失われた軌跡その1
―――同日、数10分後。王都アンバルシア北区、赤鳳騎士団寮内、弓術訓練所付近
太陽が中天へ登るまで後少しといった程度の時刻。ヴィヴィアナの姿を探していたマテウスが向かった先は、弓術訓練所だった。マテウスには彼女がここにいるという確証がなかった為、駄目元ではあったのだが、どうやら彼は当たりを引いたようだ。
元よりこの場所はエウレシア騎士の性格がら、あまり使われずにほぼ寂れていた場所であったのだが、ヴィヴィアナが使うからとほぼ彼女の為だけに整備させた場所である。その甲斐あってか、口にはしないが彼女もそれなりにこの場所を気に入ってくれているらしく、よくここに通っていた事を思い出したのだ。
聞こえてくる軽快に走る馬の足音と弓矢が的を射抜いた音。マテウスが音の鳴る方へと近づいていくと、そこにはやはりヴィヴィアナの姿があった。彼女は騎乗した馬を走らせながら、弓を構えていた。的との距離は20m付近。馬を訓練所を横断するように走らせながら、並べられた的を次々と射抜いていく。
ヴィヴィアナは馬を1度止めて的を確認すると、少しだけホッとしたような自然な笑みを浮かべて、騎乗したままに馬の頬を撫でる。笑顔を作るのが苦手な彼女ではあったが、他人を意識しなければ、そういう笑顔も出来るようだ。そうやって少しだけ休憩を挟んで、今度は馬を逆走させながら的を射抜いていった。
マテウスが的に視線を送ると、そこには幾本もの矢が突き刺さっていた。それなりの時間、ヴィヴィアナがここで訓練をしていた証拠だ。フィオナの父親から馬を寄贈された時、彼女は馬には余り乗った事がないと言っていたのたのだが、今では騎乗する姿は様になっていたし、不安定な馬上からとは思えない程、精度の高い弓射が出来るようになっていた。
ヴィヴィアナはマテウスの存在に気がついていない。マテウスはそれを知りながら、的の横へと散歩をするような気軽さで歩み寄っていた。本来、弓の訓練中に的側から近づくなど御法度だ。しかし、彼はそれを知りながらあえてそうした。
訓練所の端から、折り返してマテウス側へと馬を走らせるヴィヴィアナ。彼女は次々と的を正確に射抜き、そして最後の矢を番えた時、的の横にマテウスの姿が突然現れて、心臓が跳ね上がる程に驚く。最後に放たれた矢は射るべき的から大きく外れて、地面へと突き刺さった。
「……なんのつもり?」
ヴィヴィアナは殺意までこもってそうな鋭い眼差しをマテウスへと向けながら、冷たく言い放った。マテウスはそれを気に止めた風もなく、真っすぐに視線を返しながら的向こうの外れた矢へと向かって歩いていく。
「すまない。君ならば、突然の事態を前にしても的を外さないだろうからと安心していたんだが……そうでもなかったようだな」
マテウスが歩いた先で矢を拾いながらそう言葉を返すと、ヴィヴィアナは不愉快そうに視線を反らして小さく舌打ちした。相変わらず嫌悪感を隠そうともしない態度だったが、最近はこんな姿を見せる相手は、騎士団内に限ればマテウスだけだ。
「それで? なんの用?」
「君に渡したい物があって探していたんだ。だが大した物じゃないし、訓練中なら終わってからでいいよ。続けてくれ」
マテウスはそう口にするが、言葉とは裏腹に的の横から動こうとしない。ムスッとした表情で彼が動くのを待っていたヴィヴィアナだったが、そうならない事に痺れを切らして声を上げる。
「オジサンがそこにいられると邪魔で、いつまでたっても始められないんだけどっ?」
「俺の事は気にするなよ。さっきは咄嗟だったから仕方がなかったとしても、君なら的を外すような事はないだろう?」
「なに言ってんの? 危ないでしょ、普通に」
「しかしだな。騎士団査定の時もそうだったが、射るべき的の傍には動く味方の背中がある……護衛が主任務になる赤鳳騎士団では、そんな場面がこれからも多くなる筈だ。屋内屋外問わず、乱戦でのサポートに回る事を想定すれば、動かない的が並ぶこんな場面ぐらいは容易にこなさないと、これから先が大変じゃないか?」
マテウスがそう告げると、ヴィヴィアナは鬱陶しそうな顔で押し黙ってしまった。それでも言い返そうとしないのは、彼女自身がマテウスの考えと同意見だからだろう。そう思うからこそ、オフであるにもかかわらず、彼女は慣れない騎射(馬上からの弓射の事)の訓練に励んでいるのだ。
「……そうかもね。でも、今日はもう上がろうと思ってたし、また今度でいいでしょ?」
「いや、駄目だな。せめて一矢でいい。これを射抜いてみてくれ」
「はぁ? どうしてそんな事……」
マテウスが隣に並ぶ的を叩く。そうした後も彼はそのまま動こうとしない。つまり的とマテウス……隣り合う程の距離で、的だけを射抜けと言っているのだ。その意図はヴィヴィアナにも伝わっているだろうが、矢を番える事すらせずに渋面でマテウスを睨むだけだ。
「どうした? 自信がないのなら、馬を走らせずにそのまま狙ってもいいぞ」
「……安い挑発。この距離で私が外す訳ないし」
そう言って馬上から弓を構えるヴィヴィアナ。彼女が万全の状態ならば、構えた瞬間に矢は放たれて、的の中央を射抜いていただろう。それはヴィヴィアナが構える前から狙いを定めていて、後の動作は身体が覚えるままに従っているだけだからだ。
しかし今日のヴィヴィアナは、構えから離れ(矢を放つ事)までの時間が異様に長かった。構えたまま一向に放つ気配はなく、心なしか弓を支える左手が震えているようにも見える。やがて、彼女は弓を下ろして額に滲んでいた汗を拭う。
「やっぱいいや。気分が乗らない。それに疲れたし今日はこれで終わり」
ヴィヴィアナはそう言いながら馬から降りて片付けをし始めた。的に刺さった矢を抜こうと歩き始める。
「別に馬上からじゃなくてもいい。自信がないならもう少し近づいたっていいぞ。この的に矢を当てて見せてくれ」
「しつこいよっ。今日はもう終わりだって言ってんじゃん」
「では、いつなら見せてくれるんだ?」
「はぁ? そんなの……訓練の時とか、色々だよ。別にいいでしょ。いつだって」
「いや、そろそろ誤魔化さずにハッキリしてもらおうか。一体いつからなんだ? 君が弓の調子を落としたのは?」
ヴィヴィアナは答えを返さずに、腰に下げた矢筒から矢を番えた。その流れるような動作には一瞬の乱れもない。何千何万と繰り返してきた動作に迷いなど生じる訳がない。
しかし、いざ矢を放とうとすると的よりもマテウスの姿が気になり、弓を支える左手に震えが生じる。だが、この距離ならば……と、それを無視して無理矢理に矢を放つが、放った瞬間にその結果がヴィヴィアナには分かってしまった。
「騎士団査定前の訓練では、的を射るだけだったな。陣を組んでの練習の際は、ワイルドバイソンを想定して動いているとはいえ、相手が俺だから弓を使わなかった。だからどちらでも問題が生じず、気づくのが遅れたよ。もう1度聞きたい。君は一体いつから、人に向けて弓を引けなくなったんだ?」
2人の視線は、マテウスからも的からも大きく外れて、地面に突き刺さった矢へと向いていた。ヴィヴィアナの顔はたった一矢を放っただけとは思えない程に青くなり、呼吸を乱し、顔じゅうに汗を滲ませていた。