偶には必要な事をその1
―――夕刻。王都アンバルシア中央区、王宮内
「もういいわ。下げて」
「……お口に合いませんでしたか?」
女王ゼノヴィアは給仕に問われて、並べられた料理に目を落とす。一流の素材で一流のシェフが腕によりを掛けて調理し、その上で毎日ゼノヴィアの味覚に合わせて味付けを調整させてきた料理の数々。だがゼノヴィアは、そのどれにも半分ほど手をつけた所で止めていた。
「申し訳ありません。差し出がましい真似をしました。ただ、女王陛下におかれましては、最近お食事が余り喉を通ってないご様子。味付けに不都合があれば料理人に報告しますので、なんなりと私を通して……」
「いいのよ。味付けは良かったわ」
ゼノヴィアの無言を怒りと考えたのか、自らの不敬の理由を早口で捲くし立てる給仕。それに対して彼女はやんわりと答えを返す。彼女が押し黙っていたのは、勿論給仕に対して怒りを覚えた訳ではなく、食材に対して申し訳ない事をしたと思っていただけだ。
(あの時の私が見たら、きっと今の私を引っ叩くのでしょうね)
そして当時の事を思い出すと、当然思い出す義理の兄の顔。それだけで重く閉ざされているような心が、少し軽くなった気がした。変わったの料理ではなく、自身の体調。思い返すまでもなく原因は分かっている。連日の議会への出席だ。
「暫くの間は量を少なめに、喉の通りがいいものを用意して」
「お母様。お下げになるんでしたら、私が頂きます」
声を上げたのは、テーブル正面に腰掛けていたアイリーンだ。彼女の後ろに立つパメラが、アイリーンの貴族らしからぬ発言に片眉を上げる。給仕などは顔を青く染めた。
「王女殿下。料理が少ないとおっしゃるのであれば新しく作らせますので、少々お時間を頂け……」
「そう。お願いしようかしら。貴方、あの娘にこれを運んでくれる?」
「えっ!? しかし……か、かしこまりました」
毒見ならまだしも、手の付けられた料理を貴族に並べ直すような不敬、給仕にとって初めての経験だったので、恐れ多く、手が震えるのを抑えられないようだった。しかし、慎重に並べ直される料理を前にして、当人であるアイリーンは満面の笑顔を浮かべている。
「アイリ。貴女、最近よく食べるようになりましたね」
「そうですね……身体を動かすようになってからかしら? 料理がとても美味しくて、いくらでもお腹に入ってしまうんです」
「健啖なのは結構ですが、程々にしないと太りますよ?」
「うぇぇっ!?」
「アイリ、貴女まさか……」
「だ、大丈夫です。大丈夫ですよ、お母様っ! むしろ身体は引き締まったくらいですからっ」
オタオタと両手を前で左右に振りながら、否定をするアイリーン。疑惑の拭えないゼノヴィアの視線がパメラの方へと向けられる。彼女はすぐにゼノヴィアの視線の意味を理解した。
「そうですね。何着か着用出来なくなったお召し物があります」
「パ、パメラッ! 裏切り者ーっ。人でなしーっ!」
「アイリ様。私は人でなしの部類ですが、決して貴女を裏切るような事はしません」
「そういう所っ。からかってるの分かってるんだから」
2人のやり取りを見てゼノヴィアは頭を抱えた。アイリーンが淑女として程遠い姿を見せる場面は少なくないが、ゼノヴィアには最近、特にその傾向が強く感じられた。
「アイリ。貴女は今年で15になるのでしょう? もう少し振る舞いに意識を向けなさい」
「その……ごめんなさい。気をつけます」
「今日の名代でも、まさかそのような様を見せたりしてないでしょうね?」
「そこはご報告した通り、なんの問題もなく務めさせて頂きました」
「その言葉を信じるにたる、振る舞いを期待します。それと、体型の管理ぐらいなさい。婚約は解消されたのです。太りすぎると、貰い手がなくなってしまいますよ?」
「あの、お母様。お言葉ですが、私、本当に体型は前よりも引き締まったんですよ?」
「ですが、何着かドレスを無駄にしたんでしょう?」
「そ、それは、背丈が少し伸びたからです。あと……」
言い難そうに両腕を胸に回して、膨らみを押さえるような仕草をする。栄養がそこへ集まってしまうのは家系か。その仕草でアイリーンがなにを言いたいかを察したゼノヴィアは、大きく頷いた。
「背筋を張りなさい。エウレシアの男性の多くは、豊かな胸を好むものです」
「それは……マテウスもですか?」
「アイリ。あの人の名前を、他の者がいる前で出さないようになさい。あの人に迷惑がかかります」
「はい、分かりました」
ゼノヴィアの忠告に、アイリーンは口を噤む事でその答えとした。王族の女の口から男の名前が出たなどという風潮は、立たせないに越した事はない。だが、肩を落としてしまったアイリーンを見ると流石に言い過ぎたと、ゼノヴィアは反省した。
「ごめんなさい。少し言い方がキツかったかしら……」
「大丈夫です。お母様の仰る事は正しいです」
「ありがとう。そうね……多分、好きよ」
「えっ?」
「あの人の話よ。気になるなら直接聞いてみなさい。案外あっさり教えてくれるんじゃないかしら? あの人がどう答えたか……私にも教えてくださいね?」
寛いだ、朗らかな笑みを浮かべるゼノヴィア。彼女は食事そのものよりも、こういった時間の方が今の自分には必要なのだと自覚する。また、マテウスとも直接顔を合わせてゆっくりと話をする機会を持ちたい。立場や状況などを差し置いて、素直にそう思えるほどに彼女は疲弊していた。
「この胸のせいで身体を動かすのは大変だし、すぐ汗を掻いちゃうし、ドレスも選ばないと太って見えちゃって大変な事ばかり。なのに、あの人にまで好きじゃないって言われたりしたら私……少し嫌です」
「アイリ。1つ忠告しておきますけど、あの人は貴女の未来の夫にはならないの。余り入れ込み過ぎると……後が辛いですよ?」
「未来の夫だなんて。マテ……あの人は私の騎士で、ずっと傍にいて欲しいけど、夫だとかそういう関係では……」
アイリーンは王女として結婚相手の選択肢がない事を、既に覚悟していた。義姉の2人がそうだったのだ。自分だけが特別という訳にはいかない。ただ騎士としてマテウスには傍にいて欲しい。そして出来るならば、彼に自身を好きでいて欲しい……そういった意味での発言だった筈だ。アイリーンは言い聞かせるように自分の胸に手を当てるが、よく分からないモヤモヤとした感触が残った。
「話が長引きましたね。食事が冷めてしまっては、美味しく頂けないわ」
「あっ、そうですね」
「私の分まで、お願いします。勿体無いですもの」
「勿体無いって、なにがです?」
アイリーンが食事を切り分けながら、再びゼノヴィアに向けて顔を上げる。生まれながらの王族であるアイリーンは、自らが人より裕福で、高貴な血筋である事は教育で自覚していた。だが、貧富の差に関わらず、食事程度は自然に並べられるものだと、勘違いを起こしていた。飢えという概念を体験せず、教育されず、理解するのは難しい。
貴族としてならば、こういう感覚の方が一般的で、ゼノヴィアの発言の方が浮世離れしていた。わざわざ娘を変人に育てようとする親はいない。だからゼノヴィアも苦笑を浮かべるだけで、内心を伝えようとはしなかった。
「いえ、なんでもありません。今日は名代、お疲れ様でした。明日はゆっくり休養を取るといいでしょう。おやすみなさい、アイリ」
「ありがとうございます。お母様も、あまり無理はなさらないでください。おやすみなさい」
お互いに会釈を交わすと、アイリーンは食事へ、ゼノヴィアはダイニングを離れて書斎へと向かう。アイリーンに無理をするなと言われた直後ではあったが、次の予定を考えると、ゼノヴィアはまだまだ横になれそうになかった。