仄暗い胸懐の声その1
―――約1週間後。王都アンバルシア北区、赤鳳騎士団寮内
騎士団査定から約1週間後。王都に逗留していた騎士団の大半が、王都を離れてそれぞれが本拠とする領内へと戻るにつれて、王都を満たしていた熱気は徐々に落ち着きを取り戻し始めていた。赤鳳騎士団寮内でもそれは同じで、今日は騎士団査定の翌日から数えて2日目のオフを、それぞれが思い思いに過ごしている所だった。
このオフでもマテウスは、寮内で雑用をこなしながら過ごしていた。今行っているのは訓練用に使っている装具の整備だ。ここの武器庫には代表的な形式の装具が一通り揃っているが、どれも古いものばかりなので、整備が欠かせない。理力付与に不具合はないかどうか、理力倉との繋ぎ、その残量の確認など、安全に使う為には定期的な点検は必須なのである。
本来は使用者である騎士団の面々にやらせていい事柄ではあるが、彼女達はそれぞれ専用の上位装具を持ち、訓練の他にその整備にも追われているのだ。少しでもそれらに時間を割くべきだし、労を労う意味でのオフにまで手伝わせる必要もないだろうという考えから、マテウスが自ら引き受ける事が多かった。
そもそもマテウスは装具に触れている時間が嫌いではないので、こういった事を苦にも思わないのだが、今日に限っては居心地の悪さをずっと覚えていた。原因は、隣で背を向けて膝を抱えた三角座りをしているアイリーンの存在である。
長椅子に腰掛けるマテウスと視線を一切合わせようとせず、両頬を膨らませて、不機嫌オーラを漂わせ続ける癖に、彼の傍から離れようとしないアイリーンの存在に、マテウスは要らぬプレッシャーを感じていた。
勿論、彼女がこうなってしまったのには理由がある。赤鳳騎士団としての騎士団査定は約1週間前に終えてはいたが、アイリーンにとっての騎士団査定はまだ終わっていなかった。日程は後にも1日控えていたし、女王代行として、エウレシア王族からの労いの為に各騎士団の逗留地へと訪問したり、貴族同士の晩餐に出席したりと、多忙な日々を送っていたのだ。
そういった案件がようやく落ち着きを見せて、久しぶりに赤鳳騎士団の皆と過ごせると心弾ませていたのに、寮内に残っているのは他の作業に忙しそうなレスリーとマテウスだけ。彼女がレスリーの前で今と同じようにすれば、レスリーは気を使って作業の手を止めてアイリーンの相手をするだろうが、流石にそれは彼女の気も引けるようで……それ故に、遠慮せずに振る舞えるマテウスの横でこうしているのだ。
ようするに、誰にも相手にされずに拗ねてしまったのである。
こうした擦れ違いが起きないように、マテウスとしては事情を察して、彼女が騎士団に来る頃合いを見計らってオフを調整していたのだが、今回は偶然にも、彼女が我慢出来ずに事前の予定より早くこの場に訪れたのだ。巡り合わせが悪かったとしかいいようがない。
「……作業を手伝うか?」
「……」
「訓練でもするか? 作業しながらなら、見る事も出来るぞ」
「……」
とりつく島もないとはこの事である。やがてマテウスは手に負えないと諦めて、黙々とした作業に戻っていった。
一方そうして暫く後、アイリーンは引くに引けなくない状況になって困っていた。最初は怒っていたのは事実だ。だが、今となっては他の皆が余暇を自由に過ごしたいのも理解出来るし、マテウスとレスリーが赤鳳騎士団の為、ひいては自分の為に余暇まで使って作業してくれているのも理解出来ていた。
こうして黙ってムスッとした時間を過ごすくらいなら、今からでも仲直りして、用意していた沢山のお話をマテウスとしたかった。
(ごめんなさい、は変だよね。私、悪い事してないもの。でも、じゃあどう声を掛ければ良いのかしら? あぁー、マテウスの方からもう1回声を掛けてくれないかなぁ? そうしてくれたら、条件付きで許してあげても良いのに。もう1日ここで過ごしてもいいように、お母様に声を掛けてくれるとか……)
アイリーンはそうした取り留めのない思考に更けていたが、怒りから解放されて、日差しを遮る木陰の下で穏やかなそよ風に晒されている内に、普段の疲れが出たのかウトウトとし始めた。マテウスがそれに気づいたのは、彼女の背中が自らに触れるようになってからだ。
「アイリーン? 寝ているのか?」
マテウスはそう言って、アイリーンの身体を小さく揺らすが、彼女は目を覚まさずにその身体をマテウスへと預けるようにしてスゥスゥと安らかな寝息を立てていた。これでは作業の邪魔になる。
彼は少し考えた後、アイリーンの頭を自らの膝に預けさせて寝かせてやった。こんな場所で寝ると風邪を引くかもしれない、とも考えたが、この陽気であればその心配もあるまいと答えを出して、このままそっと寝かしておく事を選択した。
(この方が俺も気が楽だしな)
マテウスは、作業の合間にアイリーンの顔を覗き込んだ。フィオナとの会話で少し興味が抱いていたからだ。指先で手入れの行き届いた金糸のような前髪を払う。絹のように流れる様子は、根本からして自らと同じ髪とは思えない。先程までぷっくりと膨れていた頬を撫でると、押し返すような弾力がありながら、しっとりとしていて、赤子のように肌理細やかな感触が返ってきた。
瞳を閉じているから、その大きさとまつ毛の長さがより顕著になって分かったし、鼻筋から唇、そして顎に掛けてのラインも、小さな額の下に添えられた眉も、女神を模して造られたかのようだった。
(こうして見ると……印象はかなり異なる割に、本当に良く似ているな)
少しの間だけ、そうしてアイリーンに見惚れていたマテウスだったが、やがて作業に戻る。こんな場面を誰かに見られるのは、流石にバツが悪い。それに、今日は赤鳳騎士団にとって大切な来客を予定しているので、それまでに作業を終わらせておきたかったからだ。
それからまた、少しの時が流れた。マテウスが一通りの整備を終えて作業に一区切りを得た頃合いに、そろそろ起こそうかとアイリーンを見下ろしていると、正門付近からヴィヴィアナが見知らぬ女性と話しながら歩み寄って来る。
「あのさ……なんでこんな場所で手を出そうとしてんの?」
近づいて来たヴィヴィアナに、普段よりも増し増しに嫌悪感のこもった眼差しを向けながらそう告げられて、マテウスはなにを言わんとしているかを理解した。事実としては、疲れを覚えて眠ったアイリーンを寝かしつけているだけなのだが……傍から見れば恋人同士が外でイチャついているようにしか見えないのもまた事実であるという事に。
「いや、こう見えて喧嘩中なんだがな」
「は? なに言ってんの? お姫……じゃなくて、アイリ。起きなよ? こんな所で寝てると風邪引くよ?」
膝を落として、声色を穏やかなものに変えて、アイリの肩を揺らしながら、起こそうと声を掛けるヴィヴィアナ。それらの様子をどう声を掛けて良いものか……困った表情で見下ろす見知らぬ女性に気付いて、マテウスは率直に疑問を尋ねる。
「そちらの女性は?」
「あぁ、そうだった。門前でアイリの護衛に捕まってて、話を聞いたらオジサンに面会したいって言ってたから、私が案内してあげたんだよ」
「お初にお目にかかります。私、マードック商会傘下ヴァ―ミリオン社の営業部より参りました、ナンシー・ロウと申します。マテウスさんには、事前に書状でアポイントを申し込んでいた筈ですが……」
「あぁ、申し訳ない。マテウス・ルーベンスです。彼女の護衛には話を通してなかった。こちらの手違いで随分な手間を取らせてしまいました」
マテウスは、アイリーンが瞼を擦りながら頭を上げた事で解放された膝を使って立ち上がると、ナンシーと名乗る女性から差し伸べられた手を握り返して、軽い握手を交わした。