第二話
目の前には、無力感しか転がっていない。
―――――平成38年4月6日。日本、浮き島。
◆◆◆
関東地方、千葉県沿岸。
時刻は真昼であり、太陽の光が、醜いソレを照らし続けている。
計20体の奇形の群体。
全長15メートルの地球同位生命体が、さきほどから太陽に照らされていた。
その周辺には、住居の一つもなく、ただただ鬱蒼と茂る木々と、ぽっかりとあいた平原があるだけだった。
近くには寂れた漁村があるが、それも過去においてすでに廃れきっており、趣味で漁を続けている者しか住んでいない。
というか、もともとそこには人など住んではいなかった。
田舎にある、人里離れたような、そんな場所。
夏になるとここでも、キャンプ客でにぎわうことになるのだが、今現在では人の一人もここにはいない。
人気のない森の中。
そこに広がる見通しのいい平原。
そこが今回の戦場だった。
『一箇所に固まり、ライフル用意。30間まで接近したら発砲。10間まで迫った時、全員着剣……のちは白兵戦だ。以上、通信終わり」
各『箱庭』に、通信が流れる。
それを受信したのは、第13小隊と第20小隊の計10体の『箱庭』だった。
人型の決戦兵器。
体長15メートル強の鉄の塊が、一箇所に固まり狙撃の準備を行っていた。
その動きは、滑らかというか、人間の動きにしか見えない。
しかしそれも、『箱庭』の構造……パイロットの神経系を『箱庭』へと移し、自身を『箱庭』として認識し、行動するというその構造にあっては、そのような動きは至極当然のものだといえた。
5m近い巨大な銃身を、10体の『箱庭』は前へと構える。
第13小隊が前方、片ヒザをついての射撃体勢。
その後ろで第20小隊が直立姿勢で銃身を構えている。
その狙い。
それは今まさにこちらへと突進してくる、20体あまりの地球同位生命体だった。
その形状は『人型』
全長15メートルの醜悪な塊り。
『人型』といっても、そのシルエットが人なだけであって、その他の部位には人間との関連性など一切見ることができない。
外部の皮膚とでも言うべきところは爛れており、まるで全身火傷を負ったような、吐き気を催すような形状。
それには目など当然なく、ドロドロとしたヘドロが全身を包み込んでいるかのような奇怪な姿をしていた。
それらが、キーンという鼓膜をマヒさせるような叫び声をあげながら、20体ほど突進してくる。
地響きは振動となり、さきほどから地面を揺らしていた。
その奇形の群体の狙いは、当然に『箱庭』だ。
自分達の食事の邪魔をする敵に対して、地球同位生命体は盲目的な突進を繰り返している。
『撃て』
直接に自分の鼓膜に響いた通信。
それを受けた10体の『箱庭』は、自身の持つライフルのトリガーをひいた。
直後として、破壊の行使がなされる。
次々と発射されていく鉄の塊が、突進してくる地球同位生命体へと直撃する。
腕をなくし、足をなくす。
顔面がなくなったと思ったら、その直後に茶色の血液がその首なし死体から吹き出てくる。
銃弾のカーテンはとどまることを知らず、地球同位生命体の命をむしりとっていった。
ガチン、ガチンと、撃っては弾を充填し、さらにトリガーを絞る。
計10体の『箱庭』は、密集隊形をとっているため、その銃弾の行使はまさに破壊の雨だ。
充填とトリガーの絞る音。
それを掻き消すほどの轟音である、火薬の爆発する音と音速をこえる銃弾の数々。
一つの音楽のようなBGM。
その音楽が、今、唐突に止んだ。
『全員、着剣』
命令を即座に実行する『箱庭』達。
その手に持つライフルに、自身の背後に備え付けられている刀身を装着する。
ガシン、という接着音のあと、形成されたのは一つの凶器だ。
5m近い銃身。その先端部分につけられた、『突く』ことに特化した刀身。
それを脇に構え、隊列を組みなおす。
俗に言う並列隊制。
前方の第13小隊は立ち上がり、それに後方の第20小隊がその隣へと並ぶ。
横一列に形成された並列隊制。
そして手にもつ銃刀を前へと突き出し、槍のように構えた。
『勝手に撃つな。こちらから命令した時だけ射撃しろ。基本、銃刀戦闘。以上』
『箱庭』に乗っている各パイロットは、その命令に忠実に行動する。
まるで自分達に意思などないかのように。
人間らしい動きは、その『箱庭』達からは一切見ることができない。
その動きは、機械だ。
隊列を組む一連の動きは、人間のものでありながら機械的な動きを連想させるものだった。
兵隊に意思など必要ない。
独創性など無駄なだけだ。
必要なのは命令どおりに行動する錬度。
『箱庭』に求められているのは、英雄ではなく、軍隊における兵のソレだった。
ライフルの射撃だけでは破壊できなかった4体の地球同位生命体がせまる。
銃刀による戦闘が、ここにきって落とされた。
◆◆◆
「以上が、今回の戦闘概要……質問は?」
『箱庭』を納めるためのドックにて、無機質にカネコが巌に話しかける。
第13小隊弐番艦の本パイロットであるカネコが、その予備パイロットであるところの巌に話しかけているのであった。
千葉県沿岸での戦闘から2時間後。
カネコ他、第13と第20の小隊の本パイロットは、ここ桜島に帰ってきていた。
予備パイロットである巌はというと、他の予備パイロットの面々と同じように、桜島で臨戦状態のまま待機。
そしてさきほど、戦闘を終えた本パイロット達が輸送ヘリで帰ってきたのを迎え入れたのである。
カネコと巌が今行っているのは、その戦闘の情報交換であった。
本パイロットから予備パイロットへと、戦闘において重要であると思われたことの報告がなされる。
それを受けて、予備パイロットが『箱庭』に乗る際の参考にしようというのが、この戦闘報告の趣旨だった。
巌の乗ることになる『箱庭』の、本パイロットであるカネコ。
桜島では、同一『箱庭』の本パイロットと予備パイロットが同じ部屋で生活を共にする。
つまり、住居においても相部屋となる一心同体の存在が、今、巌の目の前にいるカネコなのである。
カネコの風貌は、ひとえに枯れた若木といったところか。
年齢的に言えば18歳であり、まだまだ血気盛んな年頃だろうというのに、その瞳には力がなく、全身からも活力というものがまったく感じられなかった。
身長は170cmくらいであり、当然に巌よりも背は高い。
かけている銀縁のメガネが印象的であり、このような死んだ魚の目をしていなければ、理知的な青年に見ることができただろう。
無表情で無関心。
その声色にも、日々を生きる生者の気力はない。
そんなカネコの風貌であったが、しかしこれは何もカネコに限ったことではなかった。
巌が配属になった第13小隊の本パイロットと予備パイロット。
そしてさきほどの千葉県沿岸における戦闘をともにした第20小隊の面々もまた、このカネコと同じような印象を抱かせるのである。
そのような状況に少しだけであるが、違和感を覚えている巌。
しかし、今はその疑問を口にする時ではなく、カネコに対する質問をすることのほうが重要であった。
「あ、あの……地球生命同位体と戦うのって……どういう感じなんでしょうか。やっぱり、恐いものですか?」
「……いや、それほどでもない……ふふふ、けれど音楽隊なんだよ」
ぶっきらぼうにただそれだけを返答するカネコ。
巌はどうしたものかと困ったような表情になるが、それ以上何かを質問することなどできなかった。
消極的で引っ込み思案な性格は相変わらず。
しかし、東京にいる頃の巌であったならば、このような質問すらしていなかっただろう。
弥生と離れてから3日目、それでも巌にしては、うまく周りとやっていけているといえる。
「他に質問がないようなら、戦闘報告は以上。ここで解散だ」
「は、はい。ありがとうございました」
解散を自分で告げ、そのまま巌に対してなんの反応も見せることなく背中を向けるカネコ。
誰かと待ち合わせをすることもなく、一人きりで自分の部屋へと帰ろうとしている。
そんなカネコの後姿を、巌は痴呆のようにただぼんやりと見つめているだけだった。
自分は何をすればいいのか、どうすればいいのか、ということを自分で決めることができない。
それは今まで、弥生の役割だったのである。
それが今では、自分で自分の行動を決めなければならない。
自由という地獄が、巌の目の前には転がっていた。
「あれ?旋律? ああ、忘れていた……あ、君、ちょっと……ああ、忘れていた。ああ、忘れていた」
踵をかえし、カツカツという足音を残してドックの中から出て行こうとしていたカネコが巌のほうへと振り返る。
その顔には『真面目』という一文字。
そしてそのままに、巌にくだされていた命令を伝達した。
「君、まだこいつに、自分の神経系のデータ移してないだろ? それじゃあこいつには乗れないんだから、とっとと医療所でデータを採集してもらってこいだって」
「え? あ、あの。こいつって……どいつですか?」
「……こいつはこいつだよ。このポンコツ」
カネコがそう言いながら指を指し示したのは、自分の乗る『箱庭』だった。
人間型の、全長15メートル超の重工な決戦兵器。
一昔前のロボットアニメにでてきそうな鉄の塊が、そこにはあった。
「あ、そうですね。『箱庭』に自分のデータを……」
「医療所だから。じゃあね……だからハミガキコじゃダメなんだよ携帯電話じゃなきゃ……」
言葉少なに、言ってのけ、そのままカネコは今度こそ姿を消す。
残ったのは巌と計5対の、第13小隊に属する『箱庭』。
他のメンバー達は、すでに姿を消したあとだった。
「……医療所」
呟いた巌は、そこに行くために、自分の情報端末を開いて医療所の場所を探る。
何をなすべきかという明確な行動指針をもらった巌は、胸はずむ思いでその場所へと急いだ。
◆◆◆
桜島は、浮き島とは比べ物にならないほどに、広い。
『箱庭』5体とその補助スタッフを含めた集団を、ここでは小隊と呼び、その小隊が桜島には25部隊配属になっているのである。
各小隊ごとに『箱庭』を納めるドックは異なっており、25もの大きな建物がここ桜島には乱立するのであるから、桜島が浮き島に比べて広いということも無理はない。
さらには『箱庭』を本州へと移送するための滑走路と各小隊専用の軍用輸送ヘリまで用意されている。
それを実現させるだけの桜島の面積は、押して知るべしの広大さを誇っていた。
そんな桜島。
居住スペースである建物や、隊長専用の私室がはいっている建物など、広大な自然の中にあって、その人工物が乱立する様は中々に終末思想じみていた。
そしてその広さと建物の乱立さ故に、ここ桜島に初めて来た者はどこに何があるのだか最初のうちは分からなく、よく迷子になるのである。
そういうわけで巌も、カネコに言われた「医療所に行け」という命令を、その2時間後になってようやく達成することができていた。
命令を受けて、2時間を桜島をさまようことに費やした巌の目の前には、真新しい建物がある。
「着いた……のかな?」
目の前に掲げられている、『桜島医療所』という看板を見て、巌は言葉を漏らす。
それは大きな、医療所だった。
建物一つをマルマル使ったその場所。
桜島に存在するすべての者の健康を担い、さらには地球同位生命体への情報分析やら何やらの研究も兼ねるその医療所は、さながら総合病院のような様相を呈していた。
巌はその大きな建物に、少し怯えながら入って行く。
中央の入り口から、医療所の中へと。
ガラス戸の向こうには、どこかの病院と同じような、受付のような場所が広がっていた。
広い、室内だ。
そこには病人らしき人がソファーに座っており、診察の順番を待っていたりする。
普通の病院のような雰囲気と空気。
その中で、近くを歩いていた白衣姿の女の医師に、巌は声をかけた。
「あ、あの。すみません。僕、厳島巌なんですけど……今日ここで、『箱庭』の……」
「ああ、あなたが厳島くんね、待ってたわ。じゃあ着いてきて」
巌の言葉が終わる間もなく、白衣姿の女医は診察室の奥へと歩いていく。
それを慌てたように追い、巌はその女医の横に並んだ。
「私はタカダリョウコ。この医療所で『箱庭』関係の現場を任されてます。まあ、何かと親密なお付き合いを死ぬまでする間柄だから、これから一つ、よろしくね」
「は、はい。こちらこそよろしくお願いします」
澄んだ声色の中にも活発さを感じさせるエネルギーを宿しながら、タカダは巌にしゃべりかけた。
タカダは女にしては高い身長であり、そのキリっとした目元には、理知的な雰囲気を見ることができる。
髪は黒であり、それを少し短めに切りそろえていた。
それが彼女の持つ美貌をいっそう募らせる結果となっており、場所が場所なら人気者の医師になれるだけの風貌をしている。
「じゃあ、面倒臭いから、歩きながらで事前の説明をするわね。厳島くんは当然、『箱庭』の操縦方法については知っているでしょ?」
「ええ、それは……」
「まあ当然よね、授業とかでも繰り返しやってるんでしょうから。でもまあ、とりあえずというか、慣習じみたというか、マニュアル通りというか、それに沿って説明すると、『箱庭』という乗り物は、それまで存在していた乗り物とは一線を画する存在です。
自動車を思い浮かべてみてください。自動車に乗るのはあくまで人間であり、人間は自動車を『運転』します。けっして、人間が自動車そのものになってタイヤを動かすということはありません」
タカダの口調は説明口調になり、さきほどまでの気さくな感じから丁寧な口調へと変わっていた。
それは何か事務的なものを感じさせる。
毎回毎回、桜島に来るパイロットにこの説明をしてきたのであるから、その口調がいわばルーチンワークになるのも無理もない話だった。
「しかし、『箱庭』はまさにそれです。つまり自動車の例にたとえるなら、操縦者が自動車そのものになって走行するという、その一連の動きです。
自分の足を動かすということはすなわち、自分の体、つまり4つのタイヤを動かすことに直結し。左に曲がりたいと思うなら、自分の体、つまり車体を左へと曲げるという、ことを意味します」
タカダは、「つまり」という前置きのあと。
「自分の体がすなわち『箱庭』になるのです。『箱庭』の左手を動かしたいのであれば、自分の左手を動かせばいい。機械との同一化、それが『箱庭』の操縦方法です。
そして、それを実現可能にしているのが、神経リンクシステムです」
「…………」
「頭、手、足、頚椎のある背骨。各4つの部位と『箱庭』の機体を、神経伝達ケーブルが繋げ、パイロットの神経系をすべて『箱庭』に移すことによって、それが実現されます。
神経をリンクさせ、自身を『箱庭』だと認識できるようになったあとは、コックピットにある自分の体は単なる入れ物にすぎません。その最中では自分はあくまで『箱庭』の体であり、人間としての体は意識の外へともっていかれます。
と、まあ、このくらいでいいかしらね。こんな話、退屈なだけだし」
タカダの言葉の通り、巌はその話を、退屈そうに聞いていた。
その説明は、すでに授業の中で聞いていたものであり、というかすでに巌は『箱庭』と同化するという体験をすでにしているのである。
あの、自分の体が体長15メートルの鉄の塊になった時の感触。
視界は高く遠くまで見通すことができた時のあの感動。
さらには、自分の運動能力の上をいくまでの『箱庭』の性能。
それをあますことなく体験してきた巌にとって、タカダの説明は退屈以外の何ものでもなかった。
「あ、ここここ。この部屋でちょっとスキャンするから。入って入って」
廊下の奥まで歩き、階段を上り、関係者以外立ち入り禁止の看板を通り越したその先で、タカダが一つの部屋に巌を案内する。
なんの変哲もないような、壁一面を白色でおおわれた病室。
そこで目をつくのは、CTスキャンのように全身を調べることのできるような機械だった。
「じゃあ、そこに横になって。すぐにすむからね。あ、服とかは脱がなくていいから」
その機械に横になれという言葉。
それとともにタカダは、そのまま機械の横にあるコンピューターのところに陣取る。
巌は言われたとおりに、その機械に仰向けの状態で寝そべり、それと同時に機械が作動した。
寝そべった状態の巌の体の表面を、赤色の光線がくまなく這い回る。
ありがちな「ビー」という機械音とともに、その光線は巌の神経のすべてを調べ上げていた。
「というか、君の神経系のスキャンは、もっと早めにやっておかなければダメだったんだけどね。
知っての通り、『箱庭』は20歳以下の人間だったらそれはもう幼稚園生にだって動かせるんだけど、その人間の神経の配列具合だとか特徴だとかを隈なくチェックしないと、指一本動かせないんだから。
……ホント、いくらなんでも油断しすぎでしょうに」
「……でも、なんで20歳以上の人間には、『箱庭』は動かせないんでしょうか? 授業でその知識だけは学びましたけど、ちょっと原理が分からなかったんですが……」
赤色の光線が自分の体を調べ上げるのをそのままに、巌は、浮き島時代から疑問に思っていることを問いかけた。
研究機関を兼ねるこの医療所の医師であるならば、その辺のことを分かりやすく教えてくれると思ったのだ。
しかし、タカダから返ってきた言葉はといえば、
「分からないわね」
「…………」
「勘違いしないでね。これは私個人だけが分からないってことじゃなくて、世界の学者連中全員が分からないっていうことだから。
仮説はいくらでもあるんだけどね……たとえば、神経系をすべて『箱庭』に移すというのは、年をとった大人には柔軟性が欠けるから不可能なのである、とか。まだ「自分」という確固としたものを持っていない若い子であるからこそ、神経系を無機質な鉄の塊に移すことができるのだ、とか、そんな仮説がね」
「は、はあ。でも、原因は今だに不明であると」
「そう、その通り……はい、終わり。もういいわよ」
タカダは目の前のキーボードを素早く叩くと、巌にこれで大丈夫とばかりに合図を送った。
巌は、随分と早かったなー、という感想とともに、その機械から起き上がり、そしてタカダと相対する。
「あ、あの。ありがとうございました」
「いえいえ、これは仕事だからね。そんなことで御礼の言葉なんてもらう筋合いはないわよ。
じゃあ、またなんかケガとかしたら声かけなさいな。私はずっと、死ぬまでこの医療所にいるからさ」
「は、はい。あ、ありがとうございました」
返事と共に、またもや律儀にあいさつをした巌は、そのまま部屋の出口へと歩いていく。
短時間の邂逅であったが、それでもカゼをひいた時に病院はどこにあるのかということを知ることのできた巌は、若干安心したかのような表情。
そして、部屋の出口まできた巌は、もう一度タカダに一礼。その部屋から出て行った。
カツンカツンという、巌の廊下を歩く足音。
それが静寂に纏わり憑かれている病院にあって、非常によく響いてくる。
カツン、カツン、カツン、と――――。
さらには、その足音が聞こえなくなったその時点。
その時になってようやく、タカダはその表情に変化をもたらした。
何かを吐き出すように、タカダは「ふうー」とばかりに息を吐く。
まるで、それまでは気を張った演技をしていたかのような、そんな様相。
現にタカダの顔には、疲れきった表情が浮かんでおり、自分の偽善に嫌気がさしているかのような感情が見て取れた。
「まあ、でも。知らない幸福は、そのままにさせときたいしね。こんなのは無駄だし、なんの意味もないんだろうけど……」
一人呟いたタカダは、白衣のポケットからタバコを取り出すと、無造作にそれに火をつけ、吸い始めた。
ニコチンのきついその銘柄は、一瞬にしてタカダの頭から思考を奪い取る。
自分への批判も、無力感も、今この瞬間にはなくなる。
これがタカダに許された、ただ一つの至福の時間であった。
◆◆◆
厳島巌は第13小隊弐番艦の予備パイロットである。
そして、予備パイロットは本パイロットと生活を共同するというのが、桜島にある古くからのしきたりだった。
はたしてその目的は、健全な魂を育成することにあるのか、はたまたチームプレーと助け合いの精神を高めようとしているのか。
その真意は計りかねるが、しかしこの決まりだけはなぜか、今まで守られてきたのだった。
おそらく、「最初に決められたことだから、とりあえずこのままにしておこう」といった惰性によるところも大きく関係しているのであろう。
とにかく、本パイロットと予備パイロットは、なんの例外を挟むことなく、同じ住居で起臥寝食をともにする。
男だろうが女だろうが一切関係ない。
桜島に古くから伝わる、純然たるルールが、そこにあった。
そんなわけで、寮である。
カネコと巌がともに共同生活を営んでいる、学生の身分にしては広いその居住スペース。
台所完備。
風呂完備。
勿論、トイレとお風呂は別々。
奥にはテレビを見るリビングがあり、その横にはベットが二つ置いてある寝室がある。
その寝室は広い面積をほこるリビングとどっこいどっこいなまでに広く、せまっ苦しいということはない。
そしてその寝室には、大きな二つの机まで完備されており、下手な一戸建てよりも便利で快適な住み心地を実現させていた。
そして今、その二つの机のうちの一つに座っているのが、巌である。
時刻は夜中であり、外はすでに暗闇。
巌の顔を照らしているのは、机に備え付けられている電灯と、そして現在起動しているデクストップ型のパソコンであった。
同室のカネコはすでに寝ているのか、ベットの上に横になっている。
カーテンで一応は、勉強部屋とベットルームを区切ってはいるが、それでも微弱ながら光は漏れているのだろう。
巌は、カネコに申し訳ないと思いながら、キーボードを打ち続けるのだった。
『でも、最初から想像していたけど、やっぱり僕が『箱庭』に直接乗るってことはないみたいだよ。僕、予備パイロットだし、本パイロットのカネコさんが体長不良で『箱庭』に乗れなくなった時だから、僕の出番は』
そこまで一挙にキーボードを打つと、そのまま『書き込み』と表示されている場所をクリックした。
パソコンの画面には弥生の姿が映っており、その下側にはメッセージボードがある。
巌と弥生は、チャットでもメールのやり取りでもないこの行為に、さきほどから精をだしていた。
最初のうちはパソコンを介してのテレビ電話だったのだが、カネコが眠るためにベットに横になったことを受けて、このようなやり取りを始めたのである。
弥生から離れて3日目。
桜島に来てからというもの巌は、毎日のように夜、弥生と連絡を取り合い、近況などを報告していた。
『…………それは重畳……でも無理しないで……島ちゃんが一緒に暮らしているっていう人は親切?』
弥生からの返答が、巌のパソコン画面上に浮かぶ。
それを見て巌は、少しだけ苦笑。
向こうもキーボードで文字を打っているのにも関わらず、律儀にも三点リーダー(……)を多用しているのだ。
何かそこにキャラ作りのいっかんがあるような気がして、巌は素直に可愛いなあという感想を抱いていた。
『大丈夫。カネコさんはとても優しい人だよ。でもまあ、会ってから3日目になるのに、まだ名字だけで名前は教えてもらっていないけど……』
それも付け加えるならば、名字さえ教えてもらっていないけど、ということである。
巌はカネコからまだ自己紹介をされていなく、彼の名前がカネコであるということも、この部屋の入り口のところにある名札に、『カネコ』とカタカナで表記されているのを見て、ようやく知ったという具合であった。
しかし、カネコからは悪意というものはまったく感じられない。
しいて言えば無関心であり、別に興味をもたれなくても、巌はまったく平気であった。
それどころか、かえって親しくされるよりはこちらのほうがいいのではないかとまで今では思っている。
人と付き合うのが苦手なのは巌もまた同じであり、それ故にカネコの態度にも不快感をまったく感じていないのであった。
「――――むう。あ、あ、あ、あ、あ。くそ。ヘビがいる。ここには鰹節がいるんだ」
ベットの方から声がする。
思わず巌は、そのベットのほうへと顔を向けた。
さきほど聞こえた声は、もちろんカネコの声で、それは寝言のようには感じられなかった。
つまり、今でもカネコはベットの上で起きているのであろう。
いや、好きで起きているのではなく、眠れないのだろう。
おそらく、自分のキーボードを叩く音とか漏れる光とかのせいで……、
『…………どうしたの?』
突然、巌が目線をベットのほうへと向けたのを受けて、弥生がキーボードを叩いた。
ディスプレイ上の弥生の表情には、心配そうな感情が浮かんでいる。
『カネコさんが眠れないみたいなんだ。弥生お姉ちゃん、今日はこの辺にしておこう』
『待って』
巌が文字を打ち込んだ次の瞬間には、弥生の文字がまた躍っていた。
何か重大な話があるかのような表情が、画面上から見て取れる。
『…………最後に驚かせようとしてたんだけど……私、明日、桜島に配属になった」
『え? それはどういう……』
『…………言葉通り……明日から、私、島ちゃんと同じ第13小隊の予備パイロットになった』
その弥生の言葉を理解した巌は表情を一変させ「やった」とばかりに笑顔を浮かべた。
そして、ジェスチャーとして、弥生に健闘をたたえるように、拳を画面上の弥生へと突き出す。
それに答えるのは、弥生の笑顔であり、彼女もまた巌と一緒に生活できるということを嬉しく思っているということが見て取れた。
『やったじゃん弥生お姉ちゃん。おめでとう!!』
『…………ありがとう……じゃあ、明日ね……お休み』
ばいばい、という言葉を言うような口元の動きとともに、弥生の姿がディスプレイ上から消える。
その、ディスプレイに映るのがメッセージボードだけになったあとでも、巌は「やった」とばかりに嬉しさを全身で表現していた。
まるで子供のようなはしゃぎっぷり。
しかし、それも無理もないということなのだろう。
なんと言っても、あの弥生がこの桜島に来るのである。
いくら強がりを言って気丈に振舞っているといっても、巌にも弥生と一緒にいたいという感情があるのは事実なのだ。
それがここ3日間。弥生と面と向かっては相対する事はなかった。
弥生の突然の報告に、心躍らないほうがおかしいといえた。
「―――明日昨日。ハンコがないんだ…………アー!!、ちくしょう」
カネコの声で、巌は我にかえる。
それと同時に、少しはしゃぎすぎたかもしれないという自責の念とともに、巌はパソコンの電源を落とした。
途端、真っ暗になる部屋。
巌は、あくびをこらえるような仕草をしながら、自分も早く寝ようと、ベットのあるカーテンの向こうへと向かう。
カーテンの向こうは静寂が支配しており、あらためて巌は、これではキーボードを叩く音でもうるさかったかもしれないと、自責の念にかられた。
あたりは暗く、カネコのベットのあたりを伺い知ることができなかったので、カネコが今どのような状態にいるのか分からない。
しかし、やはり一言謝ったほうがいいかな、という思いとともに、巌はカネコに対して謝罪の言葉を……、
「あ、あのカネコさん。すみませんでした。うるさくしちゃったみ……」
「なんでなんだよ!!!」
言葉の途中、突如としてのカネコの言葉。
さらには、その生身の体もまた巌の襟首を掴むために接近しており、突然の出来事に巌は、うわ、とばかりに短い悲鳴を漏らした。
薄暗い暗闇の中、巌のベットの上でカネコが巌の襟首をつかんでいる。
そのカネコの様子からは興奮しているということがすぐさま見て取れ、もう少しよく凝視するならば、その頬をつたう涙の跡にも容易に気付くことができるだろう。
静かに泣き、そして納得できないとばかりに興奮している様子のカネコ。
そこからは昼間の、無表情ですべてに対して無関心であるかのようなカネコの様子からは、まったく想像することができなかった。
「あ、あのカネコさん……どうしちゃったんですか?」
襟首を絞められている巌は、動揺している様子で言う。
なにがなんだか分からないといったその声色は、目の前にいるカネコの行動へ。
しかしカネコは、その巌の言葉に答えることもなく、自分自身の独白を行い始めた。
「なんで……!! なんでなんだ?」
繰り返す言葉に、はたして意味はあるのだろうか。
音量はそれほど高くはないが、その声からは絶叫のような気質を感じることができる。
そんな、カネコの言葉。
それは、巌に向けられているようで、しかし別の誰かに喋っているかのようだった。
錯乱しているわけではない。
確固とした意識は、ある。
げんにその瞳には、昼間では見ることのできない生気が浮かんでおり、本来のカネコの姿がここにあると言えた。
「なんで俺はこんなことやらなくちゃいけないんだ。死ぬのでもない。いや、死ぬのも同じか。自分が自分でなくなっちまう……意味なんて……俺がやる必要なんてまったくないじゃないか!!」
「カ、カネコさん?」
カネコの言葉はさらに意味不明なものに変わる。
それを理解できない巌は、ただただ困惑することしかできない。
目の前の……自分の襟首を掴みながら、昼間の様子からは考えられないような勢いでまくしたてるカネコ。
そこに何かの真実があるような気がして、巌はカネコが何を言おうとしているのかを真剣に探り始める。
「無駄……無駄無駄無駄無駄。所詮、なにもかも無駄で必要なくて、俺がやらなくても誰かがやるんだ。そんなのホントにただ無駄で必要なんかないじゃないか…………それに、恐い、恐いんだよ俺は。
なあおい。俺、昼間とか今とか、なんか変なこと言ってないよな。あんな……あんなほかの連中みたいな、そんな訳の分からないこと言ってないよな? 俺、まだ大丈夫だよな? おかしくなんてなってないよな? まだ、俺は俺だよな?」
泣きながらの言葉である。
不安と恐怖に怯えているかのように、カネコの独白は夜の静寂を打ち壊す。
まるで魂そのものに訴えかけるかのような、そんなカネコの言葉。
そこからは今のカネコの言葉が何かの悪ふざけでないことが見て取れ、巌はますます困惑するばかりだった。
「まだ……まだ俺は大丈夫だ。壊れてない。乗っ取られてない。そうだ。だってまだ3ヶ月しか経ってないじゃないか……まだ……まだ大丈夫。
まだ? そうまだだ。時間の問題だ……やめてくれよ。やだよ俺は。恐いよ。なあ、恐いよ。なあ、浩二……」
そこでカネコはハタと気付く。
目の前の人物が、自分の想定していた人間ではないことに。
それを認識したカネコの表情が、一瞬にして変わる。
驚愕から達観へ。
恐怖から無力感へ。
感情の迸りから無関心へ。
一瞬にして流れた思考と感情の数々は、もうあいつはいないんだった、という感情をもって終結する。
カネコにとって、かつて生活をともにした隣人は、今目の前にいる巌ではけっしてなかった。
カネコの顔には、昼間と同じような無気力と無表情が浮かぶに至る。
そしてその表情をもって、カネコは目の前にある巌の顔をみつめた。
ただ淡々と巌の顔を見つめるカネコの表情には、何か羨ましいものでも見ているかのような感じさえある。
人生の経験者である老人が、自分の孫を見るかのような、そんな眼差し。
その達観と渇望で彩られた感情は、当然に口にだす声色にも及んでいる。
「……お前は、知らないんだよな。幸せだ……うらやましいよ」
それだけ言ってカネコは、巌の襟首を離す。
もはや感情の昂ぶりもなければ、涙も流していない。
その様子は、完全に、昼間のあのカネコに戻っていた。
いや、昼間よりも尚、無力感に苛まれていると言ったほうが正しいだろう。
最後の防波堤が崩れたというか、残っていたすべてのエネルギーを使ったかのように、その背中には疲労が見て取れる。
そしてカネコは、ノソノソといった具合に、自分のベットへと戻っていった。
何を言わず、巌のほうを振り返ろうともしないで、カネコはそのままベットの中へ。
モソモソと入っていったカネコは、そのまま死んだように眠り始めた。
茫然自失といった状態なのは、巌のほうだ。
あたりには、さきほどまでとは比べようもない静寂がまい込んでいる。
周りには、暗闇と風のざわめき。
カネコのベットに入る衣擦れの音と、あとは無音しか聞こえなくなる。
そんな中で巌は、何がなんだか分からないという表情のまま、しばしの間ベットの上で固まったままだった。
(続く)