにある、決まった日常があった。僕はいつかその日常に帰ってくることを夢見て、新しい道に進もうと思う。
だから、僕は最後に、彼女にそう言いたいと思うのだ。
「早香も頑張れよ。僕も頑張るからさ」
当たり前よ、と彼女はつぶやき、扉の中へと入っていこうとして、一際大きい風が吹いた。ふわりと浮き上がり、青いストライプが見えたけれど、しかし僕の目に焼き付いたのは、彼女の決然とした、凛々しい横顔だった。
了




