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最終話

 社会への必要性から微粒子たる必要性へ。

 ―――――平成38年。8月7日。神奈川県、三浦市。



 ◆◆◆



 三浦海岸海水浴場。

 神奈川県の最南端。

 三浦市にある、1kmもの砂浜がのびる海水浴場である。

 季節は夏であり、さきほどから潮の匂いとともに、もわもわとした熱気がそこらじゅうから噴き出していた。

 広大な、砂浜だ。

 海はお世辞にも綺麗だとはいえないが、しかし夏休みともなると、ここは多くの海水客で賑わう。

 その客をめあてに、長く広く伸びる砂浜の根元では、海の家が無数に乱立していた。

 『乱立していた』……そう、それは文字通りの、過去形だ。

 今では、それらの建築物はすでに廃墟。

 完全なきまでに破壊されるに至っている。

 そして、破壊されているのはそれだけではない。

 周りには、有機物の塊が落ちている。

 潮の匂いに混じって、鉄分を多く含んだ液体の匂いが、砂浜には漂っていた。

 それとともに、腐ったような硫黄の匂い。

 食い散らかされた人間の体と、その内部に溜まっていた臓物が、見事な色調をもって砂浜に転がっていた。

 地獄絵図、とはまさにこのことだろう。

 砂浜にはもはや生きている人間などいなく、そのすべてに顔がなかった。

 この場所には、こんなにも食料があるのだ。

 人間の中で、一番おいしいところを。

 どうやら地球同位生命体の好物は人間の頭らしく、そこだけが丹念に食べられてた。

 鮭を食べる熊は、その頭の付け根の部分だけを食べるという。

 そこに一番栄養がたまっており、そして美味しいらしいのだ。

 人間もまた、同じだった。

 ここにおける人間の役割は、地球同位生命体を満足させるための食料に他ならなかった。

 午前11時。

 海水客で一杯になった三浦海岸海水浴場に、地球同位生命体は現れた。

 『人型』と『鳥型』の混合編成。

 最初に上空から『鳥型』が現れ、そしてその後すぐに海から『人型』が。

 そこからは、虐殺ですらなかった。

 ただの食事の時間だった。

 次々に食べられていく人間の悲鳴と絶叫。

 ムシャムシャとおいしそうに、それら有機物の塊を食べる地球同位生命体。

 その光景は、30分後には完全に沈黙することになった。

 終わったのだ。

 食事の時間が終わった。

 残ったのは、地球同位生命体と、食事の跡だけだった。

 桜島から13小隊、14小隊、21小隊、23小隊の計20体の『箱庭』が到着したのは、このようにしてすべてが終わった後だった。

 しかし、被害が三浦海岸海水場に来ていた1000人あまりの人間で済んだということは、僥倖だということができるのだろうか。

 被害がそれ以上広がらないように、『箱庭』は奮戦を始める。

 『人型』と『鳥型』

 砂浜を多い尽くす、それら奇形の群体に対して、『箱庭』は方陣を組んで、相対していた。

 四角形の方陣。

 一辺には5体の『箱庭』が鎮座し、それが16体続いている。

 16体の『箱庭』で、一つの四角形を。

 各方向に対する、死角なしの隊列を組んで、さきほどからライフルの連射に余念がなかった。

 ガチャン、ガチャン、と、弾を充填する音と火薬の爆発していく轟音が響く。

 その方陣を包囲し、盲目的に突進してくる地球同位生命体は、それによって次々と命を落としていった。

『……そのままライフル斉射。可能な限りだ』

 ヒョウドウの命令が、『箱庭』と同化しているパイロット達に響く。

 そんなことは言われるまでもない、と、計20体の『箱庭』はさらにトリガーを絞る速度を速めた。

『…………』

 ガチャン、と弾を装填しながら、13小隊弐番艦のパイロットである巌は、無言で嘆息した。

 砂浜という陸地から突進してくる『人型』。

 それらは確かに、数を減退させていた。

 当初あれほどまでに周囲を覆っていた地球同位生命体の姿はまばらになり、全滅までは時間の問題と言える。

 懸念材料は、上空に漂う『鳥型』の地球同位生命体だ。

(……4体じゃあ無理だ……)

 巌の思考は、方陣の隊列にあった。

 計16体の『箱庭』が四角形を作り、陸地を滑走してくる『人型』を担当。

 そして残りの4体が、その四角形の内部に入り、上空から急降下してくる『鳥型』を担当していた。

 その『鳥型』の攻撃が、段々と組織だったものに変わってきており、4体の『箱庭』ではもうもちそうにもない。

 そのように、その4体の『箱庭』の内の一体である、巌は考えているのである。

 周囲で味方の銃撃がカーテンをつくる中、巌は一回り大きいライフルを、上空へと狙いをつけていた。

 即席に設置されたスコープを覗きこみ、狙いを正確に。

 視点に標的が入った瞬間、勢いよくトリガーを絞った。

 瞬間、はじける。

 空から方陣へと急降下しようとしていた地球同位生命体は、その身をバラバラにして、雨のように空から降ってくる。

 それをモロに浴びる形になった巌は、しかしそんなことを気に留める様子もなく、すぐさま弾を充填する動作を繰り出す。

 終えて、銃口を上空へ。

 さきほどからこの動きを繰り返している巌は、スコープから覗く光景を見て、絶句した。

 あ〜あ。

 とばかりに、その思考には諦めが入る。

 無気力に。

 心など必要なく。

 必要なのは軍隊における錬度。

 それらを余すことなく身につけ、すっかりと心を鈍化させつつある巌は、客観的側面から今の光景を見つめていた。

 空から、死神がふってくる。

 その数は、6体。

 6体の『鳥型』が、等間隔で方陣めがけて急降下してきた。

『…………』

 焼け石に水であることは分かっていても、少しでも数を減らしておいたほうがいいだろう。

 いや、まあ所詮は無駄なことなんだろうけれど。

 そのような思考とともに、巌は上空へと向けたライフルを行使した。

 破壊できたのは当然のように1体だけだ。

 『鳥型』を担当する他の『箱庭』もまた応戦するが、しかしそれでも無力化できたのは2体。

 残りの3体の『鳥型』。

 鍵爪を隠そうともしないそれら鳥の化け物は、そのまま方陣へと突っ込んだ。

「――――――」

 崩れる。

 方陣という死角なしの隊列の中にあって、唯一の盲点は上空。

 四方六方に対する鉄のカーテンは、平面に対してのみ有効。

 立体からの攻撃。

 つまりは、上空からの猛追に対しては、いくら方陣といってもその固持は不可能なものだと言えた。

 四角形の一辺に3体の『鳥型』が乱入し、そして崩された。

 丁度、四角形が『コ』の字の状態になるほどに、その急降下は激しく、そして効果的だ。

 4つの一辺が、互いに互いを守るようにして死角をなくしていた。

 その内の一辺が崩される。

 ここから起こることなど、火を見るよりも明らかだ。

『全員、着剣』

 完全な泥沼に陥る前に、ヒョウドウは白兵戦へと移行させようと命令を下した。

 死角がなくなってしまった以上、ライフルによる射撃では周りを囲む地球同位生命体にあっという間に殲滅されてしまう。

 ならば、と。

 それならば、銃刀による戦闘のほうが、幾分かはマシなのではないか、と。

 巌も、自分の背中に備え付けられている、刀身を手にとり、ライフルにつける。

 その行動は実に淡々としたもの。

 数は減ったとはいえ、周りを多数の『人型』が包囲する中で、その落ち着きようはある意味、不自然だった。

 ライフルに刀身を備え付け終わった巌は、前を見た。

 そして、

 目の前に迫った地球同位生命体の姿を見つけた。

 ふっと、ばかりに嘆息が漏れる。

 勿論、今の巌の体は鉄の塊であり『箱庭』であり、人間の吐息とともに出される嘆息とは性質を異にしていることは確かだったが、しかし心理状態としては、それはまさに嘆息だった。

 一気にこちらを殲滅しようとする無数の『人型』。

 それが、周囲あますことなく、そこらじゅうからこちらに突進をしかけてきている。

 さらには、さきほど急降下してきた『鳥型』

 3体の内に2体までは地上で撃退することに成功していたが、残りの1体。

 それが、今、鍵爪に『箱庭』をつかんだままで、上空高くまで舞い上がった。

 『鳥型』の鍵爪は、『箱庭』の頭の部分を掴み、その部分はベコリとへこんでしまっている。

 けっして放すつもりはない。

 そのまま、『箱庭』を拘束したまま、『鳥型』は空高くまであっという間に消えていった。

 それを間近で見ていた巌は、しかし何も思わなかった。

 淡々として目付きで、お〜、飛んでった、みたいなノリで空を一瞬だけ見つめる。

 胸中には、鈍化させることに成功した弾力のない心が。

 巌の姿が生身の人間であったならば、死んだ魚のような目を浮かべているだろう。

 そのような情景が、容易に予想できた。

 巌は、このようにして仲間がやられたことに対しても、明らかに無関心だ。

 そしてそのままの状態で、突撃してくる『人型』に相対した。

 味方もまたそれらに対して、対応を行うに至っているが、まだ刀身をライフルに備え付けることができないでいる者もいる。

 混戦は必死だろう。

 そのような思考を思い浮かべた直後、

 『人型』の先方が、『箱庭』の隊列へと突っ込んでいった。

 激突。

 すぐさま、かろうじて組まれていた隊列は完全に崩れ、近接戦闘が開始される。

 『箱庭』よりも、『人型』の地球同位生命体のほうが若干、数が多いという状況。

 そんな中で、血で血を洗うような、すさまじい白兵戦がそこら中で展開されることになる。

 巌もまた、その中に居た。

『…………』

 無言、だ。

 無言のまま、銃刀を『人型』目掛けて、突く。

 突く。

 突く。

 突く。

 突いては、引き、そしてまた突く。

 地響きの中、地球同位生命体の断末魔が砂浜に響き渡る。

 風の吹く中、波の音がそれら破壊の音で掻き消されている。

 『箱庭』が動くごとに、金属のすられる音と、空気の流動が生まれていた。

 壮大な戦場の風景。

 そこに有る巌の姿は、もはや形状ではなく動きまでも機械だった。

 弥生との一件があってから、すでに3ヶ月近くが経過している。

 その間、巌はひたすらに戦闘を繰り返し、無力感に押し切られ、そしてすっかりと変わり果ててしまっていた。

 その様子は、桜島にいるパイロットの姿に類似する。

 そして、ヒョウドウの様子とも瓜二つだった。

 無気力に無関心に。

 ただ、与えられた仕事を成すだけ。

 いつかは、自分はオカシクなるということが分かっているのだ。

 未来に希望など持てず、すべてがどうでもいい。

 何かを為そうと思っても、それらは自分のやる必要のないこと。

 仕事、という意味では確かに、『箱庭』に乗ることは必要なことなのだろう。

 人類のために、日本の平和のために、意味のあることなのだろう。

 しかし、それは別に、自分がやらなくても実現されることだった。

 やりがい、というものが感じられない。

 『箱庭』に乗ることなら、誰でもできる。

 道具でしかない。

 役割を達成するために用意された、道具でしか自分はなかった。

 別段、自分がやらなくても達成されてしまう仕事。

 社会に対する必要性がまったく感じられない。

 ボクの行為は、必要ない。

 意味もない。

 それなのにも関わらず、ボクは『箱庭』乗らなくてはいけない。

 そして、『箱庭』に乗るということは、いつか死ぬ……自分が自分でなくなってしまう。

 オカシクなってしまう。

 そんなになってまで、なんでボクはこんなことを続けるのだろう、と。

 無力感に押し潰されそうになった巌がとった処世術は、それ故に心の弾力をなくすことだった。

 何を見ても何も感じない。

 日々を生きる中で、極力、何も感じないように過ごしてきた。

 それは、日々を過ごすための思考停止。

 何も考えなければ、少なくとも自分が必要ではない、意味もないということを考えなくてもすむ。

 感動はゴミ箱に捨てた。

 悲しみは不燃ごみへ。

 新鮮さは、こんなものくだらないという思考で既成概念に押し込めた。

 停滞は、喜ばしいものだと無闇に推奨した。

 好きだという感情は、自らの心を鈍化させることによって何も感じなくなった。

 嫌いだという感情は、その感情が胸の中で言葉になる前に、他の言葉で上書きした。

 苦しいという思いは、これが普通なのだと相対化した。

 嬉しいという思いは、世界の問題というより大きなものによって矮小化した。

 何も、感じないように。

 何も、見ないように。

 関わりを持たないように。

 苦しまないように、生きていくために。

 意識的な無意識。

 本心ではなく、そうしないと精神が持ちそうにもなかったから。

 虚飾に満ちた、ハリボテで構成されている中身。

 巌の心の中には、今、もはや何もなかった。

『…………』

 突く。

 引く。

 突く。

 引く。

 周りには、隊列を保った味方などいない。

 皆が皆、自分の身は自分で守るという思考で、孤軍をもって奮戦している。

 泥仕合。

 数は地球同位生命体が。

 しかし、優勢なのは『箱庭』。

 さきほどからやられるのは、地球同位生命体ばかりで、『箱庭』側の犠牲はまだでていない。

 巌の耳に聞こえるのは、奇怪な形状をした化け物達の、キーンと耳に響く断末魔だ。

 銃刀戦闘をもって相対する、『箱庭』の性能が如実に現れる戦場。

 ゆっくりとだが確実に、地球同位生命体の数は減退していっている。

 そこに、油断があったのかどうか。

 『人型』だけであったならば、問題はなかっただろう。

 勝つのは、『箱庭』だっただろう。

 しかし、現在の戦場は状況が違う。

 もう一種類、地球同位生命体が。

 『鳥型』の地球同位生命体がいるのである。

 響き渡ったのは、鳥の鳴き声に似た咆哮だった。

 軍勢の放つような、決死に満ちた叫び声。

 声は言葉としての意味を持っておらず、その意味では今の地球同位生命と『箱庭』の違いはなかった。

 空からの耳につく叫び声を聞いた巌は、空を見る。

 見て思わず、ハハハっと笑ってしまった。

 壮観な風景だなー、と、その現実を受け入れたくない心境が真剣には受け取ろうとしない。

 巌の頭上。

 頭上から、一直線に『鳥型』が落ちてくる。

 その数は、さきほどの比ではない。

 一ではなく、全。

 まるで『箱庭』の隊列をまねるようにして、空高く、そこには一列の隊列が見られる。

 空一面を多い尽くす、『鳥型』の群れ、群れ、群れ。

 総攻撃。

 それが今、地上へと降り注いだ。

『――――――』

 巌の周りに、砂浜の砂が舞い上がる。

 それは衝撃の大きさ故に高く舞い、一種の煙幕のようなものを形成していた。

 『人型』を巻き込んでの、自身の身を省みない、決死の攻撃。

 『鳥型』の体が、即席の爆弾になる。

 位置エネルギーと運動エネルギーの相乗効果

 それが今、『箱庭』の壊滅を告げるのろしとなった。

 周囲に漂う、破壊の跡。

 何体もの『箱庭』が、落ちてきた『鳥型』とともにバラバラになっている。

 一挙にして形勢逆転。

 戦場に、新たな局面が訪れることになった。

 そして巌も、直撃こそ避けられたものの、その余波とでも言うべきものを受けていた。

 巌の周囲。

 周りの味方が、すべて壊滅したのである。

『――――え?』

 自分の周り、そこには瓦礫と化した『箱庭』の姿しかない。

 その変わりとでもいうのか、地球同位生命体の姿だけは無数にある。

 周囲には、無数の『人型』。

 味方の『箱庭』の姿は、皆無。

 孤立、した。

 巌の周りには、地球同位生命体しかいなかった。

 ―――――ドクン。

 と、自分の心臓が脈打つのが分かった。

 背筋があるならば、すでに凍っているはず。

 眼球があるのならば、それは呆けたように見開かれているはずだ。

 孤立。

 それが何を意味するのか、現実逃避に明け暮れる巌といえども、分からないはずがない。

『え? ちょ、ちょっと待……』

 待ってくれるはずがなかった。

 周りの地球同位生命体が動きだそうとしていた。

 それとともに、巌の思考も停止状態からなんとか復旧する。

 焦ったように、惨めさをそのままに、巌は周りの状況を確認しようと、自身の鉄で構成された顔を動かす。

 周りは、完全に敵だらけだ。

 その事実を事実として受け止め、では他に何か希望となる情報はないか、と、見渡す。

 そして、見つけた。

 自分を包囲することになっている『人型』の地球同位生命体。

 その向こうに、突然の奇襲から無事だった、7体あまりの『箱庭』が固まっている。

 それだけを認識するとすぐさま、巌は『人型』の包囲を抜け出そうと行動を開始した。

 手には刀身をつけたライフルを持ち、それをお守りのように硬くに握っていた。

 脚は、迷うことなく味方のいる方向へ。

 孤立した現状。

 それが、今までにない恐怖感を、巌に感じさせていた。

 それまで巌は、死、というものにそんなに恐怖心を抱いていなかった。

 いや、むしろその逆。

 つまり、死ぬことはないだろう、と。

 死ぬことはない。というか、死というのは逆にすばらしいものなのではないか、と。

 徐々にオカシくなっていくことを思えば、ひと思いに華々しく散ったほうが格好がいいのではないか。

 死さえ許されない自分達は、死に行く者よりももっと不幸で、不運なのではないか。

 そのようにさえ、巌は考えていたのである。

 しかし、

『ハア……うう、ああ……あああああああ!!』

 死という現実が目の前に迫るにいたって、巌は初めてその恐怖を感じていた。

 恐かった。

 体の底から、湧き出てくるかのような恐怖心だった。

 ソワソワと落ち着かない。

 自分が今、何をやっているのかが分からない。

 目は見開かれ、眼球だけがせわしくなく動き回る。

 目の前に迫った、地球同位生命体。

 こちらに手を振り上げるその姿を見て、何も考えずに突っ込んだ。

 ただれたような皮膚に、刀身を突き刺す。

 すぐさまそれを引いて、すぐに次の標的へ。

 止まるのが、恐ろしかった。

 止まってしまったら、その恐怖心よりもさらに大きな感情に飲み込まれる。

 死、という圧倒的な暗闇。

 それを考えるのが、どんなことにも変えて、恐ろしかったのだ。

『ああ……フウ、ふ……ああ……』

 漏れる言葉は、『箱庭』からではない。

 それは内部の通信にのみ有効な音声。

 仲間への通信を目的に作られた機能なのであるから、外へと漏れる必要はない。

 誰にも認識されることもない焦燥感を音声で表現しながら、巌は狂気に身が焦がされるのをなんとか避けていた。

 今まで精神を安定に導いていた無気力無感動という処世術は、ここにモロくも崩れさる。

 そこに残っているのは、ただ単に厳島巌という人間だけだった。

 惨めたらしくあがくさま。

 銃刀を無闇に振り回し、あがき、醜く、生への渇望。

 恐怖を押しのけようと、身が狂気に支配されようとするのを、必死の思いで食い止める。

 戦場で狂気に身を任せれば、周りが見えなくなり、すぐに死ぬ。

 視界が狭くならないように、地球同位生命体の次の動きを予測するために、平常心をなんとか保とうと、巌は必死だった。

 

 突き進む。

 段々と、味方の『箱庭』の姿が見えてきた。

 あと、少しだ。

 銃刀を振り回す。

 突き、そして引く。

 それを繰り返し、脚はひたすらに前進を繰り返している。

 突く。

 引く。

 繰り返し、繰り返し。

 それを盲目的に行いながら、あと少しで味方のいる場所に合流できるというところまで。

 やっと来れたというまさにその時。

 巌はすぐ横で戦っている、『箱庭』の姿をみつけた。

 ボロボロになった、1体の『箱庭』だ。

 それが、片足がひしゃげた状態で、周囲、地球同位生命体に囲まれていた。

 手には刀身の折れたライフルが持たれているが、それがなんの効果ももたらさないというのは明らかだった。

 巌は、その『箱庭』から目線を逸らす。

 逸らし、そして目の前の敵に刀身を叩き込む。

 進む。

 前へ。

 進む。

 自分を遮る敵が、いなくなった。

 前には味方の計7体の『箱庭』がいる。

 各自が各自、地球同位生命体と奮戦を続けながら、徐々に隊列を組み直し始めている。

 巌は、何も考えないようにしながら、そこに自分も加わろうと……、

『―――――く!!』

 巌の脳裏に、それまでの自分の行為が走馬灯のように蘇る。

 何も感じることもなく、生きれるはずがなかった。

 それは、一時的なまやかしでしかなかった。

 恐かった。

 恐かったのだ。

 今までの思考は、それを紛らわすためのものでしかなかった。

 無気力に。

 無感動に。

 何も感じることもなく生きることができたら、少しは楽になれるのに、と。

 それだけから生み出された処世術。

 少なくとも、今のボクには、その思考を身体の細胞の一つ一つにまで浸透させることはできない。

 恐かった。

 恐ろしかった。

 涙腺があるならば、絶対に今、泣いていることだろう。

 排斥機能があるのならば、身体の中の廃棄物が外に垂れ流しになっているはずだ。

 恐い。

 その感情に気付きながら、これ以上、何も感じることなく生きていこうなどと、今の自分には考えることができなかった。

 ガチガチと、歯の根が鳴る。

 さきほどから、何か自分は叫んでいるようだ。

 恐い。

 目の前には、7体の『箱庭』ではなく、1体の『箱庭』

 片足を失い、今まさに壊されようとしている、1体の『箱庭』

 ヒョウドウの通信が耳に入ってきた。

 戻れ、という言葉だけがかろうじて聞こえた。

 その、意味がわからなかった。

 だから、そのまま直進を続けた。

 恐かった。

 ライフルを振り上げた。

 銃刀に、突くこと以外に攻撃力がないことを忘れていた。

 恐かった。

 でも、もう手遅れだった。

 行動を止めることが手遅れだった。

 恐い。

 恐い。

 恐い。

 恐い。

 死んでくれ、頼むから。

『あああああああああああああああああ!!』

 意味のない絶叫をあげながら、突進する。

 感情が、胸の中に突き刺さる。

 それが、自分の身体の隅から隅まで支配するイメージ。

 そのまま、手負いの『箱庭』を包囲する地球同位生命体に、銃身をぶつけた。



 ◆◆◆



 自分の部屋に戻ってきた巌は、焦燥に駆られた様子をそのままに、ベットへと倒れこんだ。

 夏特有のもわっとした室内。

 窓から西日が差し込むのを見ると、体温が余計に熱くなるのを感じた。

 埃っぽいような感じが、鼻につく。

 部屋の中では、太陽の光に照らされ、小さな綿ぼこりが宙を舞っていた。

 巌の体はそんな中にあって、まったく動かない。

 ベットで死んだように身動きをとらないまま、巌はさきほどまでのことを思い出していた。

 さきほどまで自分が居た、砂浜の戦場。

 過去に類を見ないような死傷者数をだした、あの戦いだ。

 そこで起こったこと、特に自分が行った行動について、巌は自問自答を繰り返した。

 つまり、なぜ手負いの『箱庭』を助けようと、ボクは突っ込んでいったのだろうか、と。

 自分が自分で理解できないような様子で、巌は思考の渦に巻き込まれていく。

 気付いた時には、動いていた。

 何がなんだか分からないまま、それでいて『死』という一つの恐怖をしっかりと感じながら、銃身を敵に叩き込む。

 我にかえった時、周りには多分、ボクが殺したのであろう地球同位生命体が転がっていた。

 よくもまあ、あんなにも自分を恐怖で見失いながら、死ななかったものだと、そう思う。

 狂気に身を置きながら、それでも生き抜けたのは、ただ単に運がよかっただけなのだろう。

 一歩間違えれば、死んでいた。

 死。

 その一言を思い浮かべるに至って、自分の身体がガチガチと震え始めるのを感じる。

 こうしてあの場所から帰ってきたというのに、ボクの体は思い出したように震え続ける。

 恐い。

 今も尚、変わらずに恐かった。

 恐ろしかった。

 自分が自分でなくなるというのも。

 それも勿論、ボクの心の中で時限爆弾のように潜んでいる。

 それだけでもボクの精神には余裕はないのに、それに加えて今日の出来事。

 死ぬ、ということに対する恐怖。

 それに気付くと、もうボクという存在だけでは、それらに耐えうることができそうになかった。

 だから誰かに……。

 他の誰かに、この苦しみを分かち合って欲しいと……。

 巌がベットで震え続ける中、今、ドアの軋む音とともに弥生が入ってきた。

 おどおどと、その表情にはどうしたものかと思案する表情が浮かんでいる。

 あの一件以来、弥生と巌の関係は明らかに変化した。

 部屋に一緒にいる時にも、必要最小限のこと以外を口にしない。

 べったりと寄り添った関係から、別個独立に存在する人間へ。

 それを望んだのは巌だけで、弥生はその関係に居心地の悪さを感じていたが、しかしそれを是正するのに大胆な行動をとれないでいた。

 あれほどまでに強引に打った手が、完全に裏目にでたのだ。

 それ以上、弥生には巌に対して何か行動を起こそうという勇気がわいてこなかったのだった。

「…………島ちゃん?」

 寝室まで弥生が入ってくる。

 そして、ベットの上で仰向けのまま寝そべり、震えている巌を見つけた。

「…………」

 かつての弥生ならば、そんな巌の姿を見つければすぐにでもそばに駆け寄り、そして抱きしめていた事だろう。

 しかし、それはもう過去のことだ。

 今では弥生は、その巌が寝そべっているベットの端に、小さく腰掛けるのが精一杯だった。

 震え続ける巌の姿を見て、音をださないように吐息を漏らす。

 そこには、母性とでも言うべき感情が存在していた。

 震え、震え、一人で震え。

 夜な夜な枕を涙で濡らしているのを、弥生は知っている。

 苦しいこと、一人だけでは耐えられないことを、この人は歯を食いしばって我慢している。

 力になってあげたい。

 苦しみから少しでも開放してあげたい。

 だけどそれらの思いは、今の島ちゃんには逆効果なのであろう、と。

 自分一人の力で。

 なんとか現状を変えていきたい、生きていきたい。

 それが今の島ちゃんの願いなのだろう。

 そう理解している弥生は、自分自身の感情を我慢して、巌の願いを不作為という形で叶えてやっていた。

 苦しいのは、巌だけではない。

 自分もまた苦しく、恐く、不安でしょうがない。

 すがる相手が欲しく、それは巌以外には考えられない事だ。

 それらを、弥生は我慢する。

 自分の願いよりもさきに、巌の願望を尊重する。

 弥生の中には、巌という尺度しかないのだ。

 世界は、巌を中心に回っている。

 おそらくそれが、巌と弥生の一番の違いだろう。

 巌は今、大きな役割に捕らわれ、そしてそれ故に悩み苦しんでいた。

 必要性。

 自分という存在の意味。

 それらの観念に、巌は今まで一人で苦しんできた。

 一人で。

 自分の意思で孤独を装って。

 巌は弥生との一件以来、そうしてひたすらに日々を過ごしてきた。

 しかし、それにも限界がある。

 人一人が背負いきれるものではない。

 というか、彼は今、背負うべきではないものを、必死で背負い続けていた。

 限界なら、とうの昔に超えていたのだ。

「…………恐い」

 仰向けの状態で巌が口にした言葉は、シーンと静まる室内で小さく反響した。

 それを聞いた弥生は、ビクっとしたように身体を震わせる。

 急に響いた巌の言葉。

 その声が、なんだかひどく冷たいような気がしたのだ。

 そして彼女の怯えは、巌の次の行動を見れば、あまりにも当然のことだといえた。

「…………え? 島ちゃ……」

「恐いんだよおおぉぉッッ」

 起き上がる。

 弥生の肩を掴んだ。

 そしてそのまま、ベットの方向へと弥生を押し倒した。

「…………え?」

 弥生は下に。

 巌は上に。

 ベットの上に、女性を押し倒す。

 その上にあるのは、一匹の牡だった。

「恐いんだよ。死んでしまうことが……ボクがいなくなってしまうことが!? 恐いんだよおお」

 巌の目には、涙が浮かんでいた。

 繕ったような表情はナリをひそめ、そこには虚飾のはがれた本来の姿があった。

 顔は恐怖でゆがみ、それは明確に自分を受け入れてくれる存在を求めていた。

「…………島ちゃん?」

「恐い恐い恐い恐い恐いんだ。何か役割が欲しい。自分だけの仕事が欲しい。こんな部品みたいに使い捨てられるようなものじゃなくて、自分だけの仕事が欲しいんだ……。

 意義が……意味を与えて欲しい。ボクのやることに、納得のいくような意味が与えられれば……ボクはもう、それ以外には何もいらないのに……」

「…………」

 狂ったように喚き散らす男の姿を見て、弥生は二の次を告げない様子だった。

 両肩を押さえつけられ、手が動かない。

 というか、巌の体が完全に弥生の体に覆いかぶさっているから、身体がそもそも動かなかった。

 弥生は、呆然、の一言。

 今の巌の様子は、あの一件でも見られなかったほどに取り乱している。

 それを見て、弥生は、「あー、こんなにもこの人は無理をしてきたんだな」と他人事のように思った。

「与えてくれよ。なんでもいいから。ボクが必要だっていう、それだけの意味を……下さい。お願いします。世界にとって、ボクには意味があるんだって、ボクがやっていることは必要なことなんだって、それだけで……それだけあれば、あとはもう、どうにか生きていけるんだから……だから」

 苦しそうに喚くのは、巌の今の心境だった。

 それが、夏の部屋の中、暑苦しさの中に人間の体温が重なって、その中でさらに発散されていく。

「必要だって、それだけを……。それだけあればいいから。意味があるって、僕の行為はこの世界に必要だって、ボクの頭の中に、偽りでもいいから叩き込んでくれないかな?

 嘘でもいいから、誰か、ぐちゃぐちゃにして、それで……それで……」

 弥生は目の前にある、醜い顔を愛しいように見つめていた。

 ああ、私は、どんなことをしてもこの人のことを手に入れたいのだなー、と。

 そして気付いた時には、弥生は自分の手で巌の頬を触っていた。

 サワサワと、冷たく停滞している頬を撫で続ける。

 そして、次々に流れてくる涙を、その手でぬぐった。

 愛しいという感情。

 それとともに弥生の心中には、ある一つの思いがあった。

 世界とかそんな大きなものではない。

 社会とか、そんな抽象の言葉ではない。

 見えないものへの必要性ではなく、

 もっと小さなもの。

 その微粒子にも似たちっぽけなもの。

 それに対する実感ならば、私は今すぐにでも彼に与えられるのだと。

「…………島ちゃん」

 その弥生の声が、巌を混乱から開放することになる。

 下からの言葉は、優しく色めいていた。

 綺麗な声だと、優しい声だと、巌はそう思った。

 瞬間、母親の胎内にいるかのような安心感に、体中が包まれる。

 ふんわりと、優しい匂いとともに。

 柔らかなイメージが、頭の中を支配し始めている。

 巌は、ずっとこうしていたいと、強く感じていた。

 ゆっくりと、自分が満たされていく感覚を、これほどまでに受けることができるのだと、今さらながらに思った。

 そして、あれほどまでに感じていた冷たい凝固物が、信じられない速度で氷解していくのが分かった。

 おかしな幻想に、今まで捕らわれていたと、そう思う。

 結局、僕の悩んでいたことは一つの観念に過ぎなかったのだろう。

 それは、当たり前のことなのだ。

 世界とか社会とか、そういうことではないのだ。

 そんなものは、どこにも誰にもあるはずがなかった。

 では、何があるのか?

 それは、自分の心の中だけに。

 ひとりひとりの中だけに。

 たった一つだけあるものではないかと、巌は唐突に、そう思い至った。

「…………いいよ」

 下からの声は、巌の耳を優しく響かせた。

 身体の芯まで振動するかのような空気の流動とともに、その言葉は届いてくる。

 それら一連の出来事に、「まるでこの人は天使みたいだな」と、巌は陳腐な感想を抱く。

 事実、目の前にある弥生の顔には、すべてを許すかのような包容力が満ち溢れていた。

 ドクン、と心臓が鳴るのを感じた。

 弥生の口にした言葉の意味ならば、巌にも分かっていた。

 優しい、気持ちのいい、その空気の震え。

 それを認識するに至ったとき、心の底が、情欲とは別のもので癒されていくのが、はっきりと分かった。

 優しく、包み込まれる。

 満ち足りた思いと共に、身体の奥がほんやりと温かくなる。

 その温かさは、段々と身体の奥から外へと、拡散するかのように広がっていっていた。

 まさに、至福の時間。

 気持ちのいい、心地だ。

 できればずっと……本当にずっと、こうしていたい。

 いつまでも一緒に、弥生お姉ちゃんの隣にいたい。

 そばにずっと。

 2人で一緒に。

 だけれど……、

 ――――巌は、弥生の体から、ゆっくりと離れた。

「…………」

 突然の行動に、弥生は、無言で巌のほうを見つめる。

 そこには寂しげな表情が、泰然として存在する。

 その、眉の下がった表情に、巌は胸が締め付けられるのを感じていた。

 でも、もう決めたことだった。

 決められた。

 自分ひとりで、決めることができた。

 それは、巌にとって、初めて自分自身ではっきりと選択したこと。

 だからこれでいいのだと、巌は目の前の弥生の表情を吹っ切るように、そのように思った。

 しかし巌は、なぜそのようなことを選択したのか、自分自身でも理解できていないようだった。

 なぜこんなことを決めたのか、自分でもよく分からなかったのだ。

 何が、自分をこんな考えに走らせているのか。

 なんでそれを実行に移そうとしているのか、巌にはその理由の部分が分からないでいた。

 しかし、何をしようとしているのかは分かっている。

 それはもう、自分の心の中にある。

 最後まで弥生お姉ちゃんの力を借りてしまったけれど、でもこれはこれで自分らしいと、そう思った。

 瞼にたまった涙をぬぐった。

 そして巌は、虚勢をはるように、その顔に笑みを浮かべる。

「…………勝手に悩んで、勝手にグチを言って……申し訳なく思うんだけど、でも…………いや、いい訳だね。これは弥生お姉ちゃんに対するっていうことではなく、自分の心の整理のために、自分を安定させるためだけの言葉だ。でも、それでも……いや、だからこそ、僕は言わなくちゃ……違うな、そうじゃなくて……言いたいんだ。僕の意思で、言いたい。

 ――――僕は、生きていきたいんだ。一人で」

 言い切った後に巌は、「我ながら気持ちの悪いことを言っているな」と、感想を抱く。

 今、巌は自分のためだけに行動している。

 弥生のためではなく、自分だけのために。

 それが、喉の奥に、吐き気にも似た症状を作っていた。

「…………恐いって……さっきまで言ってたのに?」

 言葉とともに、その顔がこちらに向く。

 そこにはいつもの、無表情の弥生の姿があった。

 それを見て、巌は、ぐっと胸を詰まらせた。

 今の僕が何を語っても、単なる自己満足になってしまうから、もう何も言いたくなかったのだけれど、と。

 そして、何かを言うということはそれは自分だけのためで、弥生お姉ちゃんに対する言葉ではないのだけれど、と。

 それでも、弥生は巌に質問の言葉を向けている。

 巌のことだけを考えて……ただ、巌のためだけに。

 それがまた、申し訳なくって、悲しくって……巌はただ心をこめて「……ありがとう」と言うことしかできなかった。

「恐いって感情は、まだなくなってない……でも多分、死ぬまで……オカシくなるまで、きっとそれはなくならないんだと思う。だからそれとは共存していかなくちゃならないって……そうは絶対に思えないけど……でも、僕は、とにかく僕の人生を生きてみたい。自分だけの人生を」

 言葉とともに、巌は自分の中の考えがきっちりと整理されていくのを感じた。

 それは、絡まっていた糸が、何かの拍子にすんなりとほどけていくイメージ。

 大袈裟に言えば、なんだか生まれ変わったような新鮮な印象、それを巌は感じていた。

 ああ、そうだ。

 だから僕はこんなことを選んだんだ。

 一人で生きていくことを。

 一人で生きていきたいということを。

 これは選択肢の中でもっとも悪い手なのかもしれなかった。

 でも、それでも僕にはどういうわけか、これ以外の道が選べないのだ。

 生きよう。

 一人で。

 多分、それは……、

「僕は、僕の人生に必要なんだ。世界とか社会とか、そういうことに対しては、僕はまったく必要なかった。どうでもいい存在なんだ僕は。必要もなければ意味もなかった。

 だけど、僕の人生にとっては僕は意味がある、必要だ。僕は、僕が生きるために必要だった。意味があるんだ。だったら、それをちゃんと感じたいんだ。証明したい。社会に対してじゃない。人類のためじゃない。ただ自分のためだけに、僕は僕の残りの時間を使うよ」

 ごめん、という言葉を言おうとして、でもそれが口から出ないように食いしばった。

 これ以上、弥生お姉ちゃんを傷つけたくない。

 その思い故に、巌はそれ以上の言葉を続けようとはしなかった。

 決めたのだ。

 だったら、それを最後まで貫き通すだけだと、虚勢の心でそう思う。

 かっこ悪くなっても、錯乱しても、オカシくなっても、これだけは最後まで貫き通そうと、強く決意していた。

「か、顔、洗ってくる」

 涙がまた溢れそうになった巌は、そう口実をつけて逃げ出そうとする。

 途中、弥生と巌の目と目が合った。

 寂しそうで、悲しそうな感情が、無表情に浮かんでいる。

 今まで、ずっとずっと一緒だった。

 いつでもどこでも……どこまでも続いていくのだと、何も考えなかった自分はそう思っていた。

 それも一つの未来だったのだと、今になってそう思う。

 でも、それを自分は選ばなかった。

 だったら、と。

 だったら僕のできることは……この人にしてあげられる事は、こんなことくらいしかない、と。

 柔らかく。

 はにかむように。

 巌は、弥生に対して、力なく笑いかけた。



 ◆◆◆



 厳島巌はその後、11ヶ月後に『同化現象』を発症させた。

 訳のわからない言葉と、気持ちの悪い表情を浮かべながら、そのまま巌の自意識はすべて消え去った。

 彼の選んだ道が、幸いであるはずがなかった。

 しかし、それが彼の選んだ道だったのだ。

 その結果がどうであれ、その過程における苦しみと充実感。

 それを思えば、巌の当初の決意は達成されたということができるだろう。

 巌は、『死』んだ。

 物語は、エピローグへ。

 始まりの、プロローグへと戻る。



 ◆◆◆



 弥生の目の前には、尚のこと鉄の塊しかなかった。

 第13小隊、弐番艦の『箱庭』、そのコックピットだ。

 神経伝達ケーブルはすでに身体に装着されており、それも尚のこと『箱庭』に繋がれている。

 戦いは、近い。

 あと少しの時間をもって、弥生は自身を『箱庭』として、戦場を駆けなければならなかった。

 そんな中、弥生は今だに巌との思い出に心を馳せていた。

 東京に居る頃。

 浮き島に来た日々。

 桜島での決別、そしてその後の時間。

 それらを懐かしく思い出しながら、弥生は『現在』ではなく『過去』に縛られていた。

「…………島ちゃん」

 結局、あの人はあのままやりとげてしまった。

 ひょっとしたら、途中で泣きついてくるかもしれないという自分の願いは、脆くも崩れ去っていた。

 最後まで一人きりで。

 泣きそうになりながらも、そんな決定的な姿は見せないで、強がったように力なく笑う。

 そのように、最初の決意どおりに、巌は最後まで生き抜いていた。

 最後の一秒。

 あの、巌が巌であった最後の時まで……。

 それを認識した上で弥生は「……でも」と反証を加える。

 「……でも、島ちゃんはあれで本当によかったのだろうか」と。

 その提言した疑問に、弥生はすぐさま否定の考を入れた。

 そんなはずない、と。

 そんなことはないはずだ、と。

 最後まで貫きとおそうとした巌は、それ故に消耗も激しかった。

 苦しく、身と心をガリガリと削り取っていく日々。

 安らぎなどなく、すべての問題を自分ひとりで処理しなくてはならない。

 その苦悩は、世界で一人きりで生きていくのと同義。

 生きていくのが常に綱渡り。

 断崖絶壁で一筋だけ伸びた道を、ただひたすらに巌は進んでいった。

 一歩間違えれば、すぐにでもその身は破滅する。

 精神の死。

 オカシなることへの恐怖。

 それと戦いながら、自分ひとりだけで生きていくというのは、正直、まったく想像もつかない苦行だったのだろう。

 そこに、安らぎも、幸せも、あるはずがなかったのだ。

「…………苦しいなら、やめればよかったのに……よりよく生きていくために努力するのは、苦しむということじゃあ絶対にないのに……」

 呟く弥生の脳裏にはしかし、最後まで誇りを保ったまま逝った巌の姿が映し出されていた。

 苦悩し、考え、それ故に楽な道などなかった。

 それを続けたこと。

 それこそが巌の為したかったことであり、それでこそ巌の願望が叶えられたということができるのだろうが、弥生はその考えを否定する。

「…………必要だとか、意味があるだとか……そんなことどうでもいいじゃない……少なくとも私にとっては、島ちゃんだけいればよかったのに……」

 世界への必要性。

 社会に対する自分自身の意味。

 そんなものは、ちいさな微粒子にも劣る悪しき愚考。

 必要だとか意味だとか、それらはすべて、身近に感じるべきものなのだ。

 人と人の愛。

 陳腐な、それら語り尽くされたもの。

 大きな視点など必要なく、小さな監獄にも似た世界こそが求められる。

 それこそが、幸せになる最短の道なのではないか、と、弥生はそう考えていた。

 巌と弥生の考えの違いは、結局、誰を基準にするかの違いなのだろう。

 巌は、自分を。

 弥生は、巌を。

 それぞれの尺度で考えられた思考には、そんな小さなところにだからこそ、個性の違いが存在していた。

「…………島ちゃん……そそしししし島ちゃん」

 弥生が巌の跡をついで弐番艦の『箱庭』に乗ってから、すでに13ヶ月が過ぎている。

 時間の問題。

 あと少しで、弥生にも巌と同じ道をたどることになる。

 その兆候は、すでにそこかしこに現れていた。

 だから、

 だからこれが、『同化現象』故のものだったのか、それとも『箱庭』の真実たりうる客観的事実だったのか、それは誰にも分からない。

「―――――ああああ」

 感極まったような声をあげた弥生の目には、常軌を逸した感情が漂っていた。

 虚空を見上げるように、コックピットの上、頭上を見上げる。

 彼女の視点。

 弥生の目には確かに、目の前に、すぐそこに、巌の姿があった。

「…………し、島ちゃん?」

 声に答える者なし。

 響かせたその声は、むなしく無人の空間に投げ出される。

 それでも、目の前にはいた。

 いるのだ。

 巌の姿が、そこにある。

「…………うん、そうだね……もうすぐ……会える」

 そこに、笑いかける。

 満ち足りた表情で、目の前の人物に対して。

 それだけで、弥生にとっては十分だったのだ。

「…………頑張る」

 同化する。

 『箱庭』と同化する。

 もう、戻って来れないかもしれないという恐怖と戦って。

 しかし、今ではそれこそが弥生の望み。

 戦う。

 生きる。

 頑張ろう、と。

 鉄の塊。

 人類の希望。

 そんなことは関係なく。

 弥生の脳裏には一つの存在しかあるはずもない。

『…………島ちゃん』

 光に包まれた弥生の視点は、すぐさま高さ15メートルまで浮上する。

 現実に引き戻された弥生には、しかしさきほどまでの悲観はない。

 決めたのだ。

 巌と同様、決めていた。

 生きよう、と。

 あと何時間、何日、何週間。

 残された時間。

 島ちゃんに、胸をはって会えるように生きよう、と。

 動いた。

 だからそこには、

 錯誤にも似た、

 嘘で彩られた、

 そうであっても、

 真実という不純物よりも、

 真理という役立たずでも、

 正しいものよりも何よりも、

 輝くものが、そこにはあるのだ。

 彼らの『生』は、これからも続く。

 死ぬまで、彼と彼女は病院の一室で、自意識をなくしたまま気持ち悪い様子で生き続ける。

 ゴールなどなく、醜く、浅ましく。

 滞留ですらない汚濁物がそこに。

 壊してやりたくなるくらいにヒドいものでも。

 殺意が芽生えるほどに気持ち悪くても。

 それが、吐き気がするほど見るに耐えないものであっても。

 死ぬまで、生き続けるしか、ないのだ。

 

(完結)

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