誰が為に昇る日その1
カヴァテットの蹄はマテウスを捉える事が出来ずに、石造りの通りを叩き付けて、その周囲に破砕を撒き散らす。それ等は一斉にマテウスの背後から迫るが、彼はそれを凌駕するスピードでもってカヴァテットの後ろ足を駆け抜ける。
駆け抜けざまに右後ろ足、振り向きざまに左後ろ足、それぞれの腱を一瞬で切断したマテウス。後ろ足の支えをなくしたカヴァテットが地面へと崩れ落ちていくが、彼は既に上空へ飛び立っていた。
「ヴゥゥォォォォォォォォオオオォオォーーーーーーォ!!」
両足に抱えた痛みの所為か、うつ伏せに倒れたまま顔を上げて、心なしか悲しい咆哮を発するカヴァテットの遥か頭上で、マテウスは黒閃槍の中央を右片手で握り締めて、担ぐように構えていた。
それは投擲の構え。マテウスが行う全力の理力解放に呼応して、黒閃槍の穂先が黒い太陽のように、かつてない強い輝きを放つ。
「離れていろっ!」
周囲への一応の配慮として声を掛けたマテウスだったが、カヴァテットを囲んでいた衛士達が十分に離れきる前に、黒閃槍をカヴァテットの背中に向けて全力で投げ付けた。
黒閃槍の穂先がカヴァテットに触れた途端、カヴァテットの半身が蒸発したかのように搔き消えた。カヴァテットを貫いた黒閃槍は地面へ突き刺さり、黒い閃光で周囲を照らした瞬間、小爆発を起こす。
これが黒閃槍の本来の使い方。穂先から放つ黒い光は木漏れ日程度の力でしかなく、直接相手へ叩きつける事によってその真価を発揮する。投擲武器として使うが故に、投げた後の回収に使い手の意志によって宙を移動する事が出来るのだ。
爆風に晒された衛士達が、巻き添えになって四方に吹き飛ばされる。そんな混乱の中でカヴァテットの首が、強い閃光と強風に晒されて、馬上で身を硬くしているアイリーンとバルド目掛けて吹き飛んで行くのを、マテウスは視界の隅で捉えた。
マテウスはすぐさま、空気を蹴りつけて移動を始める。アイリーンが迫るカヴァテットの生首に気付いて、目を見開いた。彼はその眼前に移動して、両手剣を真っ直ぐ縦に振り抜いて、生首を真っ二つに両断した。両断された生首は、アイリーンの左右を抜けて遥か後方まで転がり、流血しながらその形を崩す。
誰もが一体なにが起こったのか事態を把握出来ずに声を失う中で、冷静に全てを把握しているマテウスだけが、ゆっくりと武器を納めていく。アイリーンに背を向けたまま、騎士鎧化を解き、その端末である儀典用片手剣をホルダーにしまった。
(これで黒閃槍の理力倉も尽きて、騎士鎧<ランスロット>も1戦もたないぐらいか。もしここでまだ姿を見せないもう1人の教官や、バルドの裏切りがあれば、アイリーンを守るのは難しいな)
愚かな話だ……マテウスは自嘲する。勝手に色々抱え込んで、勝手に苛立って、無関係な者に八つ当たりのような戦いを挑んで、己を窮地に落とす。現状の自分を、マテウスはそう分析していた。
(だが、これだけの力を見せておけば、そうそう俺の目の届く所で動いたりは出来ないだろ? それにまぁ……)
「はぁー……すっきりしたぜ」
この騒動の間中、相手や誰か、その次の事を考えながら戦い続けていたマテウスだったが、今回に限りその全てを放棄した。そしてその事実を、偶には後先考えずに、思いっきり剣を振る事に没頭するのも必要だと、自分は一介の騎士でしかないのだからと、そう開き直って忘れる事にした。
そうした後、マテウスは振り返る。振り返った先では、バルドがその美しい容貌を崩さぬように強張った表情で、アイリーンが恐怖と別のなにかが混じった複雑な表情で、それぞれが少し身体を震わせながらマテウスを見詰めていた。
「お待たせしました。事態を収束させましたので、御2人の護衛として、王宮まで従います」
2人の前で膝を着いてそう告げるマテウス。忠義を示す姿勢でありながら、バルドは彼に対して、圧迫を覚えるほどの畏怖を覚えた。逆らえば自分もああなる……身体の半分を失い、首を両断された巨大な死体を見ながらそう思った。そういう意味ではマテウスの目論見通り、彼は他の答えを選べなかった。
「……マテウス卿。卿の護衛を許そう。後ろを任せる故、しっかりついて来るといい」
「仰せのままに」
「マテウス……あの、私……」
アイリーンの声は声になりきる事も出来ず、黒閃槍とパメラを拾いにその場を立ち去ったマテウスの耳には届かなかった。本来なら、バルドの腕からも自らを助け出して欲しい……そう願いたかった。しかし、立場上それが出来ない事は理解していたし、なによりマテウスがカヴァテット相手に戦った光景に、自らが恐怖を覚えた事を、己の声の小ささで自覚してしまった。
その事実を認めたくなくて手を伸ばそうとするが、マテウスとの距離は近いようで遠く、決して届かない。今現在の2人の心の距離であるかのように、立ち塞がる。
遠ざかるマテウスの姿を目で追いながら、いつか彼の横に味方として並ぶ日を再び誓いなおす。マテウスから目を離して、己を奮い立たせるように背筋を伸ばし、毅然と前を見据えた。
今はマテウスに背を向けたまま、彼に声を掛ける資格もなく恐怖に震えた今日の自分から、明日少しだけ強くなった自分を目指す為に。
―――数時間後、早朝。王都アンバルシア中央区、パーソンズ邸内
カナーン襲撃失敗。その事如くが異端審問官に捕らえられ、王女殿下を取り逃がし、マテウス・ルーベンスも殺し損ねたという報告を聞いて、ノーランパーソンズ社社長、ハンク・パーソンズはこの場から逃れる準備をしていた。
「くそっ、くそっ! なんで俺がこんなっ……俺だけがっ、ちくしょうっ!」
ハンクの自室は強盗にでも押し入られたかのような惨状だったが、それは全て彼自身がやった事だ。この部屋に戻って来れるのは暫く先……もしくはもう2度と帰ってこれないかもしれないハンクにとって、部屋の美観などさしたる問題ではなかった。
ただ当面の生活に必要な物と、入るだけの資金をトランクに押し込む作業に没頭していると、部屋の扉をノックする音が鳴り響く。反射的に身体を跳ねさせながら振り返ると、半開きの扉から男がこちらを覗いていた。
「おやおや……これはお取り込み中でしたかな?」
男はベルモスク人だった。刈り上げられた黒い短髪と、切り揃えられた顎鬚、年輪を感じさせる皺の寄った顔立ちは、威厳すら感じさせたが、特徴的に丸っこい柔和な瞳が、彼の纏う雰囲気に僅かな愛嬌を抱かせている。そんな男だった。
「なっ……なんだ? お前は。外には見張りがいた筈だろうっ。どうやって入ってきた?」
「どうやってって……こうですかね」
半開きの扉を完全に開いてベルモスク男が身体を退けると、見張りに立てていた手下の2人が床に倒れているのが見えた。それを見てハンクはたじろぎながら、男と距離を広げた。
「それより残念だな。私と貴方は初対面じゃない筈なんですが……覚えてませんか? ほら、王女誘拐に際してジェローム卿とドミニクと貴方、綿密に計画を練っていたあの日ですよ。デニスと自己紹介もさせて貰ったのですが……その様子だと、これも覚えておらんのでしょうな」
デニスと名乗った男が口にする通り、確かにこの男はその現場にいた。だが、自己紹介を終えた後の彼は、3人の話しに口を挟まずに見守っていただけだったので、ハンクの印象には部下の1人程度としか残らなかったのだ。そうでなくとも、ベルモスク人である彼を記憶に止めるのに容量を割くほど、ハンクは平等主義ではなかった。
「はっ? し、知らん。例えそうだとしても、それが貴様がここにいる理由にはならないだろうっ。作戦はどうした? ここになにをしに来たんだ?」
「質問が多いですね。まるで子供のようだ。少しは御自身の胸に手を当てるなどをして、考えてみては如何ですか? まぁそれも移動しながら……という事になりそうですが」
「移動しながら、だと? 行かん、俺は行かんぞっ。俺はまだやりなおせるんだ。王都から離れて、リンデルマン侯の助力を仰げば、身の1つや2つ立て直す事ぐらい……」
「おや。それならば好都合という訳じゃないですか。私は貴方に手を貸す事が出来る」
「どういう事だ? 貴様がリンデルマン侯の使いだとでも言うのか? 信用できるかっ」
「信用するしない、自由にしていただいて結構なんですが……ここからの貴方に別の選択肢があるとでも?」
デニスがまた1歩近づいてくるのに対して、ハンクは後ずさりしながら彼の言葉の意味を考えていた。ハンクに敵の装備や実力を見極める力はなかったが、彼が立てていた見張りを此方に気付かせぬ内に処理できる程の腕がある事は確かだ。そんな相手と争えばどうなるか、火を見るより明らかだ。
「大人しく着いて来ていただければ、危害を加えるような真似はしません。ジェローム卿のようには、貴方もなりたくはない筈だ。違いますか?」
「ジェローム卿のように、だと? なんでここでジェローム卿の名を出す? まさか……貴様が彼を殺したとでも言うのか?」
デニスはハンクの質問に答えようとせず、ただただ静かにハンクを見詰め返す。デニスの瞳はただ、自分の質問に対しての回答しか求めていなかった。
(コイツがジェローム卿を殺さなければ、俺はこんな目に……)
ハンクの胸に小さな殺意が宿るが、到底敵う筈もない相手への殺意は、すぐに虚しく消え去る。それよりも、リンデルマン侯の使いと名乗るデニスというこの男が、ジェロームを殺したという事実の方が、彼にとっては重大であった。
「わ、分かった。貴様……いや、君に着いて行けばリンデルマン侯に面会できるのだろう? それならば俺にとって是非もない」
「それは良かった。馬車ならば此方で用意しているので、どうぞ私の後に着いて来てください」
デニスに着いて移動した先でハンクが見た馬車客室には、大きく直立した黒獅子の紋章が刻まれていた。見間違いようのないリンデルマン侯爵家の紋章を前にして、ハンクは息を呑みながら足を止めた。
「さぁ、どうしました? どうぞ、中へ」
いつの間にかハンクの背後に潜んでいたデニスが、彼の肩の後ろから喉の奥を震わせたような低い声で囁く。慌てて振り返りながら、呻き声にしか聞こえない返事を上げたハンクは、開け放たれた馬車客室への入り口に、まるで地獄の門をくぐるかのような、言い知れぬ不安を抱いていた。