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第五話

 外に広がる暗闇が、静まり返った室内を照らしていた。

 時刻は夕の刻。

 段々と日も伸びてきたとはいえ、この時期のこの時間帯では、外は完全に夜の時間だ。

 月明かりさえない、黒色の空間。

 建物の各部屋からは、それを追い払うかのように光が生み出されていた。

 人は暗闇を恐れ、そして電気を光に変える。

 蛍光灯に彩られた桜島の風景は、夜景というには華やかさに欠けていたが、しかし都会に浮かぶ星空とでも形容するほどには光り輝いていた。

 そこにあって、今だに電気がつけられていない一つの部屋がある。

 カーテンの内側には、外と同じような暗い匂いしかしない。

 パイロットが住む寮。

 その中の一室、巌と弥生の部屋は、まるで死人でもでたかのように、沈鬱に停滞していた。

 部屋の中に、人がいないというわけではない。

 げんに、今現在でも、部屋の中に巌と弥生の姿を見ることができる。

 しかし、それはそこにいるということ確認させるだけ。

 一寸さきはまさしく闇といった室内にあって、2人はさきほどから身じろぎ一つとらずに沈潜しているのであった。

「…………」

 さきほど、タカダとヒョウドウに告げられた事実。

 それをどう処理したらいいのか、どのように反応すればいいのか、と、さきほどから2人は思い悩み、そしてそれ故に何もできないでいた。

 あの後、行動したことといえば、弥生の荷物を巌の住む寮の一室に運んだことぐらいか。

 カネコの荷物もまた整理しなければならないと思っていた巌であったのだが、しかしそれは杞憂に終わっていた。

 巌と弥生がその部屋に着いた時、すでに表札にカネコの名前はなく、そして室内にはカネコの遺物が何一つ残されていなかったのである。

 まるで、人一人が今までこの部屋の中で暮らしていたという痕跡がない。

 まさしく跡形もなく。

 何一つとして痕跡を残さないまま、カネコの姿は巌の前から消え去った。

 そのことが、さきほど伝えられた真実とあいまって、ただでさえ不安定になっていた巌の精神を、余計に暗くさせているのである。

 本当に僕たちは必要なんかないみたいだ。

 使えなくなったら、捨てられる。

 それはなんというか、使い捨てのコンタクトレンズみたいに。

 一度、目の中にいれれば、あとはただ捨てられる運命が待っているだけ。

 『箱庭』に乗る。

 つまりは、おかしくなって、捨てられる。

 まるで、自分が一つの『物』にでもなったかのような感触。

 個性なんか必要なく、自分である必要すらない。

 そんなの……どうすればいいのか、何をすればいいのか、まったく分からなくて……。

 思考はグルグルと周り、そしてスタートラインに戻ってくる。

 意味のない思考。

 益体のない考え。

 グルグルと周り続ける環状線に乗ったまま、巌は愚考とでもいうべき旋回を続けている。 

 今まで巌は、自分達の行為に希望のような、やりがいのようなものを感じていた。

 いわく、友達のために。

 いわく、家族のために。

 いわく、人類のために。

 何かのために、何かのために。

 地球同位生命体から、人類を守るために。

 『箱庭』に乗るということはそういうことであって、なんてやりがいのある仕事なんだ、と。

 その幾分か思考停止のかかっている思考は、普通人をして思い至ってしまう考え。

 それが巌であるならば、そこに行き着くのは、さもありなんといったところだろう。

 今までの人生で、自分の頭で考えるということをせず、ただただ弥生と周りの人間の協賛機関でしかなかった巌が、そのような虚飾で彩られた思考に身を委ねたのは、至極自然なことだった。

 それが、壊れる。

 確かに、『箱庭』に乗るということは、人類のためになるだろう。

 地球同位生命体と戦うということはそういうことだ。

 しかし、

 しかし、それは自分がやらなければならないということでは、けっしてない。

 誰でも、できる。

 別に僕でなくてもいいんだ。

 僕がやらなくちゃいけないということではない。

 僕がやる必要がない。

 誰かがやらなくちゃいけないのだから、それだったら自分がやる、というのもナシだ。

 自分がやらなければ、他の別の人間がやるだけだ。

 別に、僕がやる必要がない。

 人類のために、なんかお題目にすぎない。

 必要ない。

 自分はまったく必要なかった。

 意味がなかった。

 ここに、いてもいなくてもまったくどうでもよかった。

 意味もないし、必要もない。

 代わりはいくらでもいる。

 必要なのは、僕という個性ではなく、数字という機能。

 それは、僕が必要だということではけっしてない。

 自分は、必要ない。

 僕は、まったく必要ではない。

 人類を助けるとか、そんなの僕の出る幕ではない。

 必要もないし、意味もない。

 それが ――――自分という存在。

 唐突に思い至った巌の精神が、この重みに耐えられるのはなぜなのだろうか。

 グルグルと沈潜していく巌の中にあって、この事実は耐えられないくらいに苦痛であるはずだ。

 自らの存在意義を……今まで自分を支えてきた観念を失って、今の巌の心にあるもの、それは一体なんなのであろうか、

 と、その時、部屋の蛍光灯に電気が通った。

 ジジジ、という年季のはいったような待機時間のあと、すぐさま部屋の中に光が生まれる。

 いきなりのことに、暗闇に慣れた目が光に痛み、目を細める。

 そんなまぶしいような眼差しで電気のスイッチのほうを見てみると、弥生が屹然としてそこに立っていた。

「弥生お姉ちゃん……どうしたの?」

 弥生の、覚悟を決めたかのような表情が、少しだけ気になった。

 弥生の姿は、巌と同様に焦燥しきっており、目の下には早々にクマまでできている。

 小柄な体躯のうち、肩で息をしているのはさもありなん。

 さらには、長く美しい黒髪が、毛先から若干ほつれ、乱れてさえいる。

 しかし、それらよりも先に目にとまるのが、弥生の瞳だ。

 疲れきり、その日の力をすべて使い切った様子の弥生にあって、その目だけが炯々爛々と輝いていた。

「…………島ちゃん、帰ろう」

「―――え?」

「…………帰ろう、島ちゃん……こんなトコ、いちゃダメだよ」

 ぐい、とばかりにこちらに身をのりだしてきた弥生。

 その迫力に押される形で、巌は一歩後ろに下がった。

「帰ろうって……それってつまり、弥生お姉ちゃんは、『箱庭』のパイロットを辞めて、東京に帰るってこと?」

 その言葉に、目の前の女性は、コクン、と頷いた。

 それとともに、弥生は巌の間近まで迫る。

 憔悴しきった中に、狂気にも似た輝きがその瞳には光っている。

 無言の迫力に、巌は蹴落とされていた。

 有無を言わさせないような、そんな頑強な雰囲気。

 そしてそのまま、弥生は巌の手をつかむと、

「…………帰ろう。今すぐ……あいつはいつでも辞めていいって言った……だったら、こんなトコ、いつまでも居る必要なんかない」

 常日頃からは考えられないような、明確な意思表示。

 その口調には、あいまいなものなど何一つなく、確固たる意思が見られた。

「え? ちょ、ちょっと待ってよ……」

 言いよどむ。

 そして次の瞬間、

 反射的に、という言葉が似合いそうな自然さをもって、巌は、パシっと勢いよく、弥生の手を払った。

「―――――あ」

 それは、本当に反射故の運動だったのだろう。

 今、自分が行ったことが自分自身信じられないといった面持ちで、巌は、目の前の弥生の姿を見つめることしかできなかった。

 場には、時間が止まったかのような静寂が訪れる。

 シーン、と。

 風が窓を揺らす音しか聞こえなくなった室内において、2人は互いに相手のことを瞠目として見つめている。

 巌の、弥生のことを拒絶する言葉と行為。

 それは、今までの巌では考えられないようなことだった。

 弥生が右と言えば右。左と言えば左と。

 常に盲目的に従ってきた巌が、微弱ながらも弥生を拒絶するような仕草をするのは、普段ではまったく考え付く事もできないことである。

 その小さな拒絶が、弥生の心をどれだけ深く抉ったか。

 想像することもできない痛みが、弥生の心の中に生まれていた。

 

「……し、島ちゃん?」

 声はかすれ、心に空洞でもできたかのような表情。

 弥生は、目の前で起きた事実を信じられないように見つめていた。

 つまり、巌が自分のことを拒絶したということ。

 それは小さな拒絶ではあっても、しかしそんな強弱などこの2人には関係ない。

 巌が、弥生の意志を拒絶した。

 この2人の関係は、それだけのことがあるだけで、普通人の尺度での裏切りと同程度のものがあるのである。

「ちょっと待ちなって、弥生お姉ちゃん。そんなに急ぐ必要ないよ……もうちょっと時間を置いて考えようよ……」

 煮え切らない巌の態度には、時間を稼ごうとする見え透いた嘘があった。

 ヒョウドウから伝えられたあの事実をもっても、巌はこの桜島に残りたいという思いのほうが強くあるのだろう。

 げんに巌の顔には、東京には戻りたくないという感情とともに、ここに残りたいという思いが、確かに残っていた。

「…………島ちゃん……」

 傷ついたというにはあまりある。

 トラウマというものがあるのならば、今まさにこの瞬間が弥生にとってのトラウマだろう。

 絶望、という感情が、弥生の顔を覆いつくす。

 それを知らず、巌は、弥生のことを避けるために、横を向いて言い訳を始めていた。

 その視界には弥生の姿は映っていない。

 自分の思いを口にしても、傷ついた様子の弥生を見たくはないのだ

 巌は視線をそらし、ここに残ったほうがいい理由、まだ即断しないほうがいい理由を、歯切れの悪い様子で喋り続けていた。

「だって……だって、ほら、ヒョウドウさん達の話が本当なのかも分からないしさ。それに、『同化現象』には個人差があるんでしょ? だったら、もしかしたらオカシクならないまま、っていうことも考えられるしさ……」

「…………」

 弥生は無言のままで、巌を見つめる。

 その心中にはありとあらゆる思考が渦巻き、そして滞留していた。

 巌をここで失うわけにはいかなかった。

 今までと同じように、ただ従って欲しかった。

 認めてほしかった。

 しっかりと、賞賛して欲しかった。承認して欲しかった。

 今までとなんら変わらない生活を。

 今の状態の維持。

 それだけが自分の望みだった。

 ―――――それが……叶えられない。

 ふ、と弥生の体から力が抜けるのが分かる。

 覚悟を決めたというよりは、すべてを諦めたかのような境地。

 顔にはいつもの無表情が完全に戻り、今の状況との対比で、薄ら寒い印象を抱かせる。

 そんな、狂気に身をおいた弥生。

 その中で取り出したのは、長方形状の重厚な物体だった。

 普段、仲のあまりよくない母親からもらった、護身用の携帯物。

 黒光りするフォルムは、まさにソレの外観を備え付け、これが本当に護身用のものなのか疑問に思わざるを得ない。

 スタンガン、だ。

 ソレを弥生は右手で持ち、ゆっくりと近づく。

 巌のほうへと。

 ゆっくりと。

 そして、

「―――――う!?」

 押し当てたのは頚動脈付近。

 スイッチを入れたのは、一瞬のこと。

 それでもあまりあるかのように、巌の体は冗談のように地面に倒れた。

 一瞬で力がなくなり、体重を支えきれなくなった脚が膝から崩れ落ちる。

 バタン、という無機質な音。

 そして巌の体は、倒れたまま、そのまま動かなくなった。

 動く気配が、まったくない。

 完全に意識を失っている。

 それにも関わらず弥生は、念のためにと、もう一度スタンガンを巌の体に押し当て、そしてスイッチをいれた。

 ビクビクっ、と痙攣する巌の体。

 その痙攣し続ける巌の体を、弥生は無表情に見つめ続ける。

 電流の放電する音が、部屋の中の静寂を震わせる。

 ジリリ、ジリリ、と。

 何秒かの後。

 巌の体から煙が生まれ始めたのを見て、今ようやく、弥生はそのスイッチを絞るのをやめた。

 

 プシュー、という皮膚が焼きただれる音と、人間の体が焼けた時にでる煙が舞い上がる。

 それとともに、あたりにはロウソクのような匂いが立ち込め始める。

 巌の皮膚がスタンガンの電流に焼かれことを受けて、その体からは、焦げ臭い匂いと、ロウの匂いがあたりには生まれていた。

「…………」

 弥生は、巌の体を無表情にみつめる。

 すでに絶望の感情は、彼女の表情からは消えていた。

 巌の思いなど、知ったことではない。

 今までも、形は違えど、このようなことは日常的に行ってきたのだ。

 巌を自分の思い通りに、自分に都合のいいように育て上げてきた。

 精神的に。

 言葉と仕草によって。

 自分の思い通りに、巌のことを操ってきた。

 人形を操るように、操ってきた。

 それが今回は、このような形で力を使ったにすぎない。

 今までと、やっていることはなんら変わりはない。

 島ちゃんを、私の思い通りに。

 私のことをどんな時でも誉めてくれる、認めてくれる、賞賛してくれる存在に。

 私は、島ちゃんのことを失うわけにはいかない……。

 巌の体は、なおも動かない。

 意識は完全に消失しており、目をさますのにはかなりの時間を要するだろう。

 その前に、この桜島から出れば、それであとはどうとでもなる。

 弥生は、手に持っていたスタンガンをしまった。

 そしてそのまま、巌の動かなくなった体を引きずり、リビングのほうへと引っ張っていった。



 ◆◆◆



「なんだか、イワオちゃんの名前って、イワオちゃんらしくないよね」

「え? そ、そうかな?」

 2人がまだ幼い子供だったころ。

 小学生にあがる前の、幼年期の記憶。

 公園の砂場で、弥生は巌に対して言葉を向けていた。

「そうだよ……なんだかむずかしい字だし……それに、パパにきいたら、イワオって文字のいみは、大きな岩、っていみなんだってよ? やっぱりイワオちゃんには、にあわないよ」

「そ、そう?」

 そうだよ、と幼かりし時の弥生は答える。

「それにゲンジマって名字も、なんだかキビシイ感じがするって、そういってたよ? それでイワオちゃんの名前には「キビシイ」って漢字がふたつも入ってるからそう感じるんだろうだって」

「それも、ヤヨイおねちゃんのパパがいったの?」

「うん。そうだよ」

 弥生の言葉に、はあ、とだけしか相槌のとれない巌だった。

 弥生が何を言わんとしているのか、理解できないように首をかしげている。

 その仕草のまだよく似合う頃で、そこには年相応の無邪気さを見て取ることができた。

「だから、イワオちゃんのこと、今日からシマちゃんってよぶね」

 首をかしげて自分のことを見つめてくる男の子に、弥生はそう宣言した。

 唐突なことに、やはり巌は何がなんだか理解できていないようで、「なんで?」と短く弥生に対して質問した。

「だって、「キビシイ」って漢字がダメなんだから、それをぬいちゃえばいいんじゃない? ゲンジマの「ゲン」と、「イワオ」っていう文字をけせば、あとは「シマ」っていう字がのこるでしょ? だからシマちゃん」

 厳島巌の中から「厳しい」という文字を抜かす。

 残るのは、「島」。

 だから、私はあなたのことを今日から島ちゃんと呼ぶ、と、その説明を何度しても、巌にはいつまでたってもそのことが理解できないようだった。

 尚も首をかしげ、「え? え?」と疑問詞をあげ続けている。

「もう、いいの!! シマちゃんは今日からシマちゃんなの!!」

 弥生は、そうきっぱりと言い切った。

 その態度に、巌もまた観念したのか、「シマちゃん……シマちゃん」と、口の中でその名前を唱え始めた。

「じゃあ、シマちゃんパパ。おままごとの続きをしましょう」

「う、うん」

 押し切られた巌は、そのまま島ちゃんになった。

 これから先、何年も続く愛称が、こんなにも簡単に作られたかと思うと、実に感慨深いものだ。

 島ちゃん、と、それから巌はそのように呼ばれ続けた。

 そして、それを言い続けた存在。

 弥生もまた、巌のそばに、片時も離れることなく居続けた……。



 ◆◆◆



 浜風が、弥生の体を襲っていた。

 日中とはうって変わって、陸から海へと向かう風である。

 空気の流動は陸地の匂いをはらみ、しっとりとした潮の匂いと結合していく。

 ザザー、と返す波の音と、陸地に立つ木々の葉を揺らす音。

 それらが、夜の桜島の中にあって、人の心を落ち着かせなくさせるような、体の底に響くような音楽を奏でていた。

「…………」

 弥生は、歩く。

 無言、だ。

 その表情にはいつもの無表情が浮かんでいるが、しかし今の彼女のソレは少し辛そうな印象を受ける。

 それも無理もないだろう。

 彼女の肩には、大きな大きなスポーツバックがかけられていた。

 そのバックを、弥生は小柄な体ながら大事そうにかついでいる。

 中には、おそらく彼女の生活必需品が入っているのだろう。

 服に鏡に巌に、その他細々としたもの。

 それらをぎゅうぎゅうに詰め込んだバックをもって、弥生はひたすらに前進を繰り返していた。

 目的地は、港である。

 桜島に唯一ある、漁港を改造した港。

 本来、桜島からの移動はヘリなどを使うのが常であるので、この港はただ単に、浮き島と桜島を繋ぐ役目しかもっていない。

 いや、平時は、という限定をつける必要があるか。

 平時ではなく異時、つまり今の弥生のような場合、この港は桜島から本州への綱渡しを兼ねる。

 ヘリという騒音ではなく、船というあまり人目につかない交通手段。

 その小さな船によって、ひっそりと東京へと帰ろうというのである。

 それが、今の弥生の目的だった。

「…………」

 辛そうな表情を無表情で隠しながら、弥生はさらに前進する。

 重そうなバックを持って、前を見て。

 すでに、ヒョウドウには、このことを伝えてある。

 つまり、『箱庭』のパイロットを辞めるということ。

 桜島から出て行くということ。

 こんな所には一秒たりとも居たくないから、すぐさまに東京に帰して欲しいということ。

 その弥生の願いは、すべて叶えられることになった。

 20時00分。

 それまでに、港に行かなければならない。

 小さな漁船じみた船に乗って、帰るのである。

 ―――――ガサ、ゴソ。

 前進を続ける弥生の前に、ようやく港の明かりが見えてきた。

 桜島は、やはり広大な面積を誇っている。

 ここまで来るにも、徒歩ではかなりの時間を要してしまい、荷物をまとめる時間とあいまって、出港時刻はすぐそこだった。

 ―――――ガサ、ゴソ。

 遅れるわけにはいかない。

 自分の存在はイレギュラーなのだ。

 おそらく、少し遅れただけでも、当然のように船の出港は中止になってしまうだろう。

 ―――――ガサガサガサ、ガガガ。

 丘の上。

 丁度、港の上に位置する、丘の上に弥生は到着した。

 あとは、この丘を下っていけば、着く。

 そこまできて弥生は、自身の持つバックに目をやった。

 そのバックは、さきほどからガサゴソと揺れに揺れ、暴れまわっている。

 中からはくぐもったうめき声と、バックの中を突き破ろうと暴れるまわる男が。

「…………」

 弥生はそれでも、無表情、だ。

 しょうがないなー、とでも言いたげに、バックをおろす。

 そして、地面に下ろしても尚、暴れまわるスポーツバックを見下ろした。

 少しばかり、意識を取り戻すのが早かった気がする。

 計算違いということになるのだろう。

 スタンガンで気絶させてから、どれくらいで人は意識を取り戻すかなど知るわけもない。だから、これも無理からぬことだと、そう思う。

 それに、こんなことはまったく問題はない。

 意識を取り戻したのなら、もう一度意識を刈り取ればいいだけの話だ。

 

 弥生は、ポケットの中からスタンガンを取り出した。

 そして、ゆっくりと、暴れるスポーツバックに近づく。

 ファスナーに手をかけ、開ける。

 中から見えてきたのは、両手両足を、荷物をまとめる時に使うビニール製のロープで縛られた、巌の姿だった。

「むうう、むむむ、むううう」

 さらには口に、さるぐつわよろしくガムテープがぐるぐる巻きにしてある。

 鼻から下、顔の半分が完全にガムテープで覆い尽くされていた。

 これで鼻の穴まで塞げば、1分もせずに窒息死させることができるような、今の状態。

 巌は、完全に意識を取り戻していた。

 そして、今やっとスポーツバックという密室から外の景色を見ることのできた巌は、自分の置かれている状況をしかと理解することになった。

 ファスナーが開かれ、その向こうには、無表情の弥生の顔がある。

 両手両足を縛られたままで、巌は、そのいつもの様子の弥生が持っている物を注視した。

 スタンガン、である。

 それを見るに、巌はすべてを理解してしまった。

 今の自分の拘束を誰が施したのか。

 なぜ自分が意識を失っていたのか、を。

「むううう、むうん、むんん、むうう」

「…………ジっとしててね島ちゃん」

 ジっとしているわけがない。

 巌は、暴れる。

 暴れた。

 両手両足を完全に縛り上げられているので、微々たる抵抗しかできない。

 しかし、微々といってもそれは抵抗であり、スポーツバックの中に拘束されているという状況からなんとか抜け出すことくらいのことはできた。

 丘の上。草むらの上に、巌は必死の形相で逃げ出す。

 四肢を縛られている巌は、それ故に立つこともままならない。

 結果、無様に地面へと寝そべることしかできない。

 地面に転がった芋虫。

 それを追うのは、その芋虫を虫かごに入れようとする、無邪気な子供だった。

「…………」

 無言。

 無言のままに弥生は、巌の体に馬乗りになる。

 巌の背中の上に乗り、そして脚を巻きつけて逃げられないようにする。

 自分の小柄な体では、そうすることでしか巌のことを拘束することはできないと考えたのだろう。

 両手両足の拘束もまたそのために。

 弥生の手は、万全といえた。

 馬乗りの状況。

 巌もまたなんとか反抗しようとするのだが、しかし手と足の両方が使えないというのは辛い。

 背中に乗る弥生の脚もまた、巌の体をがっしりと掴み拘束し、巌のことを逃がさないように包み込んでいた。

 そして、あてる。

 スタンガンを、弥生は巌の頚動脈付近にあてた。

 その表情には無表情が。

 なんの気負いもない。いつもの様子の弥生の姿があった。

 首元に押し当てられた冷たい感触。

 金属片が首元に押し当てられ、背筋が凍った。

 弥生は、本気だ。

 この後すぐに。

 勢いよく刹那。

 自分はまたしても電流によって……、

「むううううううううううう!!」

 くぐもった声とともに、巌は最後の抵抗にうってでた。

 転がる。

 転がった。

 横へ。

 つまり、丘の斜面へと。

 巌は渾身の力をふり絞って、丘の斜面を落ちるようにして転がり始めた。

「きゃああ」

 短い悲鳴とともに、弥生の体が早々に巌の体から離れることになる。

 つかまっていられなかった弥生が、丘の斜面に投げ出される。

 それとともに、巌は窮地を脱することができたのだが、しかし止まることができない。

 そのまま、ごろごろごろごろ、と、まるで何かの車輪にでもなったかのように回転しながら落ちていった。

 夜の暗闇。

 結構な角度のある丘の斜面。

 そこを猛スピードで、巌は転げ落ちる。

 草むらに突っ込もうが、小さな木々にぶつかりそうになろうが、しかし巌の体は止まらない。

 途中、ササの葉などで体の所々が傷つけられるのを感じながら、巌はそのまま転がり続ける。

 ごろごろごろごろ。

 時々、体が地面に接着しなくなり、その時は文字通りに体が宙に浮いている状態だ。

 転がる、というよりは、飛ぶ、という表現のほうが正しいか。

 運が悪ければ、首の骨を折って死ぬ、そのようなスピードで、巌は丘の斜面を降りていった。

 そして止まった。

 急激にというわけではなく、徐々に徐々に。

 段々とスピードの落ちていった巌の体は、ボロ雑巾のようになりながらも、なんとか止まった。

「むう、フウー、フー、ふふー」

 巌は消耗しきった様子を見せながらも、寝そべっていた状態から飛び起きた。

 すぐさま、自身の体の状況をチェックし始める。

 今の体は、アドレナリンによって痛みという痛みをまったく感じていない。

 それをチェックするには、近くの港から漏れる薄明かりの中、自分の眼でそれを確認するしかなかった。

 手をもって体中をくまなく確認する。

 何かが体に刺さっていないか。

 どこか骨に異常はないか。

 それを手早く確認した巌は、安堵の表情を。

 所々体は痛むが、しかし致命傷はなさそうだ、と。

 そしてそこまできて、さきほどまで自分のことを拘束していたロープがすべて外れていることに気付いた。

 両手両足。

 そこに施されていたビニール製のロープが、すべてほどけてなくなっている。

 おそらく、丘の斜面を転がる中、自然にほどけたか擦り切れてしまったのだろう。

 そう結論付けた巌は、今だに残っている戒め。

 自身の口元にかけてぐるぐる巻きにされてある、ガムテープを取り外した。

「ぷはあ!!」

 勢いよく、口で息をする。

 体中が酸素を欲していた。

 それを補うかのように、鼻と口。

 その両方をもって、空気を肺に送り始めた。

「ハア、はああ、かはあ……くそ」

 荒々しく息をしながら、巌は胸のうちに巣喰う悪態を言葉にしてだした。

 ヒザに手をやり、疲れきった様子を見せながらも、その体には怒り故の迸りが生まれていた。

 怒り。

 そう、怒りである。

 それも、弥生に対しての怒りである。

 これは、あまりにもあんまりなのではないか。

 僕のことを物にように扱う。

 思い通りにいかなければ、それまで可愛がっていたモノを丁重に扱うことはしない。

 玩具。

 まるで、僕は、都合のいい玩具ではないのか。

 胸中にある思いと、悪態をつく言葉。 

 それとともに巌の表情には、隠す事もできない怒気が生まれていた。

 弥生に対しての、明確な敵意、怒り。

 それらが童顔とでも言っていい巌の顔に浮かぶことになり、その様相は一変している。

 自動人形から、人間へ。

 言いなりの存在から、意思をもった存在へ。

 それが巌にとって、幸せなことなのかどうかは知るよしもないが、しかし巌の心が弥生から離れていっているということだけは事実のようだ。

「はあ、ハア……ちくしょう!!、なんで……なんでこんな……!!」

 悪態は尽きない。

 弥生への敵意もまた、まったく尽きなかった。

 丘の下、少し離れたところに、弥生の目指していた港がある。

 大自然の宝庫たる桜島にあっては、そこまでの道のり、緑豊かな木々に遮られてはいるが、さきほどから港から漏れ出す光が、巌の体を照らしていた。

 その、港。

 そこから、船のエンジンが点火される音が聞こえ始める。

 時刻は、20時の少し前。

 出向の時刻は、近い。

 しかし、そのようなことを知らない巌といえば、

「くそ……クソ!!クソ!!クソ!!」

 尚も変わらずに悪態をつくことしかできないようだった。

 今まで、弥生の庇護のもとにいた。

 なんの疑問も持たずに、周りの人間の……つまりは弥生の言うことだけを聞いていた。

 それでいいと思っていた。

 人間には分相応というものがあるのだし、自分は前にでる人間ではないのだ、と。

 しかし、それは単なるいい訳に過ぎなかったのではないか。

 確かに自分の意思も何もかも、言わず存ぜず周りの人間の協賛機関になっていれば、それだけで日々を暮らしていける。

 苦しむことはなく、周りに追従し反抗しない限りは、そこに待っているのは身分相応な楽しい毎日だ。

 今までそのようにして、生きてきたし、楽もしてきた。

 だけど、でも……これでは自分が生きている必要がないではないか。

 その考えに行き着いた時、巌は、ハッ、としたように面をあげた。

 今の思考……それは、『箱庭』に乗ることとと同じことではないのか、と。

 つまり自分は、この桜島に来る前から、すでに必要もない、意味のない、なんら今この場で死んでもとるにとらない存在だったのではないのか、と。

「そんな!!……こと…………」

 語尾は小さくなり、心細そうな声になる。

 思い知ってしまった。

 別に、『箱庭』など関係もなかった。

 必要なかった。

 自分、という存在がそもそも、最初から、何にもまさらず、必要なかったのだ。

「……………………僕の……せいじゃない……僕のせいじゃない。僕が悪いわけじゃない」

 唐突に思い至った巌は、生贄を探し始める。

 では誰が、と。

 自身の自尊心、精神の安定のためだけに思考する巌は、自分が傷つくことのない理由を探す。

 ただ、自分のためだけに。

 責任を転嫁する。

 今までの人生の営みに、自分以外の瑕疵を見つけようと、無様に喘ぐ。

 その矛先がどこに向かうか……犯人探しをする前から、分かりきっていたことだった。

「弥生……お姉ちゃんの……せいだ。僕がこんなになったのは、弥生お姉ちゃんの…………」

 呟いた瞬間、巌はすべてが嫌になった。

 思い浮かべたすべての思考に、嘆息するとともに否定の考が入る。

 そして、似合わないように、皮肉めいた苦笑をその顔に浮かべた。

 そんなわけない、と。

 誰かのせいとか、そんなことじゃない。

 そんな、簡単なことではない。

 そんな、救いのあるような問題なのではない。

 というか、これは自分だけの問題ではないのだろう。

 みんな、だ。

 みんな、みんな。

 徹頭徹尾。

 世界中のすべての人が。

 全員総じて、必要もなければ意味もない。

 苦笑は高笑いとなって、巌の口から乾いた笑い声が漏れ出す。

 何もかもが、どうでもよくなったような……無力感に打ちひしがられる。

 その様子は、どこかヒョウドウのような雰囲気さえ醸し出していて……、

 ―――――ガサ。

 と、その時、音がした。

 後ろを振り向く。

 風のたなびく荒野の中。

 港から漏れ出す薄明かりの中。

 波の返す音の響く草むらの中で、

 スタンガンを持った、弥生がそこにいた。

「…………島ちゃん」

 その顔には、焦ったような焦燥感がある。

 それも無理もないことだろう。

 あと何分かで、港から船がでる。

 それまでに、港まで巌を連れて行かなければならない。

「…………島ちゃん……一緒に帰ろう?」

 願うような思いが、そこにはあった。

 巌に向けて、手を差し伸べる。

 右手で。

 左手は、スタンガンを持ったままで。

 弥生はそのまま、巌へと近づいていった。

「…………島ちゃん」

 一歩一歩。

 弥生は、巌に近づいていく。

 船の出港は、近い。

 さきほどから、船のエンジンの音が、夜の海岸線にしきりに響いていた。

 弥生は慌てたように、一歩一歩。

 そこにある焦りは、一体何を生むのだろうか。

「…………帰ろう?」

 また元どおり。

 前みたいに、いつまでも一緒にいよう。

 その言動の裏に隠された思考が、巌には手にとるように分かった。

 それを思うと、胸の奥から何かが飛び出ていきそうになる。

 自分の体を突き抜けて、何かが溢れ出していきそうな、そんな感覚が巌には感じられた。

 弥生が、巌の手をつかむ。

 有無を言わせないように、その手を力強くつかみ、そして港のほうへと引っ張っていこうとしている。

 しかし、巌の体は、その場所に吸い付いたかのように動かなかった。

「…………島ちゃん」

「いい加減に……」

 俯いた表情は影になって見えない。

 見えないが、しかしその怒気をはらんだ声を聞くと、容易にしてその様子を予想することができる。

 巌は、これまでの人生の中で始めて、本音をもって弥生と相対した。

「いい加減にしてくれ!!」

 叫ぶと同時に、弥生の手を今度こそ自分の意思ではらった。

 反射というわけではない。明確な意思をもって、巌は今、弥生のことを拒絶した。

 シーン、とした空気の冷気が、草むらの上に流れた。

 風の木々の葉を揺らす音が、象徴的に響く。

 エンジンの音が、どこまでもどこまでも鳴り響いていた。

「…………し、島ちゃん?」

「俺は、あんたの玩具じゃない!! ちゃんと俺にも意思があるんだ……なんで……なんであんたの思い通りにならないといけないんだよ!?」

「…………し、……」

 弥生の言葉は続かない。

 島ちゃん、と。

 いつものように呼びかけるには、目の前にいる人間は自分の知っている巌とは似ても似つかなかった。

 スタンガンを持っている手に、力がなくなる。

 落下、した。

 スタンガンが、草むらの上へと、落下、した。

「ボクは残る。桜島に残るよ……弥生お姉ちゃんには着いていかない。僕は、残る」

 あいまいな表現をまったく使わず、弥生に対して面と向かって言い放った。

 その態度は、毅然、の一言。

 童顔な顔は相変わらずだが、そこには今までに見られることもなかった精悍な顔つきがあった。

「恐いけど、残る。ボクは必要ないだろうけど、残る。ボクにはなんの意味もないだろうけど……残る。弥生お姉ちゃんはどうするか……自分で決めてよ」

「…………あ」

 何かを言おうとした弥生を待たずに、巌はさきほど転がり落ちた丘を登っていく。

 小柄な体格は変わらない。

 脚の短さも変わらない。

 しかし、その歩き方は虚飾でも虚栄でも強がりでも……たとえその中のどの言葉で彩られようが、堂々とした姿がそこにはあった。

 その後姿を見て、ヒザをついたのは弥生だった。

 目を見開き、そこから涙だけが流れている。

 絶望というよりは虚無。

 何もない、しかしそれでいて喪失感だけは残っているかのような表情が、凍ったようにソコにあるだけ。

 ポタポタと、瞬きもせずに見開かれている目から、涙が次々と草むらに染み込んでいく。

 弥生の長い黒髪が、振り乱れたように風に舞っていた。

 時刻は、20時00分。

 辺りは、薄明かりに包まれた暗闇。

 さきほどから聞こえてくる、船のエンジン音。

 それが今、唐突に、止まった。

(続く)

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