#1 救世の英雄 その①
ここは世界中にある大国の中で、最も影響力のある国。
その名も『カリメア大統国』。
山河の恩恵と海風に吹かれるこの街に、世界でも有数の一流魔術学園がある。
それがこの『王立ファルトゥハイム魔術学園』。
――――何か悲しい夢を見た気がする。
時は夕暮れ。
小うるさいチャイムを目覚ましに、男がデスクから顔を上げる。
古汚い用務室、散らばった書類とポタポタと床へ零れ落ちるコーヒー。
わっと飛び起き目の前の惨状に苦虫を潰した顔になる。
窓枠に切り取られた、茜色のさみしい空が、自分と室内を虚しく染めあげていた。
「おい冗談じゃねぇぞ……布巾どこだオイ!」
探す、兎に角探す。
この危機を打破すべく、机の中椅子の下天井裏と。
しかし、普段からのズボラな性格がたたったか、布巾はおろかそれらしいものすら見つからない。
突如勢いよく扉が開き、丸ぶち眼鏡をかけた小太りの初老女性が現れた。
「"リョドーさん"、また居眠りをしていたんですね? 何度目だと思っているんですか!?」
「いえ違います教頭先生! うっかりコーヒーをこぼしたので、布巾を探しておりまして……その……」
必死にごまかそうとするこの男、リョドーに教頭は見下ろすような目線で。
「口元に涎、頬には真っ赤な圧迫痕。……まぁ随分と慌ててらしたのねぇ?」
そっと口元に手を当ててみると、少しヒリヒリしていた。
「リョドー・アナコンデルさん……、アナタの最近の勤務態度に関しては、目に余るものがあります。……明日の昼休みに、学園長室へ御足労願いますがよろしいですね?」
「……はい」
バタン、と閉まる扉の音、緊張がほどけチェアにと座る。
渋い溜息が、宙で散り体中の力が抜けて、何もかもがどうでもよくなってきた。
チェアにもたれかかりながら、デスクの引き出しに手を伸ばし、酒の入った水筒を取り出す。
蓋を適当に放ると、無言で乾いた喉に染み渡らせていく。
サボって飲む酒は格別だ。
格別には違いないが、いつもよりほろ苦い味わいだった。
心なしか、酔いが早くまわっているような気がして、一層酔いが体に重石となってのしかかる。
「正門と中庭……掃除まだだったな……」
ぼんやりとした感覚の中、窓際に佇みながら葉巻を取り出す。
リョドー・アナコンデル 45歳
煤けた作業着を纏った、身長180cm近い体躯の男で用務員として働いている。
茶色の髪に熊の様な髭と、目元に鋭く刻まれた小じわが特徴の中年である。
彼は20年前の大乱の英雄であり、少年時代から異彩を放ちながらも、人知れず幾度も世界を危機から救った経歴を持っている。
その後も戦場で数々の伝説を残すが、"ある事件"をきっかけに一線から退くことに。
そして現在にいたる。
ズボラ・昼行燈・窓際族等と言った、落ちぶれ中年オヤジにふさわしい体現である為、先程の教頭の様な上役にはいい顔をされない。
何故用務員になったか、理由は2つ。
1つは用務員という仕事は楽そうだからという、軽はずみな考えからである。
そしてもう1つは……。
「おじさん」
這いずり上がる様にチェアから身を起こし、用務員室の窓外から聞こえる少女の声に振り向く。
この学園の制服を着た女子生徒が、親し気な笑顔で立っていた。
「う、この臭い……、また隠れて飲んでたの?」
右の手甲で鼻を押さえ、しかめっ面でリョドーの赤い顔に視線を向ける。
「それに煙みたいなにおいまで……なんでそんな体に悪いのすえるのかなぁ」
「大人の嗜みというものさ」
ハハハ、と顔を綻ばせながら答える。
「こんな時間まで残って勉強か? テストが近いと聞いてはいるが……その分だとぬかりはなさそうだな。――――"グラビス"」
「うん、成績と戦闘能力はしっかり維持しないとだし。2年生こそ1番大事な時期だからね」
にこやかに少女は答える。
グラビス・アミテージ 17歳
彼女の存在こそがもう1つの理由。
10年前
『おじさん、どうして? どうしてお母さんは帰ってこないの!? ねぇどうして!? どうしてってば!』
『グラビス……それは……』
『ねぇどうして!? なんでお母さんがいないの!? お父さんも、他の人達も答えてくれない。どうしてなの!? どうして、私を子供扱いするの!?』
幼き日のグラビスは、母から貰ったクマのぬいぐるみを力いっぱい抱きしめながら、リョドーを問い詰める。
見上げるその瞳はキッと強く睨みつけながら、大粒の涙を零していた。
対するリョドーは、ずっと口をつぐみ続ける。
母親のことで大きな不安を抱えているグラビスに、真実を告げる勇気がなかったのだ。
『グラビス、いい子にしてればきっと帰ってくる……だから……』
『もう聞き飽きたよ! おじさんだけはって……おじさんなら、私にちゃんと説明してくれるって……信じてたのに。……信じてたのにぃ!』
グラビスの母親の名はカナン・アミテージ。
彼女もまたリョドー同様、優れた魔術師であった。
しかし最後の旅で、世界を滅ぼす"女神"となってしまったのだ。
原因は禁断魔術の暴走。
その身に余る力を手にし、理性と知性を失ってしまい、激闘の末にリョドーは引き金を引いた。
ああする他なかった、完全に殺さなければ傷の修復を繰り返し、更なる力を以て世界を焼き尽くしていってしまうから。
満身創痍になりながらも、最期は愛用していた銀銃で止めをさした。
その時の感触は今でも忘れていない、そしてこれからも忘れることはないだろう。
この方法しかなかったと言えば言い訳だろうが、それでもやる他なかった。
『グラビス、頼む。ワケはいつかちゃんと話す、だからそれまで待っていてほしい』
『いつかっていつ? お母さんが帰ってこなくなってもう10日だよ!? ……もういい、おじさんなんか知らない!』
そう言って走り去っていくグラビスを、止める言葉が浮かばなかった。
さっきまでグラビスが立っていた地面が、涙で濡れているのが目に映る。
その瞬間、自分自身への怒りと虚しさが同時に心を覆いつくした。
世界は救った、だがそれ以上のモノを失ったという気分だ。
気が付けば、茜空が夜の帳の訪れを告げている。
帰路につく際も、グラビスのあの涙と怒りに濡れた顔が脳裏から離れなかった。
次の日、事件は起こった。