プロローグその3
「誰だ? なにか用事か?」
「私だけど……オジサンに会わしてくれって人が来てるよ」
マテウスが声を返すと、扉を開けて顔を覗かせたのはヴィヴィアナだった。その表情が少々不貞腐れて見えるのは、彼女の心の中に、なんでこんな使い走りみたいな事を自分が……といった思いがあるからだろう。
ヴィヴィアナは笑顔などの喜びの表現は下手な割りに、そういう感情は付き合いのないマテウスに読み取らせる程、如実に顔色に浮かべる女だった。マテウスはそれに気付かないようにして立ち上がり、部屋の外へと出る。
「さて……誰だろうな」
「治安局の人。ダグって言ってた」
マテウスは名前を聞いてすぐに誰であるか思い至った。前回は異端審問官シンディーの案内役と、情報提供の為に姿を現したダグだったが、それきり彼と連絡は取っていない。特別になにかを任せていた記憶もないので、今回の訪問の理由までは分からなかった。
面倒事でなければいいのだが、と思案を廻らせながら歩いていると、隣に並ぶヴィヴィアナの鋭い視線に気付いた。彼女は騎士として入隊を承諾しながらも、未だにマテウスをこういう敵意のある眼差しで睨むので、彼としてもいい加減慣れてきている。だから、その後の反応も自然に出来た。
「なんだ? なにかあるのか?」
「アンタさ。まさか、私のした事を治安局に話したりしてないよね?」
「んっ……未登録営業の事か? あれなら、むしろ俺としても揉み消したいくらいだよ」
王女殿下の親衛隊騎士になろうという者が、法を犯していたという過去を持っているのは、醜聞が過ぎるが、その心配には及ばないとマテウスは考えていた。
ヴィヴィアナを取り囲んでいた男達。エステルから話を聞いた限りでは、商会傘下の武力である、自警団だとマテウスは見ていたが、彼女等に簡単にあしらわれる相手となれば下の下。まだ商会がそれ程に重要な取締り相手として、ヴィヴィアナを見ていなかった証拠だ。
そうであるならば、継続して商売を続けない限りは相手も目くじらを立てたりはしまい。あしらわれた男達も、多少のプライドを備えているのであれば、女子供に蹴散らされたなどと、自ら広めたりはしないだろう。
エステルが起こした奴隷解放の件も、奴隷商人達が商会に報告を上げれば問題になるが、これもそうはならないとマテウスは踏んでいた。何故なら、奴隷商人達が行っていた行為は、誘拐であり、脱税であり、暗黙の了解で見逃されているとはいえ、治安局や自警団に報告すれば、彼等こそが捕まえられる可能性があるからである。
まぁ解放先として迷惑をかけてしまった孤児院と治安局には、エステルを連れて謝罪しにいったのだが。まさかこれがダグの訪問の理由だろうか? とにかくマテウスからすれば、自警団や奴隷商人達からの現実的ではない糾弾よりも、保護者という立場が板についてしまいそうな事の方が怖いという事だ。
「ふーん……なら、いいけどさ」
立ち止まってそれらの事を説明してやると、一応は納得したようで、ヴィヴィアナはその剣呑としたその雰囲気を少し穏やかにして、再び歩き出す。
「でも、あんまり調子に乗らないでね。私は姉さんの為に親衛隊騎士になっただけで、アンタの事、認めた訳じゃないから」
「別に俺を認める必要はないんじゃないのか? 騎士として、我等が主である王女殿下をお守りしてくれればそれでいい」
「っ! 後っ……その、姉さんに手を出したら許さないから。今朝も言い寄られて鼻の下伸ばしてたよね? 男って、これだから嫌っ」
「君の姉さんは魅力的だからな。これ以上鼻の下を伸ばされないように精々気をつけるよ」
暖簾に腕押し。なにをどう挑発しても、のらりくらりと煮え切らない態度のマテウスに、苛立ちの消化不良を起こしたような嘆息を吐き捨てて、変な奴……と、小さく呟いてそれきり視線を合わせようとしないヴィヴィアナ。
先が思いやられるな。そう心の内で零さずにはいられないマテウスだったが、口には出さずに彼女の背中を黙々と追った。向かう先はシンディーを迎えるのに使った事もある、応接室。中に入ろうとすると、その前に会話が聞こえてくる。
「治安局で班長を……ずいぶん立派なご職業をなさってるんですね。尊敬しちゃいます」
「いやぁ。ロザリアさんの方こそ、教師だなんて。それほどの美しさの上に聡明だなんて、男が黙っちゃいなんじゃないんですか?」
「やだぁ~。お上手なんですから。私のような20歳を越えた女なんて、もう誰も相手してくれなくて……だから私、本気にしちゃいますよ?」
室内では、案内されたダグの相手をロザリアがしていた。レスリーとエステルは外で訓練中なので、ここには彼等2人きりだ。仕草1つ1つに濃密な甘い香りを放つロザリアの言動。あれだけあれば、ダグの前へ差し出された紅茶に、砂糖は不要だろう。鼻の下が伸びた顔というのはこういう表情を指すのかと、ダグの顔を標本にでもして展示したくなる気分のマテウス。その横からヴィヴィアナが、姉へと肩を怒らせながら近づいていく。
「俺は既に本気です。ロザリアさん、もしよろしければ今度の休みにデート……」
「ね・え・さ・んっ!」
「きゃっ。見つかっちゃった。ヴィヴィ、そんなに怖い顔してどうしたの?」
「姉さん、紅茶を出したんならもう用事ないよね? なら、オジサン達の話の邪魔になるから行こうか。午後から座学だし、部屋で休んでいていよ」
「あん、そんなに強く手を引かないでよ。ごめんなさい、ダグさん。お話は、また今度。ふふっ」
ヴィヴィアナに無理矢理に手をつかまれて、引きずられるようにして歩く間すら、自分を可愛く見せる仕草と表情を忘れないロザリア。それを見送るダグは、伸びた鼻の下が床に着きそうな程のだらしない表情で、口を半開きにしながら手を振っている。
今朝の様子から分かっていた事だが、ロザリアはこうして男をからかうのが好きなのだろう。いちいち反応を示して、こうはなるまいと、ダグの顔を見ながら自戒するマテウスだった。
「マテウスさん、ロザリアさんは騎士ではないんですよね? 俺が貰っても問題ないんですよね? あぁ、ロザリアさん。なんて美しい……これこそ運命の出会い」
「まぁ、俺は彼女が教師を続けてくれさえすれば問題ない。それより、ダグ。なにをしに来たんだ? まさか、婚活という訳ではないんだろう?」
「あぁ、そうだった。すっかり本題を忘れるところでしたよ」
女が絡むと男は変わる。マテウスはダグに抱いていた真面目な印象が少し崩れていたが、こちらの方が人間味があっていい、とも思っていた。ダグを庇うようになるが、このやりとりは彼が特別女にだらしない訳ではなく、ロザリアがどんな男がこうなっても仕方ない程に美しく、男心を擽るのに長けているだけだ。
男嫌いの妹に、男(を誘惑するのが)好きな姉。酷いバランスの取り方である。マテウスとしてはトラブルを起こしてくれるなよ、と、心の内で祈るばかりであった。
「奴隷解放の件です」
「まさか商会を通して訴えがあったのか? いや、それなら君より先に自警団の方が顔を出す筈だが……」
マテウスは自分の考えが浅はかであったか? と、緊張を走らせる。ヴィヴィアナに説明した推測は、あくまでマテウスの理屈だ。筋が通ろうが通るまいが、理屈に沿わぬ暴挙を感情的に行う輩は往々にして存在する。奴隷商人達がそういう輩ではない事を証明する材料も、否定する根拠も、マテウスは持ち合わせていなかった。
「ご安心ください。むしろ、今回の件は褒められるべきでしたよ。彼等はクロップカンパニーといって、商会登録済みの正規奴隷商人なんですが、限りなく灰色に近いやり方で、業界では有名な存在らしいです」
「驚かさないでくれよ。まぁ貧民街とはいえ、人攫いまがいの事にまで手を出していた連中だからな……余罪はいくらでもありそうではあるが」
「担当部署が違うので詳しくは知らないんですが、巷を騒がせた誘拐事件も彼等が噛んでいたとか。ただやはり、正式に奴隷として売買成立させた者に関しては、治安局としても自警団からの通達に応じるしかありませんでした」
エステル達が助けた奴隷達の内、半数はそうやってまた奴隷に身を落として、売られるのを待つだけの日々に戻るのだろう。それでも彼女はまた助けると言うのだろうか? マテウスが考えた所で無意味な事だと、静かに思考を消した。
「中にはドレクアン共和国からの難民も混じってましたよ。あちらの内戦が酷いんでしょうね。強制送還するのが本来なんでしょうが……」
「待ってくれ。ドレクアンは内戦中なのか?」
「ご存知なかったんですか? まぁドレクアン共和国が公式に一切認めてないんで、余り報道されませんでしたからね。2、3年前に軍部でクーデターが起きて、それ以来ほぼ内戦状態ですよ。彼等は西ドレクアンとして活動を続けているそうです」
ゼノヴィアの言葉に『お互い政情不安を抱えたまま……』というのがあったが、マテウスは聞き流していた。ダグも知っているという事は、報道に多少興味があれば周知の事実であり、ゼノヴィアもマテウスが知っている事前提で話をしていたのだろう。
2、3年前といえば、マテウスはまだ王都に身を置いておらず、国内を放浪していた時期。他国の報道など興味を示さなかったのが、ここで仇になったようだ。
ダグに詳しい話を聞くと現政権の優勢は間違いないそうだが、2、3年も内戦が続く事を考えるに、クーデターを起こした西ドレクアンにも賛同者が多数存在し、相当大きな勢力である、という事ぐらいしか彼にも分からないそうだ。
「すまん脱線したな。続けてくれ」
聞ける事を聞いた後にマテウスがそう告げると、ダグも素直に仕切り直す。
「いえ、大丈夫です。俺が伝えたかった本題に入りますと、そうやって奴隷として引き取られなかった者の中にね、いたんですよ」
「いたって……なにが?」
「名前はエミー。カールさんの娘です」
マテウスとパメラがカール邸で襲撃を受けた際、結局報告書には行方不明として書かれていたカールの娘。既に奴隷として売られているものとマテウスは推測していたが、まさかここでその名前を聞く事になるとは思ってもいなかった。不幸中の幸いではあるが、両親を亡くした少女に対して運が良かったという言葉を使うべきかどうかは、マテウスに躊躇われる所だ。
「エミーをクロップカンパニーがカナーンから奴隷として引き取ったとして、彼等は商会を通さずに直接やり取りしている可能性が高いのでは? と、考えたんですよ。クロップカンパニーがカナーンの情報を握っている可能性があるのならマテウスさんにも伝えておかねばと、ここに来た次第です」
ダグはそう告げたが、マテウスはそうはならないだろうと思った。クロップカンパニーが灰色まがいの商売をしているのなら、商会を通さずに奴隷をやりとりする機会は無数にあった筈だ。それらは相手の素性を詮索しないからこそ出来る商談。これを理由にマテウスは、クロップカンパニーが、カナーンに対しての情報を持っているとは思えなかった。だが彼は、この情報に別の使い道を見出す。
「ありがとう、ダグ。助かるよ。後、ひとつ確認したいんだが、クロップカンパニーが登録している商会というのはまさか、マクミラン商会か?」
「……おや? 確かにそうですが、俺が言いましたか? それとも既になにかをご存知で?」
「いや、そのどちらでもないが……そうか、マクミラン商会か。これは使えそうだな」
そう呟いたマテウスは嗜虐的な笑みを浮かべて、口元を隠すように手で覆い隠しながら、下顎を撫でる。その笑顔に、ダグの背筋に冷たいものが走った。彼はマテウスの事をそうよく知る人間ではなかったが、その表情から不穏な気配ぐらいは、十分に感じ取れた。