第一話
「…………私はあなたが憎い……ノア」
コックピットの中。
あとは神経系を『箱庭』に移すだけという段階まできて、弥生は言葉を漏らした。
かぼそい、今にも消えそうな音量の、いつもの声色。
その表情もまた、いつものように無表情で、巌がいなくなってからというもの、その能面には一層の磨きがかかっている。
弥生の目には光がなく、虚ろな眼で周りを見つめていた。
自分の周り、せまいコックピット。
金属の壁に、そして床を這う無数のケーブル。
弥生の目に飛び込んでくるのは、対地球同位生命体迎撃用の最終兵器、通称『箱庭』の内部構造だ。
『箱庭』のコックピットの中、じきに弥生の神経系のすべては『箱庭』にリンクされ、彼女は『箱庭』として地球生命同位体との戦闘に赴かなければならない。
弥生につなげられた各種の、神経伝達ケーブルは、すべて『箱庭』に接続済み。
頭と背中、手と足。
計4つの太いケーブルが、弥生の体と『箱庭』の機体とを繋げていた。
弥生は、見慣れた風景をもう一度見渡してみる。
せまい、コックピットだ。
体を動かすスペースもない、そんな場所。
操縦するという行為は必要ないのであるから、手足を動かせるだけのスペースもまた必要ない。
そんな人一人がようやく入り込める場所において、さきほどから弥生は、無表情ながらも呪詛の眼で『箱庭』を見つめている。
「…………私だけの島ちゃん……勝手に奪って……連れてくなんて……アレは島ちゃんじゃない」
弥生とて、『箱庭』に向ける言葉が無駄であることなど分かっている。
知能どころか、この機体単体だけでは動くこともできない代物。
全長15メートルの鉄の塊。
それには人間という供物が捧げられない限りは、ただそこにあるだけの鉄クズに過ぎなかった。
「…………返して……島ちゃんを返して」
珍しいほどに、感情のこもった声色。
いつものような消えそうな小さな声も、巌が絡むと、そこに激情をともすのは相変わらずか。
しかし、感情を高ぶらせるのも一瞬のことである。
次の瞬間には、いつものように冷たい無表情を顔に浮かべるに至る。
そしてその瞳には、虚ろな眼差しにブレンドされた、達観した何かが浮かべられていた。
「…………無駄……そう、無駄」
何かを諦めるように息をつく弥生。
諦める……いや、もはや彼女は、すでにすべてを諦めている。
「無駄。無駄……無駄…………島ちゃん。私、島ちゃんみたいにはなれない……お姉ちゃんなのに……私」
呟いた言葉は、狭いコックピットの中で反響し、微妙な音のズレをもって弥生の耳に飛び込んでいく。
弥生はまだ『箱庭』と同化してはいないので、反響が響くのは人間としての鼓膜だ。
しかし、自分の体に神経伝達ケーブルが装着され、まるで本当に機械の体になったかのような現状からすると、そんなことはどうでもいいのかもしれない。
げんに、弥生が反応したのは、そのようなことではなく、自分の口にした言葉だった。
お姉ちゃん。
自分の役割。
巌との関係を如実に表すその言葉。
そんな自虐的な言葉に、弥生は珍しいことに、自笑するように笑みを浮かべた。
「…………お姉ちゃん……最初はそうだった……でも最後には……」
言葉とともに思い返すのは、まだ浮き島に来ていなかった頃の思い出。
『箱庭』に乗ることもなく、巌が自意識を残していた頃の記憶だ。
東京で、2人でもたれ合いあいながら、なんとか精神の安定を図っていたあの頃。
邪魔ものなどいなく、そこにはただただ2人きり。
巌という存在を独占することのできた、そんな時間。
その時間が、弥生にとっての最上の、ひとときだった。
しかし――――。
「…………『箱庭』乗りになるって……反対しておけばよかった……」
弥生の記憶は、その最上の、ひとときから少し未来へと移行する。
そう、あの日々。
巌が『箱庭』のパイロットになりたいと言ってから始まった、あの時間。
東京から浮き島へ。
訓練に明け暮れ、そして桜島で過ごした、あの時代。
弥生が思い出すのは、浮き島へとやってきて、『箱庭』に関わり始めた頃の記憶だった。
「…………島ちゃん」
物語は。2年前に遡る。
/アナザー
すべての行為に、意味などない。
――――平成38年4月3日。日本、浮き島。
◆◆◆
現在進行形で授業が行われている、一つの教室があった。
なんの変哲もない学校の教室。
古ぼけてはいるが、まだまだ現役をはることのできる校舎。
時刻が日中ということもあって、そこには当然のように生徒の姿があった。
生徒達は椅子に座り、教師が板書する文字を、ひたすら自分のノートへと書き写していく。
30人ほどが集まっている教室。
生徒達はそこで、椅子に座り、机にもたれかかり、熱心な様子でシャープペンシルを動かしている。
そんな、春の午後の授業風景。
それを束ねるのは、妙齢な女教師だ。
「はい、じゃあ次の人。教科書124ページから」
指定を受けた生徒が、おもむろに教科書を持ちながら立ち上がる。
その教科書の題名には、『地球同位生命体概説』とあった。
4月ということもあって、春の陽気が教室に差し込んできている。
ポカポカと温かい空気が漂い、遠くからは波の音と、うみねこの鳴く声が聞こえてきていた。
大自然に囲まれている、ここ浮き島。
その丘の上にある校舎にて、この授業は行われていた。
「えーと……地球同位生命体が現れたのは2017年。アメリカのミシガン州に、地球同位生命体のタマゴ、通称『ドーム』が現れ、そこから地球同位生命体が次々と生み出されていった。
地球同位生命体は地球上の生命を取り込み、その生命の身体をベースにして生成される。現在確認されているのは、『人型』『鳥型』『爬虫類型』の計3種類で、その全長はどれも15メートル以上である」
「はい、そこまで。これは今から8年前の話ね。補足しておくと、この『ドーム』がどこから現れたのかということは、現在でも解明されていません。アメリカのミシガン州はすぐに地球同位生命体に埋め尽くされて、ただの一度も調査することができなかったというのが、致命的だったわけです。
では、次の人。続きから」
教師の無機質な声が響く。
生徒を促す教師は、さきほどから生徒の方を見ようともしていなかった。
まるで、この場に生徒などいないかのように、ただ無機質に授業を進めている。
それはこの教師に限らず、この『箱庭』乗りの教育施設である浮き島に在籍する教師は皆、このような授業形態なのである。
慣れというのは恐ろしいもので、今では生徒の全員が、このような授業形態に疑問を挟むことはなくなっていた。
「アメリカ政府は、自国の威信にかけて、問題の解決へと乗り出したが、状況はかんばしくなかった。無尽蔵とでもいうべき地球同位生命体の数は、さらに増大し、次々にアメリカ全土を覆っていった。
2018年、一月。ファウラー大統領は、ついに原子力爆弾の使用を決意。核弾頭を乗せたミサイルは、同月ミシガン州に着弾し、『ドーム』は壊滅したかに思われたが、結局『ドーム』の一部を破壊するのみで、全壊させるには至らなかった」
「はい。この核使用の有用性には、現在でも疑問の声があがっています。正体不明の存在に対して、地球の尺度で考えるというのは、明らかに間違っていたのではないか。ということです。
げんに、核使用後の『ドーム』の働きは活発化し、地球同位生命体の生まれる頻度が高くなりました。そしてその結果が、というのがこの続きです。では、次の人」
「2018年、六月。アメリカ全土が地球同位生命体の勢力下にうつり、アメリカという国は世界地図から姿を消した。同年、12月、アメリカ大陸全土を勢力下におさめる。
この一連の動きによって、死者数は10億人を超すといわれている。今ではアメリカ大陸に存在するのは地球同位生命体だけであり、完全に人間は完敗するに至った」
「はいそこまで。今ので気をつけなくちゃいけないのは、別に地球同位生命体には知性はないということです。次々にその勢力をのばしていますが、地球同位生命体には人間を支配するという意思などありません。
彼らにあるのは単なる捕食願望。どうやら一番のお気に入りは人間のようだ、というのは前の授業でやりましたね。人間を食料とする、人間にとってのはじめての天敵なるものが現れたわけです」
その言葉にさえ、教師の声色には、無気力な感情しかこもっていなかった。
教科書に始終、目線をおとし、生徒のほうを見ようともしない。
まるでテープレコーダーのように、言葉を発しているだけ。
目は死んだ魚のように濁っているし、その表情には生者としての活力がまったく見ることができなかった。
そんな、やる気のないような様子で授業を進める、女教師。
しかし、授業を受けている生徒達は、それとは反対に、真面目な様子で授業を聞いていた。
女教師の言葉の内容にも、その場にいる生徒全員が、顔をしかめている。
どこからともなく現れた『ドーム』。
そしてそこから生成されるところの地球同位生命体。
その危害に遭ったのは、何もアメリカ大陸に住居を構えていた者だけではない。
日本人である彼らもまた、現在、地球同位生命体の侵攻に苦しめられているのである
だからこそ、彼ら彼女らは、こんなにも真面目に授業に取り組んでいるのだった。
「では、この単元の最後のところ……次の人、読んで」
「はい」
女教師の言葉に返事をした、厳島巌が立ち上がる。
その名前とは打って変わって、まだあどけなさの残る少年といった表情。
背も高くなく、中性的な顔立ちをした男が、教師の指定した文章を読み始める。
「そして現在、地球同位生命体は海を越え、ユーラシア大陸、オーストラリア大陸などに上陸。着実にその勢力下を増やし続けており、それは日本でも同じことが言える。
人間もまた『箱庭』の開発によって九死に一生を得た感はあるが、まだまだ劣勢なのには変わりがない。世界各地で、地球同位生命体との戦いは続いている」
その顔立ちに似合う、まだ声変わりをしてないような高い声だった。
舌ったらずなところなど、所によっては女の声なのではないか、と間違えてしまうような声色である。
身長は150cmの前半といったところ。
肩幅も狭く、その姿は「少年」と形容するのがよく似合うだろう。
15歳。
高校1年生である巌は、見る人が見れば下手をしたら小学生にでも間違われてしまうような外見と声帯をしていた。
「はい。『箱庭』についての説明は、その授業の中で説明されるので詳しくはやりませんが、教科書に書かれてあることが事実なのは、皆さんの知っている通りです。
そしてその『箱庭』に乗るために皆さんは自ら志願し、この浮き島に来たわけなのですから、その辺、常に意識をもって、授業に臨んでください。
では、今日はここまで」
丁度よく、4時限目の終了を知らせるチャイムも鳴った。
教師は、生徒の号令を待たずに、足早に教室からでていく。
その目には感情のこもっていない瞳。
女教師は無表情をもって、生徒の質問など受け付けないという意思を示していた。
しかし、そんな教師の態度など、生徒にとっては日常茶飯事のことだ。
現に、教室の生徒達は、そんなことなど構いもせずに、つかの間の休息、昼休みを堪能しようと開放感に満ち溢れていた。
「…………島ちゃん……いっしょにご飯食べよう……中庭、いつもの場所」
「うん、弥生お姉ちゃん」
中原弥生が、いつものように巌に声をかけた。
それに巌は、一にも二にも同意する。
そして、目の前にいる弥生のことをまじまじと見つめた。
弥生は巌よりも一つ年上で、巌とは年端もいかない頃からの幼馴染だ。
小柄な体躯と、長い黒髪。
巌も小学生っぽく見られるが、この弥生ほどではないだろう。
16歳。
高校2年生であるとは思えないほど、その体は成長していなかった。
「あ、でも。僕、今日のご飯買ってないから、途中で売店に行きたいんだけど……いいかな?」
「……うん。行こう」
弥生の言葉に、「よかった」と笑う巌。
二人は慌しい教室の中、中庭へと向かって歩き出した。
◆◆◆
伊豆諸島に浮かぶ、浮き島のすぐ隣には、桜島がある。
船で5分もかからないが、陸地続きではない、もう一つの島。
この、浮き島と桜島をあわせた2つの島が、関東圏を地球同位生命体から守る最前線基地だった。
日本にはこのような地球同位生命体迎撃用の基地が、10の数だけあった。
関東圏近海に二つ。
中部地方近海に一つ。
瀬戸内海に一つ。
九州近海に二つ。
中国地方近海に一つ。
北海道を囲むように三つのトライアングル。
そのうち、関東圏を担当する一つが、この浮き島と桜島なのである。
『箱庭』乗りになるための教育を施す浮き島。
実戦部隊の常住する桜島。
巌と弥生の両名は、その浮き島のほうに属しており、その教育期間の6ヶ月を過ごしていた。
桜島から欠員がでれば、すぐにでもお呼びがかかる位置に、巌と弥生はいるのである。
「でもさー、弥生お姉ちゃん。桜島に行く人ってどうやって決めるんだろうね。浮き島に今いるのは……200人くらいだっけ? その中から、どうやって選ばれるんだろう」
「…………分からない」
無邪気に聞いてきた巌に、弥生は無表情で答える。
その無表情に加えて、声にも感情が見られなかったが、これはいつものことである。
巌は、そんないつもの様子の弥生の姿を見るに、気分を害することなく言葉を続けた。
「まあ、僕には関係ないことだろうけどね。やっぱり、成績とかで決まるんだろうから」
「…………島ちゃんは、そんなに『箱庭』……乗りたいの?」
「そりゃあ、乗りたいけど……ダメかな?」
いちいち、自分の意見に同意がないと気がすまない巌であった。
その同意をいつもあげるのが弥生の役目であり、それでこそ相互に依存しあった関係なのだといえるのだが、さきほどの巌の言葉には、弥生は賛成しかねていた。
それは、巌が『箱庭』乗りになりたいと言ってきたことについても。
6ヶ月前。
突如として巌が、『箱庭』乗りになりたいと言ってきた時、弥生は心底驚いたことを今でも覚えている。
自分の意見はけして言わず、何かの行動を起こす時も他人の承認がない限りは一歩も動けないような男の子。
そんな存在が、自分で自分の意見を表明したのである。
世間一般からいえば、独立への第一歩。これは歓迎することはあっても邪険に思うことはないだろう。
しかし、その成りたいものが、『箱庭』のパイロットだというのであれば話は別であった。
確かに『箱庭』というのは今の全人類の希望の星であり、あこがれている者も多くいることは確かだが、その仕事柄、当然に危険も多いのである。
いつ死ぬかも分からない『箱庭』のパイロット。
その戦死者数は、途方もない数であり、一度『箱庭』に乗ったら、生きて帰れないとまで言われていた。
だからこそ、『箱庭』乗りの募集は年中無休で行われており、それ故に巌のような人間でも試験に合格できたのである。
「……ダメじゃない……けど、危ない」
無表情に呟く弥生であったが、その雰囲気には心配そうな空気が流れていた。
そんな弥生の様子を見て、巌は取り付くかのような微笑を浮かべる。
心配ないよ、とでもいうような、そんな表情を。
「だから、大丈夫だよ、弥生お姉ちゃん。そりゃあいつかは乗るんだろうけど、それはまだまだ先だよ」
「…………なら、安心」
弥生の無表情に、安堵の感情が現れる。
それを見て巌は、少し納得いかないような感じを受けたが、それを自分の思いの中だけでとどめていた。
――――そりゃあ、僕は頭もよくないし、運動神経だってよくないけど……。
それでも『箱庭』に乗ってみたいという思いだけはある巌だった。
初めて自分の主張をここまで通してきた。
いつもいつも、弥生の承認機関にすぎなかった巌が、初めて自分の意見を表明したのが、この『箱庭』のパイロットになりたいという事なのである。
そんな巌が、できることならば、『箱庭』に誰よりも早く乗りたいと思うのは、至極当然ともいえた。
「…………島ちゃん」
物思いにふける巌の横で、声がした。
巌が急に黙ったことに何かを感じ取ったのか、弥生がおもむろに箸を持ち上げ、そして巌に話しかけていた。
「…………島ちゃん……あーん」
弥生は弁当箱の中の卵焼きをつかみ、それを巌へ食べさせようとしている。
箸には卵焼きがつかまれ、それが巌の口の前で停止している。
もちろん、「あーん」というのは、食べさせやるから口を開けろという意思表示だ。
「な!? ちょ、ちょっと弥生お姉ちゃん、ここ学校だよ? 誰が見てるのかも分からないのに……」
「…………あーん」
有無を言わせない雰囲気。
気弱な性格の弥生がここまでするなんて、おそらく、彼女を知っている者なら驚くことだろう。
消極的で、あまり周りとは打ち解けることのできない弥生。
彼女がこのような大胆な行動をとれるのは、巌の前だけだった。
「あ、あーん」
弥生にそこまでされては、巌が断れるはずがない。
おずおずといった具合に巌は口を開け、そのわずかな隙間にすべらせるかのように、弥生は卵焼きを巌へと食べさせる。
「…………おいしい?」
「う、うん……美味しいよ」
巌の言葉に、よかったとばかりに、一瞬だけ無表情を笑みへと変える弥生。
その表情を見て、巌は自分の頬が赤くなるのを感じる。
――――やっぱり、笑ってるほうが可愛いよなー、弥生お姉ちゃんは。
その内心の思考を読まれないために、巌は赤い顔のままに、横を向く。
頬をポリポリと掻きながら、浮き島に佇む雄大な自然を眺め始めた。
巌の眼前。都会では見ることのできない、人工物のいっさいない、天然の自然が広がっている。
春になったということもあって、そこにあるのは生命の合唱団だ。
緑たゆませる若々しい木々。
それが巌と弥生の周りを取り囲んでおり、少し暑いくらいの日差しから2人を守っていた。
芽吹いたばかりの若葉の隙間から、太陽の光が地面を照らしている。
小さな小さなスポットライト。
それらの影と光のアンサンブルが、見る者の心を癒すのは間違いないだろう。
肌を揺らすのは心地のよい春風であり、優しい匂いを運んできてくれている。
すうー、と息を吸い込むと、まるでバニラアイスを食べた時のような風味が、口の中に広がった。
空気に味がある。
見渡す限りの大自然。
文明の香りなど、自分達の通っている学校と寮以外には何もないような、そんな場所。
そのことを再確認した巌は、6ヶ月前まで住んでいた東京との違いを思い返し、リラックスするように息をはいた。
そして、まるで愛しいものでも見つめるかのような、そんな満ちたりた表情を、眼前に広げる。
「…………島ちゃん?」
どうしたの? とばかりに首をかしげる弥生。
それに対して巌は、いやさ、という前置きのあと。
「東京と違って、ここはいい所だな、って。ゆっくり空気が流れてるっていうか、そんな感じでさ」
「…………うん」
巌の言葉、それに対して弥生もまた同じような感想を持っていた。
2人とも、東京にはあまりいい思い出がない。
まるですべての存在が自分を生きたまま殺そうとしているのではないかという雰囲気。
それに対して抵抗するように、巌と弥生の2人は一緒に生きてきたのである。
幼馴染というものが、高校生になっても続いているというのは、ひとえにその相互依存関係故にだろう。
「じゃあ弥生お姉ちゃん。もうそろそろ校舎の中、入ろうか。あとちょっとで予鈴が……」
巌の言葉の途中、それを途切れさせたのは、校舎のほうから流れてくる、館内放送を告げる音楽だった。
スピーカーから聞こえてくるのは、無機質な、余分な感情を差し込む余地のない機械音でる。
そして、その告げられている言葉の内容というのは、
『次に読み上げる者は、至急、理事長室まで来るように……厳島巌。厳島巌は、至急、理事長室まで来るように。繰り返す。厳島巌。厳島巌は至急……』
その言葉の内容を聞いた巌は、ビクっと体を震わせた。
突然の呼び出し。
このような事態に不慣れな巌は、不安気な表情を形成するしかない。
その表情のままで、巌は弥生に助けを求めるように、
「な、なんだろう。僕、何も悪いことしてないけど……」
オドオドとうろたえ、どうすればいいのか分からないというように右往左往し始める。
その様子は、ただただ滑稽なものであり、見る者をイラつかせるのに十分な醜態だった。
しかし弥生は、そんな巌を安心させるように、若干、優しい感情を入れた声色で、巌に話しかける。
「…………大丈夫……心配ない。とにかく行ってみよう?」
「う、うん」
パタ、という具合に、弁当箱を閉じ、準備万端な弥生。
そのままの勢いで弥生は、まだオドオドとしている巌の手をとって、理事長室へと急ぐのだった。
◆◆◆
巌を呼び出す館内放送から、5分後。
2回のノックの後、理事長室に巌が入ってきた。
はたから見ているだけで、過剰に緊張していることが見て取れるような、そんな様子。
さきほどまでのオドオド具合はナリを潜めているが、それでも尚、それが高校1年生の態度ではないことは確かだった。
まるで、保護者の手から離れた、甘えた幼稚園生。
一目見て抱く印象はそれであり、この第一会議室にいる大人たちもまた、そのような感想を抱いていた。
「し、失礼します。厳島巌。ただいま参りました」
「やあやあ、よく来たね。まあ、緊張しないで、ちょっとそこにかけなさい」
「は、はい」
ぎくしゃくとした動きを見せる巌に対して、初老の老人……教育施設の理事長が着席をうながす。
それにならって、やはり緊張した面持ちの巌が、言われるままにその椅子に着席した。
理事長は高価そうなソファーに座っており、巌の座っている椅子はその前方。机をはさんだ所に配置された、クッションのしいてあるパイプ椅子だった。
理事長室といっても、それほど広い部屋ではない。
ましてや周囲は本棚で囲われているので、その印象は理事長室というよりは書斎と言ったほうが正しいだろう。
そんな、浮き島教育施設の理事長室。
そのソファーに座っている初老の理事長の他にも、この部屋には一人の人物がいた。
中年らしき大人が一人、巌の目の前の椅子に、冷たい表情をしながら座っている。
「いやなに。今日はお説教ではなく、めでたい話なんだ。心配はいらないから、君も少しはリラックスしてはどうだね?」
ニコニコと、まるで能面のような笑顔を浮かべながら、理事長は話す。
顔の筋肉が、『笑顔』という表情を作っているに過ぎない、そんな人工物に溢れた笑顔。
それはこの理事長の目の奥を覗けばすぐに分かることで、その黒い2つの瞳は、輝くこともせずにそこにあるだけだった。
「は、はい」
しかしそれを巌は見抜くことができない。
巌はただただ、理事長の言葉にホっと息をついているだけだった。
めでたい話、という理事長の言葉を受けて、とりあえず安堵した巌。
そんな巌は、若干緊張をほぐし、理事長と中年の男と対峙した。
「それで、そのめでたい話というのはね……うん、ここからはヒョウドウ君のほうから話してもらったほうがいいかな」
「はい」
言葉を振られた中年の男……ヒョウドウは、そっけなく答えた。
まるで浮き島にいる教師よりも、無関心と無表情というのを絵に描いたような男。
ヒョウドウの風貌は、背が高く、少しやせ気味といったところか。
眼光だけが鋭く、それが無表情な顔に一つの印象深さを与えている。
無機質といった感じのヒョウドウ。
その雰囲気全体が、この男には人間味というものがないのだということを教えてくれていた。
そしてその冷たい目線と声色をそのままに、ヒョウドウは巌に向かって言葉を投げかけた。
「ゲンジマイワオ、お前は明日づけで、桜島13小隊弐番艦の予備パイロットに配属になった。明日、0600時に船が港に迎えに来る。荷物をまとめ遅れないように集合しろ」
ヒョウドウの言葉に、巌は反応できなかった。
その言葉の意味は分かっている。
自分が何を言われたのかは分かっている。
簡単なことだ。至極簡単なことだ。
つまり自分は『箱庭』の予備パイロットに選ばれたということ。
明日になれば桜島に出向することになるということ。
言葉の意味は分かる。
だが、それがなぜ自分なのかという理由については、まったく理解ができなかった。
場に一時の静寂が訪れる。
その静寂の中、動きを見せているのは、初老の理事長の能面のような笑顔だけだった。。
気持ちの悪い、目がまったく笑っていない『笑顔』を、さきほどから巌に対して送り続けている。
「返事はどうした」
「え? あ、は、はい。了解しました」
我に返った巌は、それでもなんとか敬礼して見せた。
それを見て、ヒョウドウはなんのリアクションも返さない。
代わりに動いたのは理事長であり、その『笑顔』をそのままに、巌に対して話しかけた。
「ああ、もういいよ、ええと……イワオくん。退出してけっこう」
「は、はい。失礼します」
興奮そのままという具合に巌は返答し、そのまま理事長室からでていく。
退出したことを確認したヒョウドウもまた、理事長に対して一礼をして部屋からでていった。
残ったのは、初老の老人ただ一人。
蛍光灯の照らす中、理事長は机にヒジをつけながら、いつまでもニコニコと『笑い』続けるのだった。
◆◆◆
ドアの閉まる音を背に、巌は理事長室の前で待っていた弥生と対面した。
無表情ながらも心配そうにしている表情を見ると、巌はなんともいえない感情を胸に受け、ブイとばかりにブイサインを繰り出した。
「やったよ弥生お姉ちゃん!! 僕、桜島に行けるんだ!!」
「…………え?」
いきなりの言葉に、それがどういう意味なのか分からないという表情を浮かべる弥生。
そんな事とは露とも知らず、巌はただただ嬉しさを全身で表現するだけだった。
「自分でも信じられないよ。こんなに早く、『箱庭』に乗ることができるなんて……すごい……すごい嬉しい!!」
「…………島ちゃん。それってどういう……」
その時、巌の背後の理事長室のドアが開いた。
そこから出てきたのは、さきほどまで巌と相対していたヒョウドウだった。
「―――あ」
無表情で巌と弥生を見つめるヒョウドウ。
巌は、恥ずかしそうな表情をつくりながらも、そのヒョウドウに対して言葉を創る。
「あ、あの。僕、頑張りますから。明日から、よろしくお願いします」
顔は赤く紅潮し、勢いよくおじぎをしながらの言葉。
弥生に負けず劣らずの消極的な巌が、このような態度をとるとは、それだけ『箱庭』に乗れるのが嬉しいのであろう。
その様子は、普段からは考えられないような浮かれ具合だった。
「…………」
言葉を向けられたヒョウドウは、しかし無言。
無表情そのままに、巌と弥生を一瞥しただけで、颯爽ときびすを返した。
そのまま、カツンカツン、という足音を残して、廊下の向こうへと消えていく。
「頑張ります。頑張りますから」
その消えていく背中に対して、巌は声をはりあげていた。
いつまでもいつまでも「頑張ります」という言葉を連呼する巌。
それを見て、弥生の表情には心配気な感情が浮かぶ。
一連の流れを見て、弥生にも巌の言っている言葉の意味が分かったのだった。。
つまり、
巌が、
一人で、
先に、
桜島で、
『箱庭』に、
乗るということ。
「…………島ちゃん」
「ん? どうしたの? 弥生お姉ちゃん」
「…………島ちゃん……分かってる? 桜島へは一人で行くんだよ?……一人で」
「――――あ」
今更ながらその事実に気付いた巌。
一人で行くということ。
弥生と離れ離れになり、たった一人で桜島に行くということ。
幼稚園の時分から常に一緒であり、相互に助け合うことによって、精神的な苦痛をなんとか回避してきた。
それはつまり、2人で1人。
もはや自分の半身とでもいうべき存在。
その存在と別れを告げ、自分は桜島へと行こうというのだ。
普段の巌であれば、そのようなことは考え付くまでもない愚考であり、弥生と離れ離れになるなどという選択肢を選ぶことは考えられないのであるが。
「で、でも。パソコンでテレビ電話できるし……うん、僕、毎日電話するよ!!」
「…………」
巌の言葉に、表情の中の感情がすべて凍結したかのような弥生。
裏切られた、というのは語弊があるだろうが、弥生はそれに近い思いを抱いていた。
「ああ、やった。『箱庭』……よし!!」
『箱庭』に乗れるという『快』が、弥生と別れるという『苦』の感情よりも勝っていた。
それ故に巌は、弥生の悲しそうな無表情に気付くことができず、子供のように振る舞い続けるのだった。
それを見つめ続けるのは弥生の表情。
そこには、さきほどまでの負の感情ではなく、わが子を心配する母親のような表情が浮かんでいた。
(続く)