禍々しき黒衣の騎士その1
―――同時刻。王都アンバルシア東区、グリニッチ市場
夜のグリニッチ市場は、昼の喧騒が嘘のように静かだった。市場に立ち並ぶ商店の全てが、日が暮れると共に店を閉めてしまう為である。理力の光を灯す街灯もない為、普段ならば星と月明かりが街並みを照らすだけの、静かな場所であった。
だが、今夜はその限りではない。夜陰を切り裂くように、家屋の上を駆け抜ける1つの影。影の名をパメラ・リネカーと呼んだ。女使用人姿のパメラは、銀色のツインテールを揺らしながら、家屋の上から空へと飛び立つ。
死出の銀糸を理力解放。彼女の右腕から伸びた銀糸が、通りを挟んで対岸の家屋の屋根へと喰らいつく。銀糸は飛翔するような速度で、落下中だった彼女の身体を運んだ。その場には誰もいなかったが、もし見る者がいれば、彼女の事を自在に空を舞う鳥のようだと評しただろう。
そうしてパメラは通りを挟んで、家屋を渡るようにして移動し続けた。時に中空で姿勢を制御しながら、地に足つけぬままに通りの上空を飛び交う姿は、木々を腕だけで渡り歩く猿の動きにも似ていた。
そんなパメラの耳に、風切り音とは全く別の音が届く。顔を上げた彼女の視線の先に、2頭立て馬車が駆けていた。周りにはその護衛であろう、騎兵の姿も見える。彼等は足元だけが照らされた不自由な状況にも関わらず、けたたましい足音を立てて、異様な速度で通りを駆け抜けていた。
(ようやく、見つけました)
標的を視界に捕らえた瞬間、パメラは死出の銀糸を使って今宵、1番空高くまで己の身体を打ち上げた。刈り取るべき獲物の影を視線で追いながら、ロングスカートをたくし上げる。
パメラは産毛すら生えていない、鍛え抜かれた白い右太股に、銃のホルスターのように縛り付けてあった死出の銀糸の理力倉を、その予備と交換しておく。孤児院での戦闘中に交換を終えていたので、これまでの移動に消費した理力を考えても、まだ1回は戦闘を行う程度の余力は残されているが、敵に粘られた際に理力切れを起こして、敵前で理力倉の交換を行う羽目になる事を防ぐ為だ。
交換した理力倉を薄い胸元の内側に隠されたホルダーに直して、頭を下にして自然落下。もう1度標的である馬車が引く客室を見据えた。中の様子は伺えないが、あの客室付き馬車はアイリーンが親衛隊兵舎に乗りつける際に使った王家のモノだ。それがパメラには見えずとも、あの中にアイリーンがいるであろう事を確信させる。
まずは護衛の排除……そう決意したパメラは、表情こそ変化しなかったが、彼女の纏う空気が一瞬で変化する。全ての感情を排除しながらにして、強烈な殺気を身に纏うパメラが狙った先は、客室の天井。右腕の先から客室天井へと、死出の銀糸の先が喰らい付くと同時に、パメラの滑空速度が跳ね上がる。
スピードに乗った段階で、自身と客室を繋いでいた死出の銀糸を離す。彼女の狙いは、馬車の後ろを並走する騎兵2人。降り注ぐ死となって2人の間に舞い降りたパメラは、すれ違いざまに中空で独楽のように身体を回転させながら、銀糸を振り回す。
2人は自らがなにに狙われたのかすら理解出来なかっただろう。死の運命すら感じる間もなく、細切れの肉片にされて死亡する。
殺した相手を確認する事もなく、パメラの銀糸が再び客室を捉えて、その身が地上に叩きつけられるのを回避した。地面に足が触れるほどに迫っていた所から、再び客室天井へと向けて空を舞い上がる。
少しでも行動に遅れが生じれば、パメラ自身が死を免れない上位装具。彼女はそれを涼しい顔で、自らの手足のように使いこなしていた。
客室天井に右手から着地したパメラは、その場に両足と右手を着いたままの姿勢で前を向いた。前を走る2人の騎兵が振り返って視線が合う。その時点でようやく2人は異変が起こっているのに気付いた。
異変に気付いて素早く、彼等は小銃型装具に手を伸ばそうと動き出すが、パメラはその上を行く速さで死出の銀糸を両手から伸ばしてた。腕と手首を繊細に動かす事によって、2人が装具を構える前に縛り上げる。そのまま縛り上げた2人を、後方へ向けて投げ飛ばした。2人の悲鳴が夜の帳の向こうに掻き消えて、パメラの当初の予定通りに護衛4人全ての排除が完了する。
「上っ? なんだっ? 一体何処からっ!?」
残されたのは間抜けに声を上げる事しか出来ない、御者の男だけだ。御者席に座る彼からでは、角度的にパメラの姿を捉えられず、戸惑っているようだった。だがそれもあと僅か……パメラに敵に対する慈悲の感情など備わっていなかったが、彼の戸惑いを解消してやる術ならば、幾らでも有していた。
静かに右腕から垂らした死出の銀糸を御者の男に伸ばそうとした時、足元の客室の中から、間延びした女の声が放たれる。
「いーいからアンタはー、死ぬ気で走らせなー。止めると承知しないぞっとっ!」
パメラの背筋を凍らせるような殺気が、反射的に彼女を後退へと選択させた。パメラがバックステップで客室から飛び降りた直後、彼女の姿があった場所を下から貫いた無数の火球が通り過ぎていく。
粉砕した天井から上半身だけを覗かせたのは、ヴィーノに教官と呼ばれていた女。右腕のライフル型装具ドラゴンイェーガーを携えて、口の端を大きく開きながらニタニタと笑みを浮かべ、パメラに狙いを定めなおした。
「すごーい。アレに反応するんだーっ! 他のショーグンの部下とは違ってー楽しめる感じっ? アハハッ」
馬車後方に消え行くパメラに向けて、女は高らかな笑顔を見せた。だがパメラには、彼女に笑顔を返す義理も時間もなかった。パメラは死出の銀糸を右腕から客車に向けて放つ事によって身体を中空で支え、女を排除しようともう1度馬車へと向けて強襲する。
しかし、それを受けた女のドラゴンイェーガーが火を噴いた。パメラの軌道を読みきっての偏差射撃。パメラは咄嗟に通り左の横家屋に、左手で死出の銀糸を飛ばして、軌道を変化させる事で火球を回避する。
パメラが家屋横壁に両手両足で張り付き、目標を見定め直した瞬間、追撃の火球が彼女に迫る。それを受けての、パメラの対応は早かった。壁面に足跡を残しながら、力技で家屋を駆け上ってそれを回避。再び女に視線を向けるが、それ以上の追撃の気配がない……ドラゴンイェーガーが理力切れを起こしたようだ。
敵は理力倉の交換を要する……その隙に気付いたパメラは、再び攻勢に転じた。対岸の家屋壁面に向けて、女の上空間近を通り抜ける角度で死出の銀糸を飛ばす。すれ違いざまに女の首を掻っ切る……そう腹に決めて真っすぐ迫ったパメラの目が、驚きに見開かれた。女が客室の中から2本目のドラゴンイェーガーを取り出したのだ。
油断し、真っすぐ獲物を狙う瞬間の猛禽など、止まっている標的と変わらない。咄嗟に軌道を変えようとパメラは試みるが、今度ばかりは間に合わず、真正面からドラゴンイェーガーを受け止めるよりなかった。
「当ったりー。少ーし、楽しめたけどー、やっぱり大した事……」
ドラゴンイェーガーから放たれた火球は、パメラに直撃して爆発。パメラも粉々になっただろうと、女は勝利を確信して声を弾ませたが、まだ消える事のない殺気に気付いて馬車後方を振り返る。
そこには客車の底に死出の銀糸を繋げながら、半ば馬車に引き摺られるようにしてなんとか食い下がるパメラの姿があった。この光景に、女はまた口の端が避けたかのような、薄気味悪い笑顔を浮かべる。それは賞賛を意味する笑みであった。
そもそもドラゴンイェーガーはその貫通力の高さで、攻城戦や塹壕戦での膠着打破に選択される、高威力の下位装具だ。それを人が正面から受け止めれば、肉体を貫かれて死亡するのが摂理。爆発など起こりようもない。
パメラは両腕に常時撒きつけている死出の銀糸を硬化させ、火球を受け止める事によって、なんとかその摂理に抗って見せたのだ。
しかし、その代償は大きい。受け止めたパメラの両前腕の袖は弾けて、肌が爛れ、肉が抉れて覗いていた。体中に無数の擦り傷を残しているのは、着地の際に地面に打ち付けられ、馬車に引き摺られた為だ。
だがそれでも彼女は、水上スキーのような体勢で身体を起こして、馬車に引き摺られながらもステップを繰り返して距離と姿勢を保ち、次なる手を考えていた。下位装具とはいえ、あの威力特化したライフル型装具の直撃を何度も受けていては、パメラとて身が持たない。客室にアイリーンがいる為、馬車自体にダメージを与える選択は余りしたくなかったのだが、そうもいってられないようだった。
「速度もっと上げてー。そんでちょっと左右に振ってみようかー」
「そんな事したら、横転するんじゃないっすかぁっ!」
「いーいからー。言われた通りにやってよ、もー」
「はっ、はいっ!」
女の指示に御者は、馬車の速度を更に引き上げた。続けて指示通りに車体を右に彼が振れば、後ろに繋がれてるパメラも大きく通りの右に振られて、通りに面して配置されていた露店に突っ込む。
パメラは商品在庫を抜かれた屋根付き露店や荷車に身体を激しく打ちつけられて、堪らずに逃れようと左手から伸ばした死出の銀糸で上空へ舞い上がった瞬間、女の手によって狙い定められたドラゴンイェーガーの火球が、再びパメラに襲い掛かる。
角度を予測して、飛び立つ瞬間を狙い定めた1発は再びパメラの身体を捉えたが、パメラとてこの瞬間の軌道が単調で、1番無防備である事を自覚していた。あらかじめ予測して身を捻り、掠めるようにして火球を回避する。
しかし、ドラゴンイェーガーの火球は掠めただけで、人の身を抉る事すら可能な高威力の一撃。パメラはその衝撃に中空で身体をよろめかせ、着地に失敗。家屋壁に全身を叩きつけられて、失速する。
ここで意識を手放して倒れる事が出来るならば、どれだけ楽であろうか。だがパメラは、不死身の殺人マシンを思わせる不屈さで、無表情のまま再び馬車に狙いを定めて、左手から馬車底部へと向けて死出の銀糸を放った。
再び馬車後方へと追い詰められたパメラは、最終手段を選択した。両足を大きく広げて地面へと着地。石造りの路面の上を滑る彼女のパンプスの底が、一瞬にして擦り剥けていく。しかし、一刻を争う状況ではそんな事は些事でしかない。
「はぁー? 一体なにを同じ事ばっかしてんのー?」
彼女の右手から放たれた死出の銀糸が、馬車後輪の車軸に絡みついた。その時点でのんびりとした声を上げていた女は、パメラの狙いに気付いてドラゴンイェーガーをパメラへと向け直すが、パメラの行動の方が一瞬速かった。
パメラは車軸後輪に絡みつく死出の銀糸に、理力を注いで膂力を増すと、力技で車軸ごと後輪を引っこ抜いた。突然後輪を失った馬車は、車体後部を地面へと打ちつけられる。その衝撃で客室から顔を覗かせていた女と、御者の男は、それぞれが客室と御者席から強制的に弾き飛ばされた。
パメラの頭上を女が通り過ぎていくが、彼女への追撃をパメラは選択出来ない。客室が横転しないように、アイリーンが飛び出したらすぐにでも救い出す為に、左手から客室へと繋いだ死出の銀糸に集中力を割いていたからだ。
やがて客室と御者がいなくなった異変に2頭の馬が気付いて、嘶きを上げながら足を止める。引き摺られ続けていた客室は、底部を半壊させながらもその形を保ち、しばらくの後に動きを止めて辺りに静寂が広がった。