光と影(3)
太陽が真上から街を照らす、少し春風の強い土曜日の正午。
いつもの道を一人で歩きながら、何となく辺りを見渡す。
昨日の帰り道、達也は「土曜日も学校かよ」と文句を言っていたけれど、
吹奏楽部で通い慣れている自分にとってはどうという事はない。
同じく学校に向かっているはずの達也の姿を思わず探してみたが、
彼は見当たらない……代わりに、洋次が前を歩いていた。
僕は話しかけるかどうか迷ったが、洋次が振り向いて目が合った。
「お、テル!お前も部活なんか?」
「まあね~。土曜日に会うなんて、珍しいね~。」
何となく話しかけるのを迷ってしまった事を追及されるかと思いきや、
洋次はニコニコといつもの笑顔で立ち止まり、僕が横に並ぶのを待った。
彼の短髪をなでた風が、風下の僕の所に吹き付け、
爽やかでちょっぴり汗臭い、いつもの匂いがした。
「吹奏楽の時は、テル朝練が多かったもんな!」
「そうだね~。軽音がこれからどうなるか、分かんないけどね~。」
「これからもタイミングが合うと良いけどな!」
明るく笑う洋次の横で、僕は少し落ち着かない気持ちだった。
――洋次とは長年の幼なじみの関係だったけれど、
あるきっかけから体の繋がりを持つようになり、
それからお互いの気持ちを自覚して、お付き合いを始めた。
実は二人っきりで会話をする機会の少なかった僕らは、いや僕は、
こうして二人横に並んで話すときに、どうしても緊張してしまう。
毎朝学校に通う時は、達也が居て、何かしら話題を提供してくれる。
デートをする時は、洋次の家に行くことが多いから、
勉強をしたり、……身体を重ねたりしていれば、話すことはあまりない。
洋次がどう思っているかわからないけれど、僕は緊張していた。
「軽音楽部はどうなんだ?吹奏楽と比べて……まだ分かんねえか。」
「そうだね~。……面倒な上下関係が無いだけ、楽だと思うよ~。」
ぐいぐい踏み込んでくる奥野の事や、すかした雰囲気の織田の事など、
ここで洋次に説明する必要は無いかと思い、
せっかくの質問に、それだけしか答えられない自分が嫌になる。
通学路の途中の大きな木の下に、木陰が出来ていた。
この時間帯だと、影はとても小さいけれど、
その中で木の葉が舞おうが、虫が這おうが、何も分からないほどに、
暗くて、深くて、全てを覆い隠すような黒さがそこにはあった。
「なあテル、明日の約束覚えてるか?」
「……あ、うん、覚えてるよ~。」
前髪を弄る。正直に言うとそれはたった今思い出した。
いつも家で会うのはやめて、天気の良い日にはなるべく外に出る事になり、
少し足を伸ばした先の動物公園に行くことになったのだった。
「楽しみだな!たまには出かけるんも良いだろ。」
明るい表情でそう言った洋次の顔を、僕は直視することが出来ない。
また何か話す事があるか、話題が途絶えないかが心配だし、
三月末に春休みの宿題を訊きに行ったとき以来、
僕は洋次に――抱かれていないのであって、
少しずつ彼の中で、僕に対する興味が薄れているのではないか、
という不安が、僕の心の影で、少しずつ大きくなり始めていたのだ。
校門をくぐってすぐ、門から一番近い東校舎が見えた。
「部室は東校舎だから、行くね~。」
「あ、おう!また明日な!」
いたたまれなくなった僕は、洋次が答える前に駈け出して、
その視線からわざと逃れるようにして、東校舎の下駄箱へと走った。
慌てて入った校舎の陰は涼しくて、何もかも忘れてしまいそうだった。
○ ○ ○ ○ ○ ○
「達也なら、正にギターコード教わってる。」
「あ、うん~。」
着いた瞬間に、入口でセッティングしていた織田から、そう言われた。
別に達也にそこまで興味は無いけれど、と思いながらも、
真顔で一生懸命になって、奥野から弾き方を教わる達也の姿を目視した。
ちょっと早く来て自主練……いや、強制的に練習させられているのだろう。
ところで、達也はわざわざギターを買ったのだろうか?
部屋の中には、他に野上が居て、自分でアンプを繋いでいた。
経験者の野上や奥野が楽器を持っているのは分かるが、
織田のドラムや、それから既に置いてあるキーボードはどうしたのだろう。
「この辺の楽器ってどうしたの~?」
「ああ、ちょっとしたツテがあってな。ほとんどが借り物だ。」
「ふ~ん。」
織田は、奥野に協力する形で始めたものだと聞いていたけれど、
楽器を借りてきたとなると、協力という段階を超えているとは思う。
……「ちょっとしたツテ」が何なのかは、気にしない事にした。
僕はキーボードの前に立つ。ピアノをやめてから三年が経った。
でも長年、半ば無理矢理やらされてきたピアノの知識が消えることはなく、
先ほど手渡された楽譜を、初見で何となく把握することは出来た。
キーボードは鍵盤が軽くて楽だ。力の弱い僕でも、大きな音が鳴らせる。
真横でベースの音が鳴り始めた。
野上が譜面を見ながら、黙って練習を始めている。
僕も何ら興味は無いので、目の前の譜面を両腕に叩き込むことに集中した。
しばらくすると、背後で爆音が鳴った。
それはドラムの音で、織田が腕ならしに叩き始めたようだった。
初心者だと聞いていたが、彼のドラムさばきは圧巻で、
スティックを回しながら軽快に鼓面を叩いている。
「あれえ、織田君すごいねえ。初心者じゃなかったっけえ?」
野上が耳にまとわりつくような、特徴的な声で問い掛ける。
織田はドラムを叩く手を止めぬまま、彼女に応えた。
「ああ、参考動画を一度見て覚えた。大体こうすれば良いんだろ?」
「すごおい!織田君って天才なんだあ。」
「……さあな。」
その会話を聞きながら、僕は自分の事を思い出したけれど、
初めてピアノを触ったとき、当然見よう見まねで出来るはずもなく、
退屈なレッスンと、嫌になる個人練習に時間を費やした。
一瞬で理解することなど信じられないけれど、他人は他人、自分は自分で、
人間の才能なんて不平等なんだから、それ以上詮索する気も無かった。
自分のベースの練習を再開した野上が、ほとんど弾けるようだったので、
僕こそ足を引っ張らないように、と思いながら自分も練習を再開する。
ブランクもあって時間はかかるけれど、月曜日までに形にはなるだろう。
すると一通り達也にコードを教え終わった奥野が戻って来て、
自分のギターを手にし、まさにロックバンドの様な出で立ちで、
超絶技巧のギターソロを弾き始めた。野上も僕も手を止めてそれを見る程だ。
……でも確かに、軽音楽部を開いたからには、これくらいじゃないと困る。
「よっしゃー!達也も順調そうだしー、何とか月曜日に間に合わせるぞー!ちょっと時間が経ったら通してみようぜー!」
「ちょ、ちょっと待てよ……えーっとDmが……」
万全に準備を整えている奥野に対して、一人苦戦している達也を見て、
自分ももう少し練習するか、と一度身体を伸ばして振り返ると、
中庭で走り込みをしている数人の陸上部員の姿が目に映った。
何を考えるでもなく、思わず洋次を探してしまったけれど、
雲のすきまから出てきた太陽の光が、僕の目をくらませて、
洋次を探すことを、あきらめさせた――。