雲居の月(1)
夢を見た――苦しい夢を。
もやがかかって視界が悪く、呼吸をするたびに意識が遠のいていく。
必死に、光の指す方へ手を伸ばすと、そこから誰かの手が降りてくる。
僕はその手を掴む……けれど、相手の姿は見えなくて――。
「ホラいい加減起きなさいって!和輝!」
気分が悪いのに、悪化させるような声で、僕はたたき起こされた。
枕元には、姉、和佳子が腕を組んで立っている。
いつの間にか、化粧品の嫌な匂いが部屋中に立ち込めている。
「せっかく朝ご飯作ってやったんだから感謝しなさいよ?あんたが遅刻するかしないかなんてどうでも良いけど。」
「……は~い。」
ドアを荒々しく開けて部屋を出ていった和佳子。
ベッドに座り込んだままで、僕は光の差し込む窓を見つめた。
……あれは、誰だったんだろう。夢の残光が、僕を惑わせる――。
○ ○ ○ ○ ○ ○
「ようテル。」
「おはよ~。」
雲が落ちてきそうなどんよりとした空。僕は達也と一緒に学校へと向かう。
よくよく考えれば、この習慣ももう無くしても良いものだと思うけれど、
達也は僕のことにあまり構わなくなった上に、
一人で考え事をしている時間もそれなりに長いから、
気を遣わないという意味では、楽に一緒に居られる関係に落ち着いている。
それに、洋次との件を一切触れてこない事からも、
達也の方からの気遣いのようなものを感じて、
やはり幼なじみはみんなそれぞれ、変わっていってるんだなと考えさせられる。
……僕も、思った事をもっと声に出してみようと思う。
「達也、変わったよね~。」
「へ?何がだ?」
「いや、なんか前はけっこう厚かましかったのにさ~。」
「厚かましいとは何だ。」
「最近はそうでもないっていうか、なんか気が楽だよ~。」
「ケッ、俺も色々あったって事だな、きっと……」
斜に構えているようなところは前と変わらないが、
いつの間にか、達也に前ほどの嫌悪感を抱いていない自分が居た。
こうして、幼なじみの関係なんて、少しずつ変わっていくものだ。
「変わったといえばテルもだろ?」
「……そうかな~。」
「そうだろ。前は訳分かんない感じだったけど、今は割と分かりやすいぞ。」
「う~ん、それって褒め言葉なのかな~?」
「言葉を変えれば、とっつきやすくなったんじゃないか?」
「どういう意味~?」
達也は僕の質問には答えずにケラケラ笑っている。
……分かりやすい、とっつきやすい、か。
それは大いに綿華と良助の二人によるところが大きいのだと思う。
思ってることをちゃんと言え、と別々に同じことを指摘されてしまって、
僕は、多少なりとも考えを改めることにした。
……結果的に、洋次とは離れ離れになってしまったけれど。
いま僕は、それなりに充実しているんだと思う。
思う、というのはハッキリとした感情が分かっていないからで、
自分で自分のことが分からないのは、不思議だけれど、
何事もそれなりに上手くいってる、そんな気はするから。
○ ○ ○ ○ ○ ○
「行くぜー!ロックフェスティバルだー!」
奥野がそう叫んだと同時に、ちょうど織田が鳴らしたシンバルが、
妙な効果を出しながら、叫び声と共鳴した。
言葉を返せなかった僕らの顔を順に見て、奥野はもう一つ叫んだ。
「ロックフェスロックフェス!なー出ようぜー!」
「何時何処で開催されるんだ?」
「7月20日に市内の野外ステージさー!まだ一か月くらいあるしー、バッチリ準備してガンガンかまそうぜー!」
NO、は受け付けない勢いで、奥野が騒ぎ出した。
いつも流されるがままの織田は、特に意思を表明することもなく、
くっきりとした彫りの深い眼でドラムの譜面をじっと見つめていた。
ようやくベースの音を止めた野上が、みんなの方を向いた。
「良いんじゃなあい?ゴールデンウィーク以来イベント出てないもんねえ。」
「そうだろー!せっかく練習してきた曲、披露しようぜー!」
「……お前らちょっと待て。確かその前日は期末試験だったと思うが。」
あからさまに手帳を開いてスケジュールを確認した達也が、
うっとうしい前髪を払って、冷や汗をかきながら恐る恐る言った。
奥野は一瞬考えるような仕草をしたが、すぐ笑顔に戻った。
「早めに準備して、乗り切ろー!」
「正どうせやらないだろ。」
「何だと直樹ー!?今回はやるしー!」
「確かに大変そうだけどお、本番は試験の後だから別に大丈夫よねえ。」
奥野、織田、野上の転校生集団はそこまで危機感もないようで、
達也は困ったような顔を僕の方に向けてきた。
「こりゃ、分かってくれるのはテルだけだな……」
「僕も出たいかな~。」
達也には悪いが、僕は素直に自分の意見を表明した。
口に出した瞬間に、奥野と野上には驚いたような顔をされたので、
僕はキーボードの鍵盤から手を離して、姿勢を崩して続けた。
「せっかくだし、特に予定ないから~。」
「よっしゃー!これで決まりだなー!」
「ちょ、俺の意見はムシかよ……」
舞い上がる奥野とは対照的に、達也は少し落ち込んだようだったが、
達也も心の底から反対している訳ではないだろうから、
軽音高二バンド「ファースト★スター」は、ロックフェスへの参加を決めた。
……せっかく自由になったんだから、色々な事をしてみよう。
それが、僕の素直な気持ちでもあった――。
○ ○ ○ ○ ○ ○
今日は、部室の鍵を返す当番だったから職員室に向かって、
それから教室へ。東校舎から南校舎、そして北校舎へと渡っていく。
北校舎に入って、下駄箱の前を通り過ぎる時に、
ちょうど学校についたばかりであろう、洋次一人の背中を見つけた。
特に何も考えずに、その横をさっと素通りしようとした僕だったけれど、
上履きを履いて顔を上げた洋次と、目が合ってしまった。
「……おっす、テル。」
「……おはよ~。」
それだけ簡単に言葉を交わし、立ち止まって待つのも変なので、
そのまま僕は洋次に背を向けて、階段を上がっていった。
当然、後ろからついて来る音は聞こえてこない。
別れたあの日から一か月が経とうとしている。
僕が手に入れたのは「自由」だった。とても、漠然とした「自由」。




