偶には必要な事をその3
「偶には顔を見せろって言ったのは君だろ? 怒るなよ、ゼヴィ」
書斎の奥まった場所に長椅子を移動させて、2人並んで腰掛けるゼノヴィアとマテウス。ゼノヴィアの小脇に置かれた枝付き燭台の灯が揺らめき、マテウスに対してツンとそっぽを向いた彼女の横頬を照らす。
「確かに言いましたが、急すぎます。私だっていつもここにいる訳じゃありません。もし私がこの場に来れなかったらどうするつもりだったんです? それに他の者に見つかったら冗談じゃすまされませんよ? その上、こんな悪戯までっ……」
「連絡はしたぞ。女王特権を使って。今日は持ち歩いてないのか?」
「今日は……公務と議会に追われていたので、携帯してません。寝室……いや、自室の方に置いたままです」
「それなら、連絡の取りようがないじゃないか。それに相手が誰であるかぐらいは確認して仕掛けるから、安心してくれ。どんな暗がりでも、君を見違えるわけないだろう?」
「っ!? そうやって調子のいい事言って。いつも誤魔化されると思ったら大間違いなんですからねっ。来ると分かっていたら化粧だって落とさなかったし、ドレスももっと素敵なものを選んだのに……」
後半の独り言はマテウスに届いていたが、彼はそれを聞き流す。顔の小皺を気にして手で触れて、もう片方の手でドレスを押さえつけて乱れた箇所がないかを確認するゼノヴィアの姿は、マテウスには変わらず微笑ましく映った。
「……この臭いは?」
「気付いたか。ふかし芋だよ。君も食べるか?」
「結構です。それより、書斎に食べ物を持ち込まないでくださいと、何度も伝えたと思いますが……」
「見逃してくれよ。理由あって、夕食の途中で抜け出す事になってね。途中の屋台で買ったんだ。ここで食べなくては冷めてしまう」
腰に下げていた皮袋から取り出して、勝手にふかし芋を食べ始めるマテウスを見ると、ゼノヴィアにはそれ以上言葉を重ねる事を躊躇われた。もうっ、と小さく呟いて呆れた眼差しを送っていたが、ふかし芋から漂うバターのいい香りに鼻腔を擽り続けられていると、ぐぅ……と、腹の虫が鳴った。慌ててお腹を押さえて顔を耳まで真っ赤にしながらマテウスを見やるが、時既に遅い。
「なんだ。やはり君もお腹が減ってるんじゃないか。遠慮するなよ。少し多めに買って来たんだ」
「これは、その……なにかの間違いですっ。私は先程夕食を済ませてっ……」
ぐぅ。
「なんでっ!?」
「健康な証拠だよ。ほら、この量を残す事はないと思うが、俺1人で無理に詰め込むのは勿体無いだろう? まだ熱いから気をつけろよ」
そうして皮を半分ほど剥いたふかし芋を手渡されると、ゼノヴィアは不承不承それを受けた取った。気難しそうに顔をしかめているのは、まだ恥ずかしさで顔が赤くなっているのを誤魔化す為だったが、マテウスは当然それに気付いていて苦笑いを浮かべている。
ゼノヴィアは十分に冷ましてから、芋にかぶりつく。素朴で粗野な味付けだ。先ほど食べた夕食の味付けには遠く及ばない。しかし、美味で自然と彼女の喉を通った。そしてその一口が、あれ程萎えていた彼女の食欲を更にそそった。黙々と2人で食べ進めて、ペロリと平らげてしまう。
「不思議です」
「なにがだ?」
「あんなに食事が喉を通らなかったのに……義兄さんが馬鹿な事をして体力使わせるからですっ」
「俺の所為にするなよ。栄養が多めに必要な身体をした、君自身の所為じゃないか?」
「栄養って……」
マテウスがなにを言わんとしているのかが、初めは理解できなかったゼノヴィアだったが、すぐにその事に気付いて片腕で胸元を隠しながら、右手で平手打ちを放つ。マテウスはそれを、見向きもせずにあっさりと首を反らして回避した。
「予備動作が大きい。当てる気があるのか?」
「いやらしい発言は禁止ですっ」
「そうだな。それなら、そろそろ真面目な話でもするか。女王陛下殿?」
マテウスにそう切り替えされても、中々収まりがつかなかったゼノヴィアだったが、これ以上睨み続けても埒があかなかったので、仕切り直すようにマテウスから視線を切る。そんな彼女の横顔へ先に声を掛けたのはマテウスだった。
「議会。上手くいってないのか?」
「……ここで話した事は聞かなかった事にしてくださいね?」
それぐらいは心得ていると、無言で肩を竦めて見せるマテウス。
「大方の方針は定まりました。支援策とそれに対する資金投入の準備も形だけは……ただ、その行き先に問題が生じているんです」
「そこまで進んでいて、なにに問題が生じるっていうんだ?」
「教会がまだ動き続けているんです」
「……カナーンの残党狩り? いや、N&P社が行っていた、献金不正の件か?」
「カナーンへの制裁は大半を既に終えているので、後者になります。献金不正も教会に対する重大な背信。実際、既に関わっていたと見られる重要な幹部達が数人、その容疑だけで見せしめに火炙りにされています。これはエウレシア王国の法ではなく、神の裁量で裁かれる案件です。私達には手が出せない」
そう語るゼノヴィアの顔は渋く歪んでいた。火炙りという過激な処刑方法もそうだが、そこに至るまでに激しい拷問を受けた国民達を想って、どういう言葉を掛ければいいのか分からないからだ。
「相変わらずやりようが過激だな。まぁそれは分かるとして……それがどうして支援策の妨害に繋がるんだ?」
「もし、N&P社に献金不正の関係者が残っていた場合、それは教会に異端補助として捕らえられる可能性があるからです。教会が異端審問の全てを終えるまでは、動くべきではないと」
「それはまた、とんでもない日和見だな」
「そもそも、いち企業の問題であるならば、商会に判断を委ねるべきだという意見も上がりました」
「確かに……一理あるか」
商会が存在する大きな理由は、王国側からみれば国税を円滑に正しく徴収する為ではあるが、国民側からみればトラブルがあった時の支援を期待してのものだ。彼等は国税とは別に登録料として企業、または個人から、余分に料金を徴収しているのだから、それなりの働きを期待するのは当然の権利である。
ヴィヴィアナのような無登録者の営業妨害の排除に動いたり、企業間のトラブルの代理人として交渉の場を設けたりと、支援の形は多岐に渡る。その中に、今回のような経営が傾いた時の支援策や資金提供。行き場のなくなった労働者達への別の仕事の斡旋も、当然組み込まれていた。
「勿論マクミラン商会にも早急な対応を通達しました。しかし、静観の構えを変えようとはしません。理由は議会の保守派達と同じ。教会の活動が落ち着くまで、具体的な手を打つ気はないようです」
「同じ理由を挙げられては、強くは出れんか」
「だからといって指を咥えて眺めている訳にはいきません。王都ではまだ目立ってはいませんが、N&P社の主要な生産工場があった地域……特にラーグ領とバルアーノ領は深刻だと報告を受けています。浮浪者が溢れ返り始めているとか」
領内の事は領主の裁量に任せればいいというのがこの世界の一般的な思考だが、ゼノヴィアがそう割り切る事が出来ないのはマテウスもよく理解していたから、口を挟まなかった。そもそも浮浪者が他領に流れ着けば、他人事ともいってられるまい。
「集団の浮浪者か。税金も登録料も真面目に納めてきた彼等からすれば、商会からも、国からも見捨てられたようなものだ……暴徒と化しても不思議ではない」
マテウスの予想は、貴族達が聞けば鼻で笑うような話だろう。貴族は貴族以外を家畜と同程度の存在ぐらいにしか考えていない。豚や馬がいくら嘶いた所で、気にはならないのだ。同じように鼻で笑えるのであればどんなに楽だろうか……だが、そうはならないゼノヴィアは、強く唇を結んで、自らの至らなさに身体を震わせていた。